ep28.渦中の針
ガルドの運転する大型魔導車が、雨水を孕んで川のようになった道を切り裂くように走る。エルヴは助手席で、腰の針箱を握りしめていた。後部座席にはネフィラとメラディが座っている。
エルヴ、ネフィラ、メラディの三人は分館に着くと、外套から水を跳ね飛ばしながら地下へと駆けた。旧水路のバイパスは、地上の嵐の余波を受けてか、水嵩を増していた。石壁を伝う水音が、絶え間なく反響している。
激しい水流が足元を打ち、湿り気と混ざり合った独特の生臭い水の匂いが、狭い空間に充満していた。灯りの乏しい暗い水路を、三人は水飛沫を上げて進んだ。
やがて鉄扉の開いた水門管理室へと辿り着く。ネフィラを先頭に静かに足を踏み入れ、奥へと進んでいくと、水中点検用に穿たれた深い縦坑の脇に、青白い魔石灯の光がぽつんと揺れていた。
その光の輪の中に立っていたのは、エイレンだった。
エルヴが脚を止め、低く呼びかけた。エイレンはゆっくりと振り返り、静かな眼差しを向ける。
「随分とお早い。嵐が過ぎるまで待つかと思っていたのですが」
その口調には、いつも通りの穏やかさが漂っていた。
「お前のしたことは許されない」
メラディが前に踏み出し、口からパチパチと火花を散らした。ネフィラも無言で腰の大剣の柄に手をかける。
「理解されないことは承知のうえです。私はただ先に進もうとしただけですよ」
エイレンは淡々と言い放つと、次の瞬間、素早く体を翻した。そのまま手すりを飛び越えて縦坑の闇へと身を躍らせる。縦坑の底から落水音が跳ね返った。
「逃げた、泳いでる…!」
エルヴが手すりから身を乗り出すと、黒く波を切って、影が水中を滑った。
「追うぞ!」
ネフィラが叫び、水門管理室から引き返した。三人は水路に沿って通路を駆けた。肉体強化を受けたネフィラの背中は、みるみるうちに暗がりの中へと遠ざかっていく。
エルヴが肩を上下させ、息を切らしながらようやく追いついた場所は、極端に幅の狭い細い水路だった。
暗闇の中、金属と金属が激しくぶつかり合う火花が散っていた。ネフィラとエイレンが、剣を交わしている。風の魔力を纏ったネフィラの斬撃を、エイレンは滑らかな手首の動きで巧みに受け流し、軌道を逸らしていた。
そのすぐ背後では、メラディが杖を構えたまま動けずにいた。水路内に満ちる湿気の中、ここで下手に炎を使えば、高温となった空気が狭い空間に充満し、ネフィラをも焼き尽くしてしまう。
エルヴの目が、暗がりの中でエイレンの身体の動きを捉えた。
―奇妙だった。
エイレンの動きは、人間としての重心移動を完全に無視していた。まるで、右腕から先だけが独立した熟練の剣士のように精度高く剣をさばいている。だが、胴体や脚はその腕の勢いにただ引きずられ、後からついて回っているかのようだった。
エルヴの脳裏に、ナザルクの言葉が蘇る。
『…問題は、これを使えば、他者の優れた能力―俊敏な脚の筋肉、腕利きの剣士の腕―それを、そのまま移植できてしまうことだ』
ネフィラの踏み込みから放たれた剣を受け止め損ね、エイレンの右肩口が鋭く切り裂かれた。衣服が割れ、内部の肉が露出する。
しかし、一滴の血も流れなかった。
切り裂かれたはずの場所から、透明な粘液のようなものがドロリと溢れ出し、見る間に傷口の溝を埋めていく。エイレンは左手で自身の肩を掴むと、ぐちゃりという音を立てて、ずれた骨と肉の位置を力任せに押し戻した。
「なに…?」
ネフィラが息を呑み、刃を構えたまま身を引いた。その隙を逃さず、エイレンが鋭い突きを繰り出す。ネフィラは間一髪で後方へと跳んで避けた。
(…この、仕立ては…?)
