ep2.銀翼
「翼、か…?」
ネフィラがその背の変形を凝視して呟いた。
「誰か、衛兵を!」
エルヴは数歩後ろに退き、通りに向かって叫んだ。騒ぎに気づいた市民達が悲鳴をあげて駆け出す。「衛兵を!」という怒号が靴音と悲鳴に重なる。背後で警鐘が鳴る。エルヴは素早く獣の体に視線を走らせた。背中の翼が疼くように熱を持つ。使うべきか。握った掌に汗が滲む。
キィン、と激しい金属音がはじけた。ネフィラの鋭い呼気が剣撃と共に繰り出される。新しく仕立てられた強固な肋骨は、彼女の体幹を完全に支えていた。獣が風を巻いて振り下ろす鋭い爪を、彼女は驚くほど最小限の動作で、紙一重でかわしていく。力強い踏み込みから放たれる剣撃は、確実に獣の肉を裂き、骨を断つ。
「援護する」
エルヴの後ろから駆け込んだ衛兵の一人が、杖から炎弾を放った。獣の皮が焦げ、肉が焼ける。獣はぎょろりとした眼球をその衛兵へと向けた。
「下がれ!」
ネフィラが、衛兵に飛びかかろうとした獣の側面へ突進し、その接合された不揃いな脚の一本を深く斬りつける。もう一人の衛兵が腰の拳銃を引き抜き、トリガーを絞る。ネフィラが穿った傷口に、二発、三発と弾丸が突き刺さる。獣が苦悶の声を上げて膝を折った。しかし、穿たれた傷口から赤黒い肉糸が伸び、互いに引き合いながら、傷口を急速に修復し始めた。獣の注意は完全にネフィラに向いている。エルヴの瞳は、獣の肉と肉を繋ぎ合わせている“縫い目”の位置を、冷徹に追った。力の漲った筋肉の躍動、滑らかに綴り合された皮膜の境界。
(重心の軸。腹の足)
エルヴの手が腰のホルダーに伸びる。引き出されたのは銀の裁ちばさみだ。彼は石畳に伏した獣の懐に滑り込み、獣毛の下に蠢く肉糸の束へと、冷たい銀の刃を噛み合わせる。金属同士が擦れる鋭い音が響き、無理矢理繋ぎ止められていた魔力の糸が切断された。
結合を失った一本の足が、支えを失って外側へと転がり落ちる。姿勢を崩した獣は、千切れた部位から赤黒い体液を噴出させながら、狂乱して暴れ回った。首を狙って剣を振り下ろそうとしたネフィラに対し、獣は残された脚で地を叩き、肉糸を引き伸ばしながら粘るように首を伸ばす。顎が黄色っぽい涎を引き、ネフィラの胴に向けて大きく開かれた。
(俺の“作品”が傷付く)
ほとんど無意識のうちにエルヴは身体を投げ出し、ネフィラの前に割り込んだ。彼女の瞳が睫毛を蹴って見開かれる。凄まじい衝撃がエルヴの脇腹を襲った。獣の巨大な顎が彼の胴体を噛み砕くように挟み込み、そのまま宙へと持ち上げた。肋骨が圧迫され、ミシミシと嫌な音が鼓膜の奥で鳴り響く。肺から空気が強制的に押し出され、視界が急速に狭窄していく。右手から裁ちばさみが滑り落ちた。
きらきらと落ちていく裁ちばさみを、エルヴは視界の端で見送った。ヒュ、と喉から糸のような吐息が漏れる。
(死ぬ—)
獣の血走った瞳がエルヴを睨めつける。眼輪筋が盛り上がり、そのすぐ下を這う縫い目が波打つように滑らかに筋肉に沿った。もともと体の一部であったかのような、細やかな糸の軌跡。
(いい腕だ)
ぼんやりとしていく意識の中、縫い目の美しさに手を伸ばす。ネフィラの声が遠くに聞こえる。獣の顎の力が強まる。獣皮に綴られた、わずかの引き攣れもなく肉と皮に従う縫い目。この構造を知りたい。手に取りたい。解きたい。
(解体したい)
エルヴの背で翼が蠢く。肩甲骨に仕込まれた骨針がチリチリと鳴った。銀片が触れ合うような澄んだ響きだ。エルヴは、裁ちばさみを失った右手を握りしめた。
(―使い方は、知っている)
エルヴが息を吐くと同時に、内側に潜んでいた銀色の“翼”が、服の繊維を解きながら外側へと展開した。金属的な硬度を持った銀の羽が擦れ合いながら彼の背に広がる。エルヴは翼の広がる勢いにあわせて身を捩った。広がった“翼”が獣の口内を、肉糸ごと激しく切り裂く。獣が潰れた悲鳴を上げた。
