ep29.制水門の風
暗い水路を駆け抜ける足元で、水流がうねりを上げて響く。
エルヴの右手は、ネフィラの手で巻き付けられた封蠟帯で固く覆われていた。爛れた皮膚が帯の下で疼き、拍動に合わせて熱を吐いている。
狭い水路の角を折れると、突如として視界がひらけた。闇の向こうから、冷たい風の塊が吹き付けてくる。
ネフィラが石畳を打ち、一気に距離を詰めた。
大剣に纏われた風が暗がりを切り裂いて薙がれる。エイレンは咄嗟に右手の剣でその軌道を受け止めた。その反対側、彼の左腕は消失していた。
(やっぱり、金の針で繋ぎ止めていたんだ)
エルヴの確信を裏付けるように、重心を欠いたエイレンはネフィラの打ち込みを受け止めきれなかった。叩き落とされた大剣の圧に耐えかね、彼の右肩口が塊となって弾け飛ぶ。そこへ、ネフィラの左手が突き入れられた。粘液の奥から、彼女の指先が一本の金の針を強引に引き抜く。
エイレンが短く息を吐き、蛇のように引き伸ばされた下半身をのたうち回らせ、後方へ急速に退く。
すかさずメラディが肉迫した。
右の掌に赤熱した炎を灯し、その手をエイレンの喉元へ向けて突き出す。エイレンの弾けた右肩口から触手めいた透明な粘液が何本も伸びて遮ろうとするが、メラディの手はそれを焼き切りながら首筋の肉へと深く食い込んだ。
彼女の指先が、奥に埋もれた固体を捉える。
メラディが腕を引き抜くと同時に、一本の金の針が抜け落ちた。支えを失ったエイレンの首が、ぐにゃりと音を立てて崩れ落ちる。
だが、エイレンは両肩の肉を波打たせると、滑り落ちる頭部を左右から挟み込むように受け止めた。首はそのまま肩の肉へと沈み込み、胸腔の内部で静止した。エイレンが、下半身を捻じるように振るう。粘液が、飛沫となって撒き散らされた。ネフィラとメラディは咄嗟に腕で顔を庇った。飛散した粘液が甲冑や衣服に触れた瞬間、ジジと音を立てて布や鉄を溶かし始める。
「待て!」
ネフィラが痛みに耐えて叫ぶが、頭部を胸に埋めたエイレンは泥のように地を滑り、さらに奥の闇へと逃走していく。
踏み出そうとしたエルヴの脇を、一筋の黒い影が掠めた。
「クロイゼンさん…!」
黒竜の甲冑を身に纏ったクロイゼンだった。彼は風を切り裂く速度で、疾走するエイレンの背後へと肉迫する。クロイゼンの手首がしなり、黒い骨針が射出された。だが、放たれた骨針はエイレンの液状化した肉体を虚しく撓ませ、向こう側の石畳へと濡れた音を立てて落ちた。エイレンは振り返りもせず、奥へと粘液を引いて滑っていく。
「クロイゼン、金の針だ!」
後ろから追いついたメラディが鋭く叫んだ。
クロイゼンがさらに加速した。
走りながら革手袋を歯で咥えて引き抜き、露出した右手をエイレンの右脇腹へ直接叩きつける。
触れた瞬間、透明だった粘液が黒く変色し、腐食してボロリと崩れ落ちた。同時に、組織の奥に埋まっていた金の針が硬い音を立てて石畳に転がる。
エイレンが一瞬だけ振り返った。
のたうつ下半身が巨大な鞭となって真横に薙がれる。クロイゼンはその一撃を避けきれず、激しい音を立てて石畳の上を転がった。エイレンはその隙に、闇を突っ切って前へと這い進んでいく。
追いついたネフィラが真っ先に屈み込み、クロイゼンを助け起こした。クロイゼンの荒い呼吸が漏れ聞こえる。
「無茶をするな」
「…」
メラディが声を荒げるが、クロイゼンは濡れた顎を引くだけだった。追いついたエルヴに、クロイゼンは無言のまま道の先を視線で示した。
エルヴたちはなおもエイレンの跡を追った。
通路を進むにつれ、前方から吹き付ける風の速度が増していく。
視界の開けた先に現れたのは、巨大な制水門だった。地下の旧水路と地上の運河を隔てる境界。門の向こう側では、水嵩を増した河が、地鳴りのような轟音を立てて逆巻いている。足場はそこで切れており、もはや先へ続く道は存在しなかった。
「…追い詰めたぞ、エイレン」
