ep3.金針
エルヴはその後、衛兵の詰所で取り調べを受けた。無理もない。発見された金の針には父のサインがあり、その父は大陸では知らぬものがいないほどの仕立て屋だったのだから。だが、エルヴは小さな嘘をついた。
石造りの部屋は、乾燥したインクと血止めのハーブの匂いで満ちていた。窓から差し込む淡い午後の光が、卓上の埃を白く浮かび上がらせている。
「この針はお前の父親のもので間違いないか?」
木製の机を挟んで、衛兵が一本の細い針をエルヴの目の前に差し出した。鉄のピンセットに挟まれた金の骨針は、窓からの光を反射して冷たく、澄んだ光を放っている。針の根元には、極小の格子模様が鋼のやすりで刻まれていた。
エルヴは机の端に指先を置き、その冷たい木肌の感触を指の腹で捉えた。
「…サインだけみれば」
エルヴは乾いた喉を上下させた。机の端を掴んだ指先が微かに震える。
「しかし」
「しかし?」
調書を執筆していた衛兵がペンを止め、骨質の薄い顔を上げた。インクのついたペン先が、小さな吸水紙の上で音もなく黒いシミを広げていく。
エルヴは喉の奥に溜まった唾をゆっくりと飲み込んだ。喉仏の動く音が、静まり返った部屋に小さく響く。
「父の針は、全て銀色でした」
嘘は、滑らかに口から滑り落ちた。
「銀針堂」―その店が銀の針を繰ることは、仕立てを施された顧客であれば誰もが知っている事実だった。
「ふむ」
衛兵はペンの軸で自分の二の腕を軽く叩いた。
「…私もそれは知っている。お前の親父さんには世話になったからな。この腕が今も動くのは、あの人の仕事のおかげだ」
衛兵はペンを置き、調書に細いインクの文字を書き込んだ。紙が擦れる硬い音が響く。彼は背後のもう一人の衛兵と、小声で何かを言い交わした。
「今日のところは帰っていい。だが、この針はまだ預からせてもらう。…背中の傷は、自分で縫えるのか?」
立ち上がろうとしたエルヴの背に、衛兵の視線が向けられた。シャツの背中に広がった赤黒い血の染みは、すでに乾いて硬く固まっている。
「大丈夫です」
エルヴは短く答え、一礼して部屋の重い扉を押し開けた。
詰所を出ると、ぬるい湿気を含んだ風がエルヴの頬を撫でた。石段の下には、白銀の甲冑の肩をすぼめたネフィラが立っていた。彼女の腕には、市場で買い求めたらしいつややかな果実がいくつか抱えられている。エルヴの姿を認めると、彼女の眉の間に小さなしわが寄り、その首筋の縫合痕が小さく収縮した。
石段を下りるエルヴの足音は、湿った靴底が石を叩く鈍い音となって響いた。
ネフィラは抱えていた果実の中から、表面に細かい産毛の生えた、黄身色の実を一つ掴み出した。それはみっちりと果肉が漲り、滴るような香気が果皮から立ち上っている。彼女はそれを無理やりエルヴの手に押し込んだ。
「背中は問題ないのか」
手渡された果実は、エルヴの指先にひんやりとした重みを与えた。皮のかすかな凹凸が、指の腹に引っかかる。
「大丈夫ですよ、ネフィラさん」
エルヴは果実を見つめたまま、それを懐へねじ込む。視線は足元の歪んだ石畳の隙間に生えた、乾いた苔に向けられている。
「顔色が悪いな。仕立ての解けかかったやつの歩き方に似ている」
ネフィラは甲冑の隙間から覗く首筋を軽く鳴らした。金属の擦れ合う硬い音が、湿った空気に弾ける。
「心配だからついていく。お前の背中、まだ生臭い匂いがしているぞ」
「店で自分で縫いますから、その必要はありません」
「お前が自分で自分の背中に針を通すのは物理的に無理があるだろう。行くぞ」
ネフィラはエルヴの肩を軽く叩き、歩き出した。エルヴは小さく息を吐き、彼女の硬い足音の後に続いた。
銀針堂の作業場は、冷え切った油とハーブの匂いが淀んでいた。扉脇の水槽では、ペットのカエルが呑気そうに頬を膨らませている。
「そこへ座れ。シャツを脱げ」
ネフィラは木製の施術台を指差し、手早く甲冑の籠手を外して机に置いた。鉄が木を叩く鈍い音が部屋に響く。
「…あなたが見てなくてもいいでしょう」
エルヴは施術台の端を掴み、視線を床に落とした。指先が、染み込んだ古い防腐液の冷たさを拾う。
「自分で、できますから」