エルヴは息を殺して観察する。あきらかにエイレンは肉体に何らかの仕立てを受けている。しかし、その筋肉の動きや伸縮の境界において、どこを探しても“縫い目”が存在しなかった。
「ネフィラ、伏せろ!」
ネフィラの背後から飛び出したメラディから、鋭く息が吐き出される。次の瞬間、彼女の口から走った細く絞った炎が、エイレンの胸に向かって闇を裂いた。
伏せたネフィラを過ぎ、紅の熱線が空気を焼く。
エイレンの体が、解けた。
熱線によるものではない。エイレンの体は、“自ら”崩れて、解けた。
エイレンの上半身がグニャリと歪み、曲がる。熱線は肉を焼くことなく、闇へと吸い込まれた。身を起こしたネフィラが目を見開く。途中で時を止められた歪な王冠状の波紋のように、溶けたエイレンの上半身が、淡く向こう側を透かしている。腰まで溶け落ちた彼の右手が、透明な粘液を滴らせながら、剣をゆっくりと持ち上げた。形を失っていた肉体が、粘土のように捏ね上げられていく。
エルヴはその透明な粘液の中に、細く輝くものを見た。
「金の針…!」
エルヴの声に、形を取り戻したエイレンは穏やかに微笑んだ。
「えぇ、美しいでしょう?」
エイレンが一歩近づく。エルヴは身構えた。ネフィラが、大剣を振りかぶり、エイレンの首に斬りかかる。彼の頭が粘液を引いて滑り落ちた。エイレンは左腕をしならせて頭を受け止めながら、歩みを続ける。
エルヴの前で、その歩みが止まった。エイレンの右手の剣が、避けるまもなくエルヴの首元に当てられた。
「エルヴ君」
その呼び方に、エルヴの背筋が冷えた。
「シルヴァン先生は、君のせいで変わった」
エイレンの声が、暗い地下水路に落ちる。水音が、低く重く響いた。
「集中させ、極めることに、迷いのなかった人だった。それが、君が育つにつれて、臆病になった。翼を、あえて未完成のままにするような、そんな…弱さを、身につけた」
「それは、俺を守るためだった」
エルヴが返した。
「知っている。だから、憎いんです」
エイレンの左手に抱えられた頭が、エルヴを見ている。首と頭を、糸を引く粘液が繋いでいた。
「君さえいなければ、シルヴァン先生は、あの完成された技術を、最後まで貫いただろう。クロイゼン閣下において、そうであったように。そして、完全な翼が、完成していたはずだった」
エイレンの声は、静かなままだった。粘液の中に、金の針が光っている。その針の根本に、鱗模様があった。クロイゼンに仕込まれていたものと同じものだ。
「先生が成さないのならば、私が受け継ぐ」
エイレンが、頭を首に戻した。ポケットから何かを引き出し、エルヴの前に放る。
「“それ”以外の全てを」
それを包んでいた革紐が、放られた衝撃で緩んでいた。隙間から覗くのは金の輝きだった。エルヴの目が見開かれ、震える手がそれを拾い上げ、革紐を素早く引き解く。
―模様の無い、金の針。
父のサインが、歪に途切れていた。
まるで、半ばで力を失ったように。
「お前、まさか…」
エルヴの声が震える。ネフィラとメラディが、エイレンの背後で顔を強張らせている。
「言ったでしょう?私が“全て”を受け継ぐと」
エイレンの右手が引かれる。刃が、エルヴの首筋の皮膚を薄く裂いた。ひりつくような痛みが走る。刃が更に深く食い込もうとしたとき、エイレンの右手首が崩れた。
ネフィラの投げた短剣だった。
短剣が、粘液と化した右手首に、粘りながら沈んでいる。糸を引いて溶け落ちる右手を、エイレンは正面を向いたまま、くねるように左肩を落とし拾った。吸い付くように右手が戻る。そこにも、金の針が光っていた。彼は動きを確かめるかのように、軽く指を曲げのばしすると、ネフィラを振り返った。その隙に、エルヴは距離をとっていた。革紐を荒く巻き直し、金の針をポケットに収める。