メラディが杖を構え、ネフィラが大剣の柄を握り直す。エルヴもまた、水門の淵に立つエイレンの姿を正面から見据えた。
「…そのようですね」
エイレンの返答に、焦燥の色は微塵もなかった。
激しい雨が吹き込み、激しい水音が足元を鳴らしている。
エイレンの体が蠢いた。右腕の付け根の金の針が移動し、両肩の間の組織を固定する。胸元に没していた頭部が、せり出すようにして肩の直上へと生えた。剣を持ったまま、彼の右腕が崩れ落ちる。強い突風が制水門を吹き抜け、エイレンの濡れた髪を浚った。
「…ちょうどいい」
エイレンは空を仰ぎ見た。
クロイゼンが踏み込もうとするが、半ば横向きに立ったエイレンは静かに微笑むだけだった。
直後、頭上近くで雷鳴が轟いた。
稲光の閃光の中で、エイレンの背の肉が大きくうねった。
展開したのは、半透明の皮膜を持つ一対の巨大な翼だった。その造形は、紛れもなく竜翼そのものだ。左右の翼の根元に、それぞれ金の針が鋭い光を放っている。氷を彫り出したかのような半透明の膜には、鱗のような筋が刻み込まれていた。
「解けぬ翼」
エイレンが静かに呟くと同時に、巨大な皮膜が風を孕んで大きくしなった。重力を振り切るようにエイレンの体が浮上する。クロイゼンが地を蹴って手を伸ばすが、すでにエイレンは制水門を越え、外の運河上空へと滑空を開始していた。クロイゼンが悔しげに空を見上げる。
「閣下。かつてあなたは双翼でした」
暴風の中、上空からエイレンの声が降り注ぐ。
「“彼”がいなければ、なおも空を飛べたものを」
エイレンの視線が、制水門の下に佇むエルヴへと向けられた。エルヴが制水門の濡れた縁へ向けて駆け寄る。
「その未完成の翼では、私には届かない」
言い放つエイレンに対し、踏み出そうとしたエルヴの肩を、ネフィラが後ろから強く引き戻した。
「私がやる」
メラディの口元から火花が散り、一筋の熱線が空へ放たれた。しかし豪雨と暴風に熱を奪われ、線はエイレンの足元に届く前に消滅する。
「この雨でなければ…!」
メラディが奥歯を鳴らす。上空のエイレンが、見下ろすようにエルヴを見つめている。エルヴは雨に濡れた顔を上げ、空中のエイレンを見返した。吹きつける嵐の風が、エルヴの前髪を大きく乱した。
(―いや、届く)
エルヴは静かに、制水門の端へ向かって数歩踏み出した。
「エルヴ…?」
ネフィラが戸惑いの声をあげる。
シャツを内側から引き解きながら、銀の翼がエルヴの背に広がる。彼の足が、制水門の縁を蹴った。
「エルヴ!」
ネフィラが手を伸ばす。
だが、その前に伸ばされたクロイゼンの左手が、エルヴの手首を掴み取った。制水門の外へ溢れ出る嵐の暴風がエルヴの体を強く煽り、展開された銀翼が風を掴んで、彼の身体を宙空に繋ぎ止める。
「クロイゼンさん、離してください」
風の中でエルヴが叫んだ。
「あいつを止められるのは、俺だけです」
「だめだ、将軍、エルヴを戻してくれ!」
ネフィラが叫ぶ。掴むクロイゼンの手に、さらに力が込められた。
「ネフィラさん」
エルヴが、ネフィラに向かって口を開く。
「あいつをここで見逃せば、また誰かが死ぬ」
「でも…!」
「もう父さんの針を、壊すためには使わせない」
エルヴはネフィラを、そしてクロイゼンを見た。雷鳴が低く轟いた。クロイゼンの指先から静かに力が抜ける。エルヴの体が、一気に運河の上空へ向けて風に煽り上げられる。
背後で、クロイゼンの声が雨を突いて届いた。
「帰ってこい」
エルヴは無言で強く頷く。銀の翼が、風を孕んで空を滑った。
風が強く吹く。エルヴの銀翼は、自在に空を舞うことはできない。ただ、風を掴んで滑空するだけだ。エルヴは必死に翼を風に乗せ、エイレンへと距離を詰めた。
エイレンが振り返る。
「来ましたか」
低く掠れた声が風に浚われる。エルヴは銀の翼を限界まで開き、斜め上方からエイレンの体へ向けて滑空した。
「もう、お前の好きにはさせない」
