ep27.嵐の中
椀のスープはすっかり冷めていたが、誰も口に運ぶ手を止めなかった。クロイゼンは、鍋から温かいスープをよそわれ、少しずつ匙を口に運んでいる。エルヴは父の手帳を、膝の上でもう一度開いた。
ページを繰る指が、止まる。素材の配合比、運針の角度、魔力量の計算式。見慣れた父の字が、几帳面に並んでいる。だが、その合間に、明らかに後から書き加えられたと分かる、乱れた走り書きが挟まっていた。
エルヴはパンを千切り、口に運びながら、もう一度最初のページから目を通し始めた。
(金の針―結節点。魔力を、一点に集中させるための針)
ナザルクの言葉が蘇る。父が最初に生み出した金の針は、魔力を集める道具だった。だが、手帳の後半になるにつれ、記述の質が変わっていく。集中させることへの言及が減り、代わりに「逃がす」「解く」「止める」という言葉が増えていった。
(―何かに、気づいたのか?)
エルヴの脳裏に、水槽の中で緩やかに尾を揺らすオタマジャクシの姿がふと浮かんだ。尻尾が消え、足が生える。あれは、崩解ではなかった。
(違う、あれとこれとは―)
いや、本当に違うのだろうか。
(魔獣狩りの時―)
エルヴは、自分の肩に手をやった。魔獣狩りの折、毒牙を受けて脱落した銀翼。あの時感じた違和感が、今また、鮮明に蘇ってくる。
―毒の痕が、ほとんどない。
修復の際に確かめたはずだった。牙を受けた部位以外には、激しい変色も断裂も見当たらなかった。まるで、毒によって「壊された」のではなく、金の針を起点に、翼自身が「先んじて」解けたかのように。
(ナザルク先生の、剖検記録―)
エルヴは手帳を膝に置き、ナザルクが見せてくれた四体の記録を思い出した。フィオナの臓器の損傷は、骨格の崩壊による副次的なものに過ぎなかった。ミレイユに至っては、脳以外の臓器や骨格は、驚くほど無傷のまま残されていた。
(ガルドさんの、言葉―)
『鎧ってのはな、硬けりゃいいってもんじゃない。どこかに一点、"ここなら壊れてもいい"って場所を作っておく』
ガルドが甲冑の継ぎ目を指して語った言葉が、耳の奥で鮮明に蘇る。
『頑丈にしようとすればするほど、逆に一番弱いところに、全部の力が集まっちまう』
(メラディさんの鱗も)
使いすぎると剥がれ落ちるという、喉の赤い鱗。あれもまた、限界を超えた負荷を、一箇所に集めて逃がしていたのではないか。
エルヴの手が、震え始めた。
壊れる場所を、あらかじめ用意しておく。
そこが壊れることで、他のすべてを守る。
エルヴの手が、残り僅かとなったページにかかった。そこには、格子模様の針が記されている。
―崩解針。
エルヴは手帳の最後のページをめくった。乱れた筆致で、たった一行だけが記されている。
―『崩れる前に、解け』
雷鳴が、施設全体を震わせるように轟いた。
「…!」
エルヴの手から、手帳が滑り落ちかける。
「…先生」
彼の掠れた声が、口から漏れた。ナザルクが顔を上げる。
「これ、見てください」
エルヴは手帳を差し出した。ナザルクは片眼鏡の位置を直し、その一文へと視線を落とす。長い沈黙の後、彼は静かに息を吐いた。
「…なるほど。そういうことか」
「先生には、分かるんですか」
エルヴの問いに、ナザルクは手帳を閉じ、椀を脇へ置いた。
「シルヴァンは、私の弟子だった。まだ二ツ星の頃から見てきた。だから、彼がどう考えを変えていったか、想像はつく」
彼は片眼鏡を外し、布で拭った。
「最初、金の針は"結節点"として作られた。魔力を一箇所に集める。効率のいい仕立てのための道具だ。だが、それだけでは足りなかった」
ナザルクの声が、静かに紡がれる。
「異形化仕立ての規模が大きくなればなるほど、暴走のリスクは跳ね上がる。だからシルヴァンは、集めた魔力を、今度は"止める"ための針へと作り替えようとした。―停止点だ」
「クロイゼンさんの…」
「そうだ。だが、止めるだけでは、まだ足りなかった」
ナザルクは、エルヴの手にある手帳へと視線を戻した。
「シルヴァンは、自身の子―お前が生まれ、育っていくうちに、気づいたのだろうな」
ナザルクは部屋に足を踏み入れ、窓の外で唸る風の音に、一瞬だけ耳を傾けた。
「完成させることは、いつか、破綻を招く。翼という異物を完全に馴染ませようとすればするほど、綻びは全身へ広がる。…止める場所がなくなる」
「だから、父は…」
「金の針を、作り替えた」
ナザルクの手が、最後のページから戻り、格子模様の針の図をなぞった。
「シルヴァンは、これを完成させようとしていた」
雷が、遠くで低く鳴った。窓ガラスが小さく震える。ナザルクの白い手が、エルヴに手帳を返した。
「―解けることで、守る」
エルヴは、手帳の最後のページをなぞった。
「…自解点だ」
エルヴの言葉に、ナザルクが頷く。