「ゆっくり話もできませんか…」
エイレンの体が、輪郭を失っていく。まるで熱で溶けた蝋のように、皮膚が、筋肉が、骨格が、次々と崩れていく。だが、それは崩解のそれとは、決定的に違っていた。
崩解体特有の、無秩序な泥化ではない。ドロリと溶けた透明な粘液の中に、水泡のようなものが無数に揺らいでいる。水泡の中には、顔料めいた色彩が渦を巻く。そのとりどりの水泡の隙間を、金色の細い光が幾つも漂っていた。
粘液の中に、剣と、半透明のエイレンの顔が浮かぶ。
「糸があるから、解ける」
水泡の一つが脈動するように震えた。
「ならば、糸を無くしてしまえばいい」
粘液が、油膜のような虹色の光沢を帯びている。
―人血染め。
ナザルクの言葉がエルヴの脳裏に再び蘇る。
『人間に使うと、周囲の組織を巻き込んで糊のように溶ける』
(糸が、全身に及んでいる…。一体どれほどの人間の血を犠牲に…)
エルヴはエイレンを見据えた。エイレンが、糸を染めるために使った人間たち。そのうちの一人は、エルヴの父だ。
(―許さない)
エルヴの背で、銀翼が開きかける。だが、彼の喉は、氷を飲み込んだかのように硬直した。
解くべき糸が、無い。
エイレンが、地を滑るようにエルヴに這い寄った。鎌首をもたげるように粘液全体が波打つ。それが覆いかぶさろうとした時、再び後方から熱線が飛んだ。ジュッ、と音がして、白い煙が上がる。半ば肉色を残したエイレンの顔が歪んだ。
「この…!」
走り込んだネフィラが、エイレンの顔目がけて剣を払う。風を纏った一撃が、周囲の粘液を巻き込んで形を崩した。だが、弾け飛んだ数個の塊が、引き戻されるように本体へと帰っていく。金の針が、その根本で光った。
「ネフィラ、斬撃は無駄だ」
メラディが距離を詰めた。彼女の右手のひらに、紅の炎が灯る。メラディはその手を、エイレンに向かって突きだした。肉体が焼かれる痛みに、エイレンが身を捩る。彼は体を細く変化させると、メラディとネフィラをすり抜け、通路の先の格子扉に向けて滑った。液状化した体は、鉄格子の狭い隙間も、造作なくすり抜けていく。
「追え!」
メラディが叫んだ。三人は、水路沿いを走り出した。狭い通路の先、格子の向こうに、再び人の形を成そうとするエイレンの姿があった。
「逃がさん」
メラディの口から熱線が迸った。エイレンが、戻りかけた全身を歪ませながら避ける。ネフィラが格子扉に剣を叩きつけ、がたついたところを肩で押し破った。
エイレンの体が粘土のように潰れ、湿った音を立てて石壁を這っていく。
「くそ、狙いが定まらん!」
メラディの吐き捨てる声とともに、口元から走った細い赤熱線が空気を焼き、水路の暗闇を虚しく切り裂いた。熱が通り抜けた石壁の表面が赤く爆ぜ、水滴が弾ける。
ネフィラが石畳を蹴った。
「ネフィラさん、斬撃は…!」
「知っている!」
エルヴの制止を切り、疾走するネフィラが大剣を振るう。風の魔力を纏った刃が、壁面を撫でるように真横へ薙がれた。壁から引っぺがされた半透明の粘液が、ぼたぼたと足元へ撒き散らされる。
メラディが動いた。
落ちた塊が本体へ戻ろうと蠢く隙を逃さず、極細の熱線が連続して放たれる。ジュ、と湿った音が響き、白煙が上がった。熱を通された粘液が結合を失い、白く乾いていく。焦げた匂いが立ち込める中、壁から離れた塊がより合わさっていく。立ち上がる上半身が、落ちていた剣を拾い上げながら急速に人型へ組み上がった。粘液の下半身が蛇のようにのたうち、収縮する。