伸ばした手が、エイレンの喉元へ迫る。だがエイレンは両翼を畳み込み、自重に任せて落ちた。空を切ったエルヴの右手が、激しい風の抵抗だけを掴む。
視線を落とすと、下方へ落ちたエイレンが翼を大きく広げ、下層の風に乗って上昇してくるのが見えた。
(あいつも、同じだ)
鳥のように自由な飛翔ではない。
突風が叩きつけ、エルヴの身体が大きく揺れた。銀翼の角度を微妙に傾け、風を掴み取る。エイレンとの距離が急速に縮まった。
エイレンが左の翼を深く傾け、右へと軌道を変える。エルヴも追随して翼を傾けようとしたが、曲がりきれず、エイレンの脇をそのまま通り過ぎた。
エルヴは奥歯を噛み締め、強引に翼をひねった。骨が軋む音とともに、どうにかエイレンの方角へ向き直る。逆巻く嵐がエルヴの身体を押し流す。だが、対峙するエイレンもまた同じ風に押され、じりじりとエルヴの正面へと吹き流されていた。
雨が身体を打ち据える。
だが、肌を穿つような大粒の水滴が、次第に細かく、薄くなっていることにエルヴは気づいた。嵐が、頂を去ろうとしている。
(風が無くなれば、飛べない)
エイレンもまた、それに気づいていたようだった。彼は大きく翼を広げ、風を力任せに掴み取った。一気に加速したエイレンがエルヴへと肉迫する。エルヴは、迫るエイレン首元、そこに埋まる金の針を見据えた。
(—あれを)
エイレンが翼をさらに傾ける。すれ違いざまにエルヴの脇をすり抜け、そのまま後方へ飛び去るつもりだ。エルヴは、体ごと銀翼の角度を変えた。
―ここから先は、通さない。
風は、なおも強く吹いている。二人の境界に、雨が注いだ。
頭上で、雷光が一閃した。
白い閃光がエイレンの首元を照らし、埋もれた金の針が眩い光を放つ。
エルヴは封蠟帯が巻かれた右手を差し伸ばした。エイレンが身を捩る。エルヴの手は金の針を追いかけた。彼の指先が、エイレンの首の粘液へと触れる。粘液が封蠟帯を溶かし、皮膚を爛れさせた。
激痛が走る。だが、エルヴは手を引かなかった。右手全体を、粘液の奥深くへとさらに突き入れる。
固い感触。指先が、冷たい金の針に触れた。
針が、抜ける。
エイレンの瞳が見開かれる。針を失った組織が結合を失う。エイレンは胴に残る金の針を動かし、首元へと蠢かせた。
だが、風がそれを阻んだ。
横合いから吹き抜けた突風が、エイレンの体を煽った。首元までせり上がっていた金の針が、粘液とともに風にさらわれる。金の針による固定を失った胴体が、輪郭を失っていく。蛇のようにのたうっていた下半身が、胸が、両肩が、そして最後に、根元に金の針を残した翼が、黒い雨粒とともに運河へと溶け落ちていった。
残されたのは、ただ吹き抜ける風だけだった。
エルヴは銀翼を畳み、落下速度を調整しながらゆっくりと下降を始めた。濡れた顔を湿った風が冷たくなぶる。運河の岸、冷たい石畳の上へ、彼は転がるようにして着地した。膝をついた背後を、静まりかけた風が撫でていく。
やがて、荒い足音が追いついてきた。
振り返ると、肩を上下させて息を切らし、ネフィラたちが立っていた。メラディは掲げていた杖をそっと下ろし、クロイゼンは静かにエルヴを見つめている。
ネフィラが石畳を走り寄り、倒れ込むエルヴの身体を正面から強く抱きしめた。
「エルヴ」
ネフィラの声に、エルヴはゆっくりと視線を上げた。濡れた前髪の隙間から、二人の目が交差する。ネフィラはわずかに身体を離し、エルヴの顔を確かめるように見つめた。
「ネフィラさん」
エルヴは掠れた声で呟き、自らの右手を開いてみせた。
「終わりました」
血にまみれ、赤く傷ついた掌。千切れかけた封蠟帯の残骸の上で、一本の金の針が、雨滴を弾いて光っていた。
周囲の石畳を打っていた雨音が、潮が引くように静まり始めていく。
エルヴが顔を空へ向けた。
王都の空を覆い尽くしていた暗雲の切れ目から、細く、まっすぐな金の光が、濡れた街並みへと差し込み始めていた。




