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ep26.人血染め

第五支部の内部は、外観よりもさらに荒廃していた。


高い天井から吊り下がる魔石灯は、半数以上が光を失っている。壁一面に並ぶ棚には、埃を被った書物や器具が整然と、しかし長年触れられていない様子で収まっていた。


「私はここで、クロイゼンを診る」


ナザルクは施術室にクロイゼンを運び込ませた。ガルドとトビアスは、大型魔導車から持ち込んだ木箱を待機室に広げ、鎧の修繕道具を手際よく並べ始める。


「出入りの痕跡が無いか調べるぞ」

メラディが魔石灯を掲げて歩き出した。エルヴとネフィラもそれに続く。





足元に積もった埃を踏みしめるたび、乾いた音が廊下に響く。靴底に伝わる感触を確かめながら、ネフィラが足を止めた。


「ここ…他の支部と作りが違う」


エルヴも周囲の壁面に視線を走らせた。滑らかな石組みではなく、厚い鉄板が壁の要所に打ち込まれ、太いボルトで締められている。縫籍院の一般的な支部というよりは、鉄針府のような軍事要塞の堅牢さに近かった。


メラディは無言のまま、「備品庫」の文字がかすれた木扉に手をかけ、押し開けた。


立ち上る埃の匂いとともに、魔石灯の光が室内を照らし出す。そこに並んでいたのは、棚や棚段ではなく、人間の身長ほどに組まれた何台もの頑丈な木枠だった。ちょうど肩甲骨あたりの高さにあたる位置に、分厚い横板が水平に渡されている。


「固定架…?」


エルヴが呟くと、メラディは短く頷いた。エルヴたちはゆっくりと木枠へ歩み寄る。横板の表面は分厚い埃で覆われていたが、よく見ると幾重にも打たれた釘孔と、革帯の擦れ痕が残っていた。


「…ここで、私達は翼をつけられた」


メラディの声は低く、平坦だった。彼女は並び立つ固定架のうち、他のものよりも一回り小ぶりな木枠に触れた。木肌に落ちた指の跡が、白く浮かび上がる。


「15年前のことだ」

「大戦の時か」

ネフィラが低く応じる。


ふと、メラディが灯りを掲げ、部屋の奥まで整然と立ち並ぶ固定架を見渡した。視線を細め、一つひとつの木枠を確かめるように巡らせる。


「…無い」

「何がだ?」

「クロイゼンの」


メラディは即座に踵を返し、備品庫を後にした。エルヴとネフィラもその背中を追う。


次にメラディが押し開けたのは、重厚な書庫の扉だった。古書の黴と、湿った紙の匂いが一気に鼻腔を突く。部屋の奥へと進み、作業机に差し掛かった瞬間、エルヴの目が留まった。


「これ…!」


散乱する紙片の山から引き抜いたのは、見覚えのある文字列の紙面だった。


「銀針堂の門弟名簿だ…破り取られていた…」


欠損していたページ。銀針堂から奪われた名簿の断片が、そこに並べられていた。


ネフィラが近寄り、魔石灯の光を照らす。机の傍らには、右腕の素体が転がっていた。表面に走る緋色の鮮やかな飾り縫い。間違いなく、これも銀針堂から盗まれたものだった。


「こっちだ」


メラディの声が、書棚の最奥から響いた。エルヴとネフィラが駆け寄ると、彼女は並んだ保存槽の前で硬い表情を浮かべていた。


エルヴの目は、そのうちの二つに止まった。槽の内部には、白い羽毛の一部と、肉色の翼の断片が、それぞれ保存液の中に浮遊している。


「フィオナの…、ミレイユの」


エルヴの首筋が冷たく凍りついた。裁断された翼の断面は、筋繊維や骨格の結合部に沿って正確に切り分けられている。


「まだ、他にもある」


ネフィラが棚の下段を指差した。エルヴが屈み込み、そこに几帳面に重ねられていた革表紙のノートを手にとる。ページをめくると、細かな筆致でびっしりと数値と記号が敷き詰められていた。