「何だ。お前、ひょっとして照れてるのか?」
ネフィラのあけすけな言葉に、エルヴはもごもごと口を動かす。
「お前、私の背中は何度も仕立て直してるじゃないか」
ネフィラは不思議そうに眉を寄せた。小首をかしげた彼女の頬に、ふわふわと金の髪が揺れる。
「それとこれとは…」
「いいから脱げ」
ネフィラがぐいぐいとシャツを引っ張る。エルヴは観念して乾いた血で固まりかけたシャツのボタンを一つずつ外した。布地が背中の皮膚から剥がれる際、乾いた音と、皮膚が引っ張られる小さな痛みが走る。
シャツが肩から滑り落ち、薄暗い作業場にエルヴの背中が晒された。
ネフィラが押し黙る。
部屋の隅で、古い時計の振り子が時を刻む硬い金属音だけが、等間隔に空間を削っていた。
「…どうしたんです」
エルヴは振り返らず、硬い声で尋ねた。
「治っている」
ネフィラの低い声が、静かな部屋に落ちる。
「え?」
エルヴは施術台の脇にある、仕立て用の大きな姿見に這うようにして視線を向けた。鏡のその奥に自身の背中が映り込む。
獣の牙による裂傷があるはずの場所には、繊細な肉糸が、まるで波打つ編み目のように幾重にも重なり合い、傷口を完全に塞いでいた。
(―父さんの仕立てだ)
拒絶反応を一切起こさず、主の肉体と同化し、筋肉の繊維を正確に繋ぎ直している。その複雑極まりない縫合の配列、そして糸の張力の完璧な調和。
―極星。
世界に数人しか存在しない、魔力の糸を完璧に統御する者だけが成し得る、神技の仕立てがそこにあった。自分はまだ三ツ星だ。この完璧な連鎖を紡ぐことはできない。父の影が、鏡の奥からエルヴを見下ろしているようだった。
翌朝、エルヴはまず扉脇のカエルに餌をやった。オタマジャクシの頃から育てたせいか、エルヴを見ると近寄ってくる。しばらくカエルを眺めた後、箒を持って店外に出る。だが、すぐにエルヴは足を止めた。そこにいたのは、銀の徽章をきらめかせた衛兵たちだった。背後には、首元に赤布を巻いた一人の魔導士が杖を携えている。
「銀針堂、エルヴ。先日の“崩解”事件の件でお前の父に容疑がかかっている。店を調べさせてもらう」
先頭に立つ衛兵が、羊皮紙の令状をエルヴの胸元へ突きつけた。立ち並ぶ銀鎧の擦れ合う音が朝の冷気に響く。エルヴの手元で、箒がわずかに傾いた。指先が一瞬固まり、木柄の感触を硬く捉える。
「…どうぞ」
エルヴは低く答え、開けたままの扉の脇へ身を引いた。
靴底が木床を踏みつける重い音が、静かな店内に雪崩れ込む。衛兵たちは手際よく分かれ、奥の作業場、壁際に並ぶ薬瓶の備品庫、そして二階へ続く書庫の扉を次々と押し開けていった。衛兵たちの靴音、棚が引き抜かれる音、用紙が擦れる乾いた音が重なって響く。
作業場の奥で、一人の衛兵が作業台の上に置かれた銀飾りの針箱を引き寄せた。留め具が外れ、蝶番が滑らかに開く。
エルヴの右手が無意識に強く握り締められた。掌の皮膚が引きつり、背中の皮膚下に仕込まれた骨針の鋭い冷気が、筋肉の奥でわずかに熱を帯びる。昨夜、エルヴは父の残したあの無銘の金の骨針を、己の背にある「銀翼」の根元、肉糸の交差点に埋め込んでいた。
「ふむ。やはり全て銀針か」
衛兵は箱の中の骨針を指先で検分し、つまらなさそうに蓋を閉めた。金属が小さく触れ合う澄んだ音が作業場に落ちる。エルヴはゆっくりと息を吐き出し、強張った右手の力を緩めた。そのとき、書庫の階段から数人の衛兵が降りてきた。その中心に立つ魔導士の手には、古い革装丁の仕立て記録や、父の筆跡が残る羊皮紙の束が抱えられている。
「待ってください」
持ち出されようとする資料の角を目で追いながら、エルヴは声を張った。魔導士が足を止める。銀縁の眼鏡ごしに真紅の瞳がエルヴを射抜いた。
「俺にも、その調査に協力させてもらえませんか」
魔導士の眉間に薄く皺が刻まれた。周囲の衛兵たちが訝しげに手元を止める。
「知りたいんです」
エルヴは魔導士の瞳を直視した。
「本当に、父の仕立てのせいで人が崩解しているのかどうか。…俺なら、父の縫合の癖も、肉糸の結び目も正確に見分けられます。他の誰よりも」
