ep4.隠し縫い
エルヴは父の言葉を思い出す。
―『自然の肉体は神の仕立て。痕跡を残すのは人間の傲慢だ』
だから父は縫い目を隠した。皮膚の裏に、肉の中に、組織の内側に。
表皮の裂けた傷口の奥、結合された筋肉の輪郭を指先で追うまでもなく、その差異は明白だった。
肉糸は隠されることなく、皮膚の表面を美しく飾るように交差している。波打つ幾何学模様を描くその縫い目は、肉体を補強すると同時に、己の存在を強く主張していた。傷を消し去り、自然の造形へと還す「隠し縫い」の思想とは真逆の、誇示と装飾を至上とする「飾り縫い」の流派の技法。
あまりにも、縫い目が主張しすぎている。
「どうだ」
背後からメラディの足音が近づき、レッドドラゴンの鱗に覆われた首元からかすかな熱気が伝わってきた。
「父の仕立てではありません」
エルヴは視線を傷口に固定したまま、はっきりと答えた。
「何故だ」
メラディの真紅の瞳が細められる。エルヴは傷口の交差点に位置する、一筋の深い藍色を帯びた肉糸を指先で示してみせた。
「糸に魔石染料が使われています。このように縫い目を鮮やかに飾り立てるのは、父の仕事ではありません。父は傷を皮膚の裏側で処理し、糸一本見せない仕立てを徹底していました。飾り縫いを施すなど、父の流派ではあり得ないことです」
メラディはエルヴの指先と傷口を交互に見つめ、深く息を吐き出した。
「縫合帳を」
メラディが短く命じると、部屋の壁際に立っていたネフィラが素早く頷き、隣の縫合庫へと消えた。間もなくして、重い革装丁の台帳を抱えて戻ってくる。それは仕立て屋一人ひとりの縫製記録や独自の糸の結び目、施術履歴を厳重に記録した、縫籍院の公式な台帳だった。
メラディは台帳を台の上に広げ、父の真筆による縫合図説と、台の上の「崩解体」の縫い目を丹念に照らし合わせた。ページが擦れる乾いた音が響く。
「…なるほど。確かに運針の深さも、糸の隠し方も根本から異なっている」
メラディは台帳を閉じ、顎を引いた。だが、その瞳の奥にある疑念の火が消えることはなかった。
「では聞こう」
メラディは懐に手を差し入れ、小さな針箱を取り出した。カチリと蓋が開かれ、中から一本の骨針が露出する。輝く金色の針。根元には極小の格子模様が刻まれている。先日の事件現場から押収された、父のサインが刻まれた金の針だ。
「何故“これ”が出てきた?お前の言う通り父の仕立てでないのなら、何故この針が崩解体から見つかる?」
「…分かりません」
エルヴは喉の奥を丸めるようにして答えた。だが、指先を小さく握り直し、言葉を紡ぐ。
「ですが……父には弟子が多くいました。銀針堂を去っていった者たちが。そのうちの誰かが、父からその針を受け継ぎ、別の流派の技法と組み合わせて使っているのかもしれません」
「ふむ」
メラディは針箱を閉じ、ポケットへと仕舞い込んだ。
「弟子の名は分かるか?」
「何人かは。ですが、全員ではありません」
「では、知っている限りの名を挙げなさい。こちらでもその線を洗ってみる」
メラディは羊皮紙と羽ペンを取り出し、エルヴが口にするかつての弟子たちの名を一つひとつ書き留めていった。インクが紙に染み込む硬い音が途切れると、彼女はペンを収め、エルヴへ顎をしゃくってみせた。
「今日はここまでだ。帰ってよろしい。何か進展があれば、再び呼ぶ」
エルヴは頷き、ふとネフィラを見た。その背後、作業台に横たわる飾り縫いの“崩解体”が微かに動いた気がした。
エルヴは店に帰ると、足早に店の奥に向かった。作業場を過ぎ、地下へと続く扉を抜ける。手にした魔石灯が足元をほの青く照らす。地下へと下りる石段は、段を追うごとに湿り気を増していった。冷え切った空気が足元から這い上がり、薄暗闇の中で微かな冷気が頬を撫でる。