―適性A。

―適性B、拒絶反応あり、廃棄。

―適性C、経過観察中。


そこには人間の名前はなく、ただ無機質な符号だけが並んでいた。めくるたび、同じ形式の記録が延々と続く。


「これは…」


ネフィラが棚の隅、他とは違う質感の糸束を見つけ、手を伸ばした。


「エルヴ、これも見てくれ」


差し出された糸は、赤黒く、粘性を帯びていた。エルヴがそれを受け取ろうとした、その時だった。


「―お前ら、飯にするぞ!」


通路の奥から、ガルドの太い声が響き渡った。


エルヴは思考を断ち切り、糸束を素早く布で包み込むと、ノートと共に小脇に抱えた。ネフィラとメラディも視線を交わし、書庫の出口へと向かい始める。


だが、部屋を出る間際、エルヴの視線が作業机のわずかに開いた隙間に吸い寄せられた。


薄暗い引き出しの奥に転がっていたのは、薄汚れた小さな革手帳だった。角の擦り切れ方、背表紙を留める麻紐の独特な結び目に、エルヴの息が止まった。


手帳を手に取り、開く。


並ぶ文字は、紛れもなく父シルヴァンの筆跡だった。


極細の骨針の削り方、肉糸への薬液の染み込ませ方、運針の角度、幼い頃から銀針堂で何度も目にしてきた、あの角の張った力強い文字。


「エルヴ、来ないのか」


入口で立ち止まったネフィラの声に、エルヴは弾かれたように手帳を閉じた。


「…今、行きます」


胸に押し込んだ手帳の下で、エルヴの心臓が跳ねるように大きく鳴っていた。





施術室隣の待機室では、簡易の炎石炉に鍋がかけられ、湯気が立ち上っていた。


「はい、どうぞ」


トビアスが、椀を一つずつ差し出す。ガルドが横から覗き込み、鼻を鳴らした。


「相変わらず手際いいな」

「防具の修理より、こっちのほうが向いてるかもしれません」

「おい」


ガルドが苦笑し、トビアスの頭を軽く小突いた。クロイゼンは、暖炉の近くのソファに寝かされていた。


「クロイゼンは」

メラディが真っ先に問う。


「安定した。命の心配は、もうない」


その言葉に、エルヴは詰めていた息を、静かに吐き出した。ネフィラも同じように、強張っていた肩の力を緩める。


椀を受け取ったエルヴは、書庫で見つけた肉糸の束を鞄から取り出し、ナザルクの前に置いた。


「先生、これ…書庫にあったものです」


ナザルクは椀を置き、肉糸を手に取った。指先で撫で、光にかざす。表情が、次第に硬くなっていく。


「…人血染めだ」

苦々しい声だった。


「人血染め…」


エルヴは、以前ナザルクから聞かされた言葉を思い出す。人間の血液を用いた、最重の禁忌。


「…私が知る限り、この技術を最初に確立したのは―」


ナザルクは言葉を切り、片眼鏡の奥で瞳を細めた。


「エイレンだ」


その名に、メラディの手が止まった。


「かつて、彼は極星だった。この技術のせいで、星位を剥奪された」

ナザルクは一旦言葉を切った。


「魔物の血で染めた糸は“異物”として残る。しかし、人の血で染めた肉糸は、普通の魔物由来のものとは違う。糊のように溶けて、被施術者の肉体と癒着する。馴染みすぎるんだ。だが、それだけではない」

ナザルクは肉糸を持つ手を、僅かに強張らせた。鍋がクツ、と小さな音を立てた。


「…問題は、これを使えば、他者の優れた能力―俊敏な脚の筋肉、腕利きの剣士の腕―それを、そのまま移植できてしまうことだ」

ナザルクの声が、低く沈んだ。


「だからこそ、最悪の禁忌とされている。裏社会での誘拐や、"素材狩り"の温床になりかねない技術だからだ」


エルヴは、糸の粘性を思い出し、無意識に自分の指先をこすった。かつて聞かされた「人血染め」の説明が、今、目の前の糸と結びつく。


「私が知る人血染めより、遥かに進んでいる」


ナザルクは糸を光に透かし、片眼鏡の奥で目を細めた。


「…なぜ、あの男は人血染めを?」

ネフィラが問うた。


ナザルクがネフィラに視線を移す。彼は、しばらく考えるように顎に手を当てた。人血染めの肉糸が、暖炉の火を受けてぬらりと艶めく。


「15年前…大戦の時だ」

ナザルクは低く言った。


「当時、大きな計画が動いていた。そのために、国中の優れた仕立て師達が集められた。私やヴェリシア、シルヴァン…そしてエイレンもその一人だった」


エルヴには、ナザルクが慎重に言葉を選んでいるのが分かった。おそらくそれは軍の、国の機密に関わることなのだろう。


「戦争には犠牲がつきものだ。そしてそれは、敵や戦いによるものとは