魔導士は抱えた資料の上に指を置き、トントンと不規則な音を立てた。数秒の沈黙が、埃っぽい空気の中に引き伸ばされる。
「…よろしい」
魔導士は小さく頷き、短く宣告した。
魔導車の塗料が太陽光を鈍く跳ね返していた。駆動部から吐き出される熱気と魔術機構の作動音が地面の粉塵を巻き上げる。車の扉を開き、エルヴと魔導士が順番に舗装路へと足を下ろした。彼の指先が、無意識のうちに腰のホルダーを探る。そこには銀飾りの針箱が収められていた。
目の前に聳え立つのは、縫籍院第八支部だ。窓の少ない堅牢な外壁は厚く、外周には針を模した尖塔が天を貫いている。
鉄製の両開き扉を潜ると、吹き抜けのホールが頭上に開く。高い天井からは無数の魔石灯が吊り下げられ、巨大な書架には、縫合台帳の束が整然と納められている。行き交わす市民や職人らの靴音に混じって、事務官たちの羽ペンの走る硬い音が空気を刻んでいた。
魔導士は歩みを止めず、壁際の暗がりにある鋳鉄の階段へと向かった。
一段下りるごとに、光量が徐々に削ぎ落とされる。防腐用の石灰の匂いが濃くなり、空気の温度が急速に下がる。階段の傾斜は急で、石段の角が長年の使用でわずかに丸みを帯びていた。地下2階の重厚な鉄扉の前にたどり着く。
―縫合庫。
一般市民はおろか、星付きの職人ですら立ち入ることを許されない秘匿空間。
そこには長槍を構えた二人の守衛が立っていた。
魔導士は懐から黒い革の証本を取り出し、守衛に見せた。守衛の一人が低く言葉を交わし、一瞬だけエルヴの顔へ鋭い視線を滑らせる。魔導士が短く頷くと、守衛は無言で鉄扉の閂を引き抜いた。重い音が回廊に響く。
「ついて来なさい」
魔導士の促しに従い、扉の先へ足を踏み入れる。
エルヴを迎えたのは、冷気と強い薬品の匂いだった。防腐液で満たされた大小のガラス器が薄暗闇の中に静まり返っている。立ち並ぶ書架は、全て魔導鍵で封印されていた。魔導士はそれらをすり抜け、その横に位置する小さな木製の扉の取っ手を回す。
扉が開いた瞬間、刺すような脂の焦げた臭いと、肉が腐敗しかけた生臭さがエルヴの鼻腔を突いた。エルヴは無意識に眉根を寄せ、口元を袖口で覆った。
作業場らしきその部屋には、胸元に金の徽章を光らせた騎士たちが数人、壁際に配置されていた。全員が鼻から下を分厚い白布で覆っている。その中に、白銀の甲冑を纏ったネフィラの姿があった。彼女は入ってきたエルヴに気づくと、眉を微かにひそめ、首をひねって視線を送った。その首元の縫合痕が引き攣れたような気がして、エルヴは小さく右手を握る。
部屋の中央、石製の台の上には、数体の「崩解体」が並べられていた。
「ここ一ヶ月の犠牲者たちだ」
魔導士が静かに告げる。
エルヴは台の上の肉体に視線を走らせた。そのうちの一体、肩から胸部にかけての肉糸が引き千切られた痕跡に見覚えがあった。先日、路地裏で己の銀翼の羽根によって縫い目を直接絶った、あの“仕立て損ない”だ。だが、それ以外の台に横たわる肉体は、ほぼ例外なく黒く焼け焦げ、皮膚の亀裂から炭化した肉糸の残骸が覗いていた。
「私の名は、メラディ・レイ」
魔導士は淡々とした調子で名乗りながら、首元に巻かれていた赤い布を解いた。
布の下から露わになったのは、人間の皮膚ではなかった。顎の下から鎖骨のくぼみに向けて、赤銅色の硬質な鱗が、幾重にも重なり合って首ぐりを隙間なく覆っている。レッドドラゴンの皮膜と筋肉をそのまま首元に縫い込んだ、“異形化仕立て”の痕跡だった。
「“仕立て損ない”は焼くのが一番効く」
メラディは唇をわずかに開き、口笛とともに小さな火花を噴いてみせた。紅の熱が空気を一瞬だけ炙る。
「肉糸を根元から焼いてしまえば、再結合も再生も叶わない。これが最も確実な処理法だ」
「…手がかりも焼ける」
部屋の奥から、ネフィラの低い声が落ちた。白布越しのため、声はわずかに籠もっている。メラディは返事をせず、鼻を鳴らした。閉じた唇から舌のようにチロリと火花が漏れる。
「そこの一体」
メラディが指し示したのは、エルヴが息の根を止めたあの体だった。
「見なさい、仕立て屋。お前の眼で」
エルヴが歩み寄る。そして、見た。
――父の仕立てではない。