木製の重い扉を開けると、濃密な防腐剤の鋭い臭いが鼻腔を満たした。棚という棚には、かつて父が収集した魔物の腱や皮膚、肉糸の束が几帳面に積み上げられている。暗がりの奥には、幾種類もの魔物の乾燥骨格や部位素材が、静かに佇んでいた。
エルヴは手にした魔石灯のほの青い光を頼りに、積み上がった素材の棚をすり抜け、最奥の棚へと向かった。
その一角には、かつてこの銀針堂の門を叩き、やがて去っていった弟子たちの作品が保管されていた。木型と肉糸で人間の一部を模した素体や、耐久性を試すための強化骨格の見本が、埃をかぶって並んでいる。
エルヴは棚の前に立ち、木箱の中に収められた一対の作品に手を伸ばした。それは、人間の左右の前腕を忠実に模した素体だった。
エルヴは静かに左腕の素体を手に取った。指先に触れる感触は、生身の皮膚と見分けがつかないほど滑らかで柔らかい。側面の細い切り込みから表皮の裏側をそっと開くと、その脂肪層と筋肉の境界線には、極細の特殊な肉糸によって、緻密な魔法陣が幾重にも織り込まれていた。痕跡を一切表に出さない、完璧な「隠し縫い」の技法。
エルヴは表皮を静かに戻し、それを棚に置くと、今度は右腕の素体を持ち上げた。
こちらの構造は根本から異なっていた。表皮の裏ではなく、皮膚の表面そのものへ、鮮やかな緋色と藍色の肉糸が波打つ紋様となって縫い込まれていた。糸自体が魔力を帯びて微かに光を放ち、幾何学的な魔法陣を描いて前腕全体を装飾している。隠すのではなく、力と技術を外へと誇示する「飾り縫い」の息吹き。
エルヴは素体の手首に結びつけられた、黄ばんだ羊皮紙のタグを見つめた。
筆圧の強い、凛とした筆跡で記された名前。
―『レティシア・ベリス』
エルヴの姉弟子。
彼女は父のもとに集まった数多の弟子たちの中でも、頭一つ抜けた才能を持っていた。素材の目利き、手先の器用さ、運針の精度―そのどれをとっても、当時の弟子たちを圧倒していた。
だが、突出した才能を持っていたがゆえに、彼女は誰よりも早く悟ってしまったのだろう。どれほど研鑽を積もうと、己の頂点に君臨する師には永遠に届かないという残酷な事実を。
ゆえに、彼女は父の「隠し縫い」を捨てた。同じ糸を紡げないならば、その真逆の極致を目指すために。
エルヴは右腕の素体に刻まれた、色鮮やかな魔法陣の縫い目を、指の腹でそっとなぞった。
「レティ姉さん…」
静寂に包まれた地下倉庫で、エルヴの呟きが防腐剤の匂いの中に溶けていった。
翌日の午後、エルヴは店前に「臨時休業」の立て札を置いた。幸いこれからの施術の予定はない。彼は父の代から使っている銀の魔導車に乗り込むと手元の地図を開いた。赤い印をつけた店の名は「アトリエ・スカーレット」。それが目的地だった。
銀の魔導車が、規則的な駆動音を立てて大路の石畳を滑り出した。
車輪が切り出す小さな振動が、操縦桿を握るエルヴの掌へ伝わる。並木道の隙間から射し込む日差しが、磨かれた銀色の車体を鋭く反射させ、行き交う人々の影を流れるように映し出した。
大路の両脇には、高層の石造建築と、色とりどりの布地や素材を飾った店舗が連なっている。幾人かの市民が車内のエルヴに気づき、親しげに手を振った。銀針堂の仕立てを受けた者たちだ。エルヴは微かに片手を上げてそれに応えた。
魔導車の速度が落ち、目的地の前で停止する。
「アトリエ・スカーレット」。
石造りの壁面に、深紅の塗料で刻まれた看板が掲げられている。入口の両脇には重厚なガラス窓が嵌め込まれ、街灯の光を受けて華やかな陰影を作っていた。
扉を押すと、真鍮のベルが可憐な音を立てた。店内に入ると、空気の質感が一変する。