エルヴは翼の連なりに意識を這わせた。広がる銀の羽根は、彼の指先そのものだった。思考を二手飛ばしに動きが先行し、獣の肉糸の縫い目を正確に捉えている。翼ごとエルヴの胴体を噛み潰そうと軋みを上げる獣の顎、殺意を帯びたその腱を、翼の先端がバターを切るように肉糸ごと断ち切る。口腔をズタズタに引き裂かれた獣が、血反吐と共にエルヴを放り出す。宙に放り投げられた彼の身体は、背の翼が風の抵抗を受け、ゆっくりと滑空するようにして地面へと軟着陸した。口からどす黒い血を大量に垂らし、唸りをあげる獣。残った左の眼球がエルヴを睨みつけている。残された獣の後ろ脚が、力を溜めて膨らむ。それが弾けた瞬間、獣はエルヴへと大きく跳躍した。
鋭い牙がエルヴに迫る。エルヴは翼を広げたまま前面で閉じ合わせた。手を握り、開くほどの容易さで翼が彼の意思に従う。羽根が一斉に針のごとく逆立つ。獣は飛びかかった勢いのまま、無数の硬質な羽根に貫かれた。鋭い羽先が獣の前面の肉を襲い、縫い目という縫い目を破り、裂き、断つ。獣が鼓膜を劈くような叫びをあげる。血しぶきが飛び散り、鉄錆の臭いが路地を叩く。地に落ちた獣は、半ば引き千切られた肉を引きずり、エルヴへと距離を詰めた。その背の皮膜が石畳を擦る。だが、肉糸はすでに寸断され、這いずるごとに肉体が残骸と化して石畳を濡らす。腱を切断された顎から、赤黒い血が滴り落ち、掠れた一音が零れた。もがく爪が、エルヴのつま先の前の石畳を引っ掻き、止まる。その巨体は、重い音を立てて地面に崩れ落ちた。
エルヴは膝をつき、激しく息を乱しながら、ゆっくりと翼を背中へと収束させていく。畳み損ねた骨針が、背中の皮膚を裂きながら体内に引き戻される。骨が撓められるような痛みと、皮膚が錆びた針で引き伸ばされるような引き攣れが背中を灼いていた。エルヴは肩を大きく上下させ、顔を顰めながら口に溜まった血を吐き出した。
「エルヴ!無事か!」
ネフィラが駆け寄り、エルヴの肩を掴んで立ち上がらせる。周囲を囲んでいた衛兵たちも、一様に信じられないものを見る目で、エルヴと、そのシャツの背に残る血の痕を見つめていた。
「…ええ。大丈夫です」
エルヴは痛む脇腹を押さえながら、石畳に転がった銀の裁ちばさみに視線を落とした。それを拾い上げ、獣の死体に近づく。
横たわった巨躯の傷口に、未だ微かに蠢く肉糸が残っていた。エルヴは裁ちばさみを差し込み、残存する縫い目の糸を一本ずつ、冷徹に断ち切っていく。糸が切断されるごとに、獣の全身の結合が失われていく。筋肉を支えていた魔力が霧散し、頑強だった獣皮や皮膚が、文字通り「解けて」いく。赤黒い血肉の泥が、石畳の隙間にじくじくと広がっていった。
解けゆく血肉の山。その中心部から現れる、ほとんどの表皮が溶け落ち、半ば白い骨が剥き出しになった、人間の形。静まり返った広場に、肉が泥と化す濡れた音だけが響く。その変死体の背からは、伸び切った皮のような、潰れた一対の構造物が左右に広がっていた。
「これが…翼、か」
エルヴは泥の中に膝をつき、その潰れた構造物に手を伸ばした。指先に、人間のものではない、硬質な骨針の感触が触れる。エルヴは泥に塗れた骨針の基部に指をかけ、引き攣れる肉からそれを一気に引き抜いた。
手のひらに残されたのは、血と泥に混ざっても、なお鋭い輝きを放つ、一本の金の針。
(…どこの仕立て屋だ?)
エルヴは指先でその表面を拭う。息を詰め、金の肌に刻まれた刻印を親指の腹でなぞる。それは、極めて繊細な格子模様だった。
見開かれたエルヴの瞳が、刻印に添えられたサインを捉えて凍りつく。
(―そんな)
血に濡れた金のきらめき。刻まれた刻印とサイン。針箱にしまう際に触れたその感触を、エルヴの皮膚は、指紋に吸わせたように覚えている。
エルヴの喉が、仕立ての悪い肉糸が引き攣れたように鳴る。
その刻印を、エルヴは知っていた。忘れるはずがなかった。
『職人の名は針に刻む』
蘇る父の言葉。
エルヴは瞼を閉ざした。
周囲の音が消え、鼻腔に残る血の匂いだけが粘膜を刺す。
それは、紛れもなく、父の名前だった。