「あれは、完成を諦めたわけじゃない。…完成の代償を、先に払う場所を、作ったんだ」
ネフィラが、エルヴの肩に静かに手を置いた。
(父さんは―)
翼を諦めたのではない。逃げたのでもない。
(俺のために、変えようとしていた)
エルヴの背の翼。父が最後まで完成させなかった、あの銀色の羽根。
それは、未熟さの証ではなかった。
「父さんは、金の針を完成させてから、翼を編もうとしていた」
エルヴの手が、無意識に自分の肩へと伸びた。皮膚の下に眠る、あの無銘の金の針の感触を、指先が確かめる。父がこの針に名を刻む時、エルヴの翼も、背に羽ばたくはずだった。
エルヴは、手帳の最後の一行を、もう一度見つめた。
―『崩れる前に、解け』
それは、執念にも似た、父の祈りだった。
窓の外で、雷鳴が響いた。稲光が、一瞬、部屋の中を白く切り取る。
嵐が、頂を迎えていた。
嵐が、外壁を通して吠えていた。
エルヴは父の手帳を膝の上に置いたまま、テーブルを囲む面々の顔を見渡した。
「嵐が収まるまで、動かないほうがいいんじゃないか」
ネフィラが窓の外を一瞥し、口を開いた。
「王都軍も、この天気じゃ動けないだろう。無理に動いて、こっちが不利になるのは避けたい」
「私も、そう思っていたところだ」
メラディが頷く。ガルドが腕を組んだまま、鼻を鳴らした。
「まあ、無理に嵐の中を突っ込むこともないだろうさ」
だが、ナザルクだけは、静かに首を振った。
「―いや。嵐が過ぎる前に、向かうべきだ」
全員の視線が、彼へと集まった。
「なぜですか」
エルヴが尋ねる。ナザルクは片眼鏡を指先で押し上げ、静かに語り始めた。
「まず、エイレンは水路に詳しい」
「それは…知っています。彼は検体の運搬で、長年関わっていましたから」
「その通りだ。旧水路のバイパスも、水門管理室の存在も、彼にとっては馴染みの領域だろう。天候が収まれば、彼は水路を使える…これは、我々にとって不利な条件だ」
ナザルクは、テーブルの上に指を滑らせた。
「もう一つ、気になることがある」
「気になること?」
ネフィラが問い返す。
「ミレイユ嬢の一件だ」
ナザルクの声が、僅かに低くなった。
「彼女の焼き払われた翼の欠損は、自分の左腕を溶かして埋められていた。…組織を、意図的に再配置していた」
エルヴの脳裏に、あの日の光景が蘇る。糊のように溶け落ちた左腕が、翼膜の破れを埋めていく、あの異様な光景。
「それに」
ナザルクが続けた。
「クロイゼンが言っていただろう。“腹から心音がした”と」
クロイゼンが頷く。
「臓器の位置が、本来あるべき場所からずれている、ということだ」
「ずれてる…、そういえば」
トビアスが声を上げる。
「エイレンさんの採寸…腕や腹回りの数値が…その、測るたびに変わってて」
全員の視線がトビアスに向いた。
「単なる測り間違いだと…でも、太るなら全部太くなるはずなのに、エイレンさんは、腕は太くなってるのに、腹回りは細くなったりして」
トビアスの言葉に、ナザルクが顎に指を当てる。
「つまり…」
メラディが、低く呻くように言った。
「あいつは、自分の体を、意図的に組み替えることができる、ということか」
「断定はできない。だが、その可能性は高いと見ている」
ナザルクは、静かに一同を見渡した。
「もし、そうだとしたら」
彼の声が、一段と重みを増した。
「体格を変え、人相を変え、我々の目の前をすり抜けることも可能だということだ。時間をかければかけるほど、奴は姿を変え、この王都のどこにでも紛れ込める」
ネフィラの拳が、テーブルの上で強く握られた。
「―見失えば、二度と追いつけないかもしれないのか」
「その通りだ」
ナザルクは頷いた。
「嵐は、我々にとっても厳しい。だが、待てば待つほど、奴に有利な状況を与えることになる」
雨音と風の唸りが室内を満たす。雷鳴が、再び窓を震わせた。
「行くしかない、ということか」
ガルドが、太い腕を組みながら低く呟いた。
「私は反対しない」
メラディが、首の赤布を強く巻き直しながら言った。
「あいつを、これ以上好きにさせるつもりはない」
「私も、準備はできている」
ネフィラが、腰の大剣に手を当てた。
エルヴは、膝の上の手帳を、そっと閉じた。父の文字が、指先の下で静かに沈黙する。
「…行きましょう」
エルヴの声に、迷いはなかった。
「俺も行く」
クロイゼンが言うも、ナザルクが首を振った。
「駄目だ、キリウス。まだ本調子ではない」
クロイゼンは言い返そうとしたが、立ち上がろうとしてよろめき、悔しげに息をついた。
「私はここで、彼をみている」
ナザルクがエルヴたちを振り返った。
メラディが立ち上がる。
ネフィラが、甲冑の留め具を締め直す。
エルヴは、父の手帳を懐深くしまいこんだ。
稲妻が、風雨を劈き、落ちた。