銀の刃が、ネフィラの前髪を払った。
エイレンは蛇のように地を滑り、常にメラディの射線上にネフィラの背中が重なるよう位置を旋回させる。人間としての重心移動を無視したその不規則な動きに、ネフィラの大剣がわずかに遅れた。
硬い金属音が交錯し、一撃がすり抜ける。
切っ先がネフィラの首筋を浅く裂いた。そこはかつてエルヴが施した、縫合痕が残る部位だった。微かな血が滲み、ネフィラが歯を食いしばる。
「ネフィラさん!」
「…問題ない!」
ネフィラは踏み込み、大剣の柄を握り直す。刃に巻き渡る風が激しさを増し、前傾姿勢から放たれた突きが、エイレンの胸腔を形作る粘液を爆ぜさせた。
メラディが首元の赤い布を引き抜いた。
赤黒い熱線が喉奥から吐き出される。だがその反動で、彼女の首元から白く煤けた鱗が数枚、パリ、と音を立てて剥がれ落ちた。
焼かれ、弾け飛んだ粘液の飛沫が、地に落ちてもなお死んでいない。石畳の上に散ったそれらが、風に吹き上げられる木葉のように立ち上がり、集束する。捩られた糸が一気に解けるような摩擦音を立て、伸ばされた粘液の細い筋が、火炎を吐き終えたメラディの喉元へ跳ねた。
「ぐっ…!」
メラディが低く呻く。
ジジ、と、濡れた肉が爆ぜるような音が響く。粘液が接触した箇所から、無傷だったはずの彼女の赤い鱗が溶け、剥がれ落ちていく。
(溶解させている…!)
粘液が、鱗を侵食し、分解している。その渦の中で、一筋の金色の光が小さく明滅した。鱗の模様を刻まれた、一本の金の針。
「メラディさん!」
思考より早く、エルヴの右手が伸びていた。
メラディの喉元を覆う透明な粘液の中へ、裸の指先を突っ込む。
ジリ、と指先から皮膚が焼き切れる熱が走った..感覚が麻痺していく手応えの中で、指先が固い質感に触れる。エルヴは夢中でそれを掴み、力任せに外へ引き抜いた。
ボタボタと、手を覆っていた粘液が結合を失って溶け落ちる。
「はっ…はぁっ…!」
メラディが激しく息を吐き出した。首元に残っていた粘液が退いていく。
エルヴの手の中に残されたのは、細い鱗模様の刻まれた、一本の金の針だった。
地面へ溶け落ちた数朶の粘液は、本体に戻ることもなく、水路の濁流へとそのまま滑り落ち、流されていく。
エイレンは、残る粘液を一つにまとめると、人間としての形態を維持することなく、水路の奥へと身を滑らせる。
「エルヴ、手を見せろ!」
駆け寄ってきたネフィラが、エルヴの腕を強く掴む。
彼の右手の皮膚は、火傷でもしたかのように赤黒く爛れていた。
「助かった、エルヴ」
メラディが喉を押さえながら、短く礼を言う。
エルヴは激痛を無視し、掌の中の金の針を見つめた。
「お前、職人だろう!手が、こんな…なぜこんな真似を…!」
ネフィラが声を絞る。エルヴの耳は、その声を遠く聞いていた。
(…停止点)
記憶が重なる。かつてクロイゼンが見せた、鱗模様の金の針。崩解を止める金の針。
今、溶け落ちたまま戻らなかった、エイレンの体の一部。
「…金の針だ」
エルヴの口から、掠れた声が出た。
「え?」
ネフィラが眉をひそめ、メラディもまた怪訝な視線をエルヴの手元へ落とす。
「あいつ、金の針で体を“止めて”いる」
エルヴの手指が、爛れた熱の中で確信を深める。弾けた粘液が本体に戻る時、その根元で金の針が光っていた。
「…なるほどな」
メラディの目が細められた。
「あいつのあの状態は、一種の“崩解”ということか」
「じゃあ、あの金の針を抜けば」
ネフィラの言葉に、エルヴは静かに頷いた。
「あいつは、戻れない」




