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ep1. 銀針堂

新しく編み上げた“腕”の出来は上々だった。客が動きを試すかのように、何度か指を曲げ伸ばしする。「仕立て屋」の仕事は傷を補修するだけではない。より強く、よりしなやかに。肉糸と骨針を操り仕立て上げる。


「銀針堂」。父からこの店を継いでもう5年になる。


「ありがとう。エルヴ。これで次の仕事もばっちりだ」

「どういたしまして。傷ができたらまた是非うちの店に」


客は笑って店の扉をくぐった。カラン、と軽やかなベルが鳴る。扉脇の水槽で、ペットのカエルが一声鳴いた。エルヴは一礼すると、銀の骨針を針箱にしまう。筋肉の編み込みはもう慣れたものだ。客の気配が遠ざかるのを見届けると、口元に張り付いていた笑みの形が、熱を失うように滑り落ちて平坦な肉へと戻った。


エルヴは踵を返し、奥の作業場へと歩を進める。

作業台の中央には、編みかけの筋肉素体が横たわっている。人間の肩周りを模したものだ。エルヴはそれをそっと手に取った。


エルヴはこの仕事を愛している。


だからこそ、荒手を激しく憎んだ。一本の糸の乱れが、人間一人を壊す。


素体の肩関節をわずかに曲げると、薄い金属板を噛み合わせたかのような密やかな摩擦音が鳴る。骨を模した木型に仕込まれた無数の骨針が触れ合う音だ。そのかすかな囁きに耳を寄せる。音の乱れは、仕立ての歪み、すなわち拒絶反応からくる“解け”の予兆を意味する。エルヴは息を殺して音を聞き続けた。


金属音は一定の規則性を持って、すぐに静寂に吸い込まれた。


(―まだだ)


エルヴはシャツをわずかに寛げた。背中の肉が微かに蠢き、皮膚の下で肉体に仕込まれた骨針が鳴る。背から這い出た赤い肉糸が布の裏地と絡み合い、衣類の繊維ごと内側から編み上がるようにして、一対の銀色の“翼”がその姿を現した。


まだ未完成の、硬質な羽組織。魔力を帯びた羽は、部屋の僅かな明かりを吸って鈍く明滅している。


五年前。この大陸で誰もがその腕を認めた一二を争う仕立て屋だった父は、ある日何の痕跡もなく姿を消した。残されたのは、この銀針堂と、エルヴの背に未完成のまま編み込まれた、この翼だけだった。エルヴはこの翼の使い方を知っている。だが、使ったことはない。


「まだ、足りない」


皮膚には、父が施した完璧な縫合の跡が今も残っている。エルヴ自身の仕立て技術では、この翼を空に羽ばたかせるだけの、調和の糸が紡げない。


(絶対に、この翼を完成させてやる)


エルヴは作業台の上で拳を握りしめた。父の手が及ばなかったものを、自分の手で編み上げる。彼の視線は、作業台の上の道具類に走る。父から受け継いで使っているもの、自分で工夫したものが入り混じっている。エルヴは作業台の脇に手を伸ばした。視線の延長線上にあったのは、インクの潰れた地方紙の記事だ。


紙面には、黒ずんだインクで「崩解」の文字が躍っている。ここ数ヶ月、裏路地で発見される変死体の数が跳ね上がっていた。編み込まれたはずの筋肉や骨格が、接続部から解け、ただの赤い泥と化して床に広がるのだ。


エルヴは鼻から短く息を吐き出し、新聞紙を無造作にたたみ直した。


もし、父が生きていたならば。

泥となって解け落ちた肉の繊維すらも一本ずつ拾い上げ、寸分の狂いもなく、再び機能する肉体へと仕立て直しただろう。あの日から五年。常に腹を焼く熱は、忽然と姿を消した父への怒りか、それとも技術への嫉妬なのか。


エルヴは父の遺した銀飾りの針箱を開く。針を一本ずつ指先にとり、刻まれた格子模様の刻印の溝まで触れ、一点の曇りなく磨き上げる。それは彼の指先に染みついた儀式だった。エルヴは銀の針を磨き終えると、最後に針箱の奥へ指を伸ばした。


取り出したのは、一本だけ混じる金の針だった。


父の遺した針箱の中で、唯一模様もサインも無い一本。試作品か。あるいは、知り合いの仕立て屋から譲り受けたものか。聞くべき父はもはや無い。エルヴは布を金の肌に滑らせる。その動きに合わせて、背中の翼が低く、微かな震えを帯びて擦れあった。