防腐剤の匂いは最小限に抑えられ、代わりに乾燥した麻と香料の匂いが満ちていた。壁面や棚には、色とりどりの仕立て見本が並んでいる。鮮烈な緋色、瑠璃色、黄金色の肉糸を用い、表皮の表面に細密な幾何学模様や魔法陣を織り込んだ“飾り縫い”の標本群。
カウンターの奥から、足音が近づいてくる。
「いらっしゃい、エルヴ。どうしたの?急に話って…」
店主のレティシア・ベリスだった。赤髪を後ろで束ね、金色の瞳をエルヴへ向ける。その両腕、肘から手首にかけての皮膚には、鮮やかな紅色の肉糸で蝶を意匠とした魔法陣が縫い込まれていた。
「実は…」
エルヴが口を開きかけた瞬間、店舗の奥の棚に置かれた円形の通話鏡が、チリンと高い金属音を響かせた。
「あ、ごめんなさい。エルヴ」
レティシアは鏡の元へと歩み寄った。指先が鏡面に触れる。
「はい、魔法陣の縫込みですね。ええ、色糸は青と金で。はい…承知いたしました」
鏡の向こうの依頼人と短い会話を交わすレティシアの背中を、エルヴは無言で見つめた。しばらくして通話が切れると、彼女は踵を返し、エルヴの元へと戻ってきた。
「待たせたわね」
レティシアの金色の瞳が、真っ直ぐにエルヴの顔を捉える。
「…近頃の“崩解”の件で」
エルヴは静かに切り出した。特務魔導士メラディとのやり取りや、押収された“金の針”、そして己の背の銀翼のことには一切触れなかった。ただ、街で偶然にも“崩解”の現場に遭遇したこと、そしてその崩解体の肉体に、他ならぬ“飾り縫い”の痕跡が施されていた事実だけを、淡々と伝えた。
一通りの説明が終わると、店舗の中に静寂が降り積もった。壁に飾られた肉糸の見本が、午後の光にとりどりにさんざめく。
「…私を疑っているの?」
レティシアの声から熱が引き、乾いた響きだけが残った。
エルヴはゆっくりと首を振った。
「何か知っていることはないかと思って」
レティシアは小さく吐息を漏らし、肩の力を抜いた。
「残念だけど、何も」
俯くエルヴの視線を受け止めながら、彼女は静かに付け加えた。
「何か分かったら連絡するわ」
「はい」
「カエルは元気?」
「…はい」
エルヴの視線が、ふとレティシアの手元へ落ちた。皮膚の表面に浮かび上がる紅の魔法陣。その視線に気づいたレティシアは、左手で右腕の縫い目を緩やかになぞり、口元を小さく歪めて笑った。
「私はこれが好きなの。貴方は許せないでしょうけど」
「…痕跡は未熟だと思うだけです」
エルヴは短く答え、それ以上は言葉を重ねなかった。共に父の元で修行した日々がふと蘇る。夜、肉糸を巻きつけながら交わした他愛もない雑談。骨針で傷つけたエルヴの指を、レティシアが縫い合わせたときのこと。エルヴは踵を返し、アトリエの扉を開ける。真鍮のベルが再び鳴り、彼を街の雑踏へと押し出した。
銀の魔導車に乗り込み、操縦桿を倒す。車体は来た道を辿り、銀針堂へと向かって静かに走り出した。
店舗のある路地へ曲がった瞬間、エルヴの眉根が寄った。銀針堂の前に、数人の通行人が立ち止まり、不審そうに内部を覗き込んでいる。エルヴは車を止め、素早く降りて人だかりを割った。
店の木製の正面戸が開いている。
「…!」
エルヴは店内に駆け込んだ。
施術室の棚は倒され、木型や肉糸の束が床一面に散乱している。カウンター奥のチェストは打ち壊され、顧客の台帳が引き千切られたようにかぎ裂きの断面を晒していた。扉脇の水槽はひっくり返され、ペットのカエルは床上に生白い腹を晒してピクリともしない。エルヴの瞼は、店内の薄暗闇に向かって開かれたまま硬直している。静寂とハーブの匂いの中で、店の隅の振り子時計だけが、規則正しく時を刻んでいた。