翌朝、エルヴは何度目かの客である、若い騎士の“仕立て”を行なっていた。今回は“強化骨格”の編み上げである。最近になって隊長に昇格したばかりだという彼女は、しなやかながら鍛えられた体躯だ。皮膚はまだ若く、薄い。


(皮膚が滑らかで針が通りやすくていい)


エルヴは針の滑りに意識を注ぐ。


「ネフィラさん、あんまり動かないでくださいよ」


エルヴは低く、平坦な声で釘を刺した。銀の骨針を握る指先は、ミリ単位の狂いもなくネフィラの脇腹を捉えている。


「ああ、すまない。つい、新調した骨が馴染むのが嬉しくてな」


ネフィラは頭の下に腕を敷き、麻酔の微睡みに浸った様子で天井の梁を眺めていた。痛みは遮断されているはずだが、彼女自身の骨と魔獣の骨が肉糸で繋ぎ合わされる瞬間、肉体が微かに震える。エルヴはその震動すらも指先でいなしながら、滑らかに針を進めていく。


「なぁ、エルヴ。最近、この街で噂になっている『崩解』の件を知っているか」


ネフィラが天井を見つめたまま、軽い口調で切り出した。


「…ええ。新聞で少し」

「実は昨日、私の部隊でその変死体の回収を担当したんだ。路地の奥で、肉が原型を留めずに解けていた。あれは、まともな人間の死に方じゃないな」

エルヴは手を止めず、極細の針をネフィラの肋骨に仕込み、骨と骨の隙間に肉糸を潜らせていく。

「その遺体に仕込まれていた骨針に、仕立て屋のサインは残っていませんでしたか」

「サイン?まさか。あれは肉ごとドロドロになっていて、何がどこにあったかも分かりゃしなかったよ」


ネフィラは顔をしかめ、思い出すように吐き捨てる。


「ただ、一つだけ妙なことがあったんだ」

「妙?」

「あぁ。単に内臓や筋肉が溶けていたんじゃない。あれは…解けた肉の中に、半分潰れた『翼』のようなものが混ざっていた」

「…翼?」

エルヴの指先が、ほんの一瞬だけ、肉糸の上で止まった。


この大陸において、機能する翼を編み上げられる仕立て屋など、父しかいなかった。


「どうせ、どこぞの非合法の仕立て屋が、身の程知らずに翼でも編もうとして失敗したんだろうな」

ネフィラはため息をついた。

「どんな翼だったか、形状は分かりますか」

「いや。すっかり崩れて血肉の泥になっていたからな。白い羽だったのか、黒い膜だったのかも分かりやしないよ」

エルヴは再び針を動かした。沈黙のなか、銀の骨針が骨の隙間をくぐり、最後の肉糸を結び終える。

「…終わりましたよ」

「おお、もうか。流石は銀針堂だ。引き攣れが全くない」

ネフィラは施術台から上半身を起こし、新しく仕立てられた肋骨の強度を確かめるように胸を張った。


「ネフィラさん、この後時間ありますか?」


エルヴの言葉に、甲冑を手際よく身につけながらネフィラが振り返る。


「ん、あるが。どうした?」

「買い出しに付き合ってほしいんです。あなたにぴったりの素材を選びたい」





市場には、獣肉、ハーブ、油、熟れすぎた果実の匂いが人々の汗と混ざりながら、熱気となって立ち上っていた。


エルヴはちらりと隣を歩くネフィラを見やった。その首元には、かつて前線で負った欠損を仕立て直した肉糸の縫合痕が、皮膚を引き攣らせて残っている。エルヴはその痕から目を逸らした。次の施術は、彼女の利き腕である右腕の仕立てだ。今度こそ、その皮膚に従順に沿う肉糸を選り抜きたかった。


「気にするな。騎士の中には、あえて痕を残したがるやつもいるぞ。なんなら私も…」

「は?」

エルヴの険を含んだ返しに、ネフィラは唇を尖らせた。痕跡は未熟の証だ。エルヴは自分の未熟が許せなかった。


「ネフィラさん、手を」


ネフィラは甲冑の籠手を外した右手を差し出した。エルヴはその肌に触れる。人間の肉体は一様ではない。粘り、水分、脂肪。仕立てるべき相手の肉の質感を指先が記憶していなければならない。


(爪先が沈む程度の粘り…魔蛇の血の肉糸よりもやや柔いか…)


ぶつぶつと素材の名を紡ぐエルヴに、ネフィラは退屈そうに手を預けている。彼女の口と鼻は、向かいのパン屋から漂う香ばしい匂いに完全に縫い留められていた。パン屋の近くまで歩を進めると、エルヴの姿をみとめた女主人は笑顔で手を振った。


「エルヴ坊ちゃん、今日も早いね」

「坊ちゃんはやめてください。もう店主ですよ」

「でも親父さんの頃から見てるからねぇ」


パン屋の女主人が目を細める。


「あんたに縫い直してもらった手、この通りさ」

女主人は笑いながら左手を振ってみせる。

「…俺が仕立て直したのは右手ですが」

「あらやだ。完璧に治りすぎてどっちか忘れちゃって」


「最近物騒だから気をつけなさいよ」という女主人に手を振り、エルヴとネフィラは大通りへと歩を進めた。


「そういえば、昨日あなたが遺体を回収したという場所は、この近くだったのでは?どこだったんです」


ネフィラは手にした二つ目のバターの香る棒パンをかじりながら、信じられないものを見るような目をエルヴに向ける。


「…お前、人が美味そうに物を食べている時に、よくもまあそんな薄気味悪いことを平気で聞けるな」


ごくりとその一噛みを飲み下し、ネフィラはやや呆れた顔でため息をついた。よく飲み物もなしにその勢いで食べられるな、とエルヴは感心する。


「あっちだ。大通りを二本外れた裏路地さ。まだ引き渡したばかりで、衛兵の巡回も薄い」


ネフィラは先導を始めた。背後のエルヴからでも、ネフィラの頬がふくりと膨らんでいるのが見える。彼女は三つ目の丸パンを堪能しているらしい。

通りをいくつか抜け、古い石造りの住居が建て込んだ袋小路に足を踏み入れた。建物の影が濃く落ち、空気はぬるく湿っている。


「このあたりだ。路面の凹凸に血が溜まっていてな…」


ネフィラの説明が、不意に途切れた。彼女の視線の先にある光景に、エルヴもまた目を細める。


わずかに残る赤黒い血痕。その乾きかけた泥の上に、一人の男がうずくまっていた。男は獣のように四つん這いになり、石畳の隙間にこびりついた血を、狂ったように長い舌で舐めとっている。その背中は不自然に丸まり、衣服はぼろぼろに引き裂かれていた。


だが、何より異様なのはその肉体だった。


男のシャツの破れ目―その脇腹から腹部にかけて、本来あるはずのない「もう一対の腕」が不自然に生え出ていた。それは人間の腕ではない。赤黒い剛毛に覆われ、湾曲した鋭い爪を備えた、紛れもない獣の腕だ。


「おい、何を…」


ネフィラが低く鋭い声を出し、腰の長剣の柄に手をかけた。甲冑の擦れる鋭い金属音が静寂に響く。


声をかけられた男が、びくりと肩を大きく跳ね上がらせた。ゆっくりと、軋むような音を立てて顔を上げる。その視線が、ネフィラの右手、そして鞘から抜かれかけた刃のきらめきを捉えた。男の瞳孔が針の先ほどに収縮する。


「ァ、…たす、けて…」


男の喉の奥から、湿ったうめき声が漏れる。次の瞬間、その腹部に縫い付けられた脚、それ自体が独自の意志を持ったかのように激しくのたうち始めた。肉糸が皮膚を引きちぎり、骨針が内側から男の肋骨を噛み砕く、硬質な音が響く。


皮膚が裂け、暗赤色の肉繊維が爆発的に膨れ上がる。男の体躯はみるみるうちに肥大化し、関節が逆方向にねじ曲がり、六ツ足の獣へとその姿を変えていった。


「退け、エルヴ!」


ネフィラが鞘から長剣を引き抜いた。白銀の刃が薄暗い路地で冷たく閃く。眼前の“獣”は狂ったように咆哮していた。身の丈は大人の三人程。大きく裂けた顎からは、粘り気のある涎を滴らせていた。そして、その背には、引き裂かれた果皮のような、赤黒くただれた皮膚の膜が奇妙な角度でぶら下がっていた。


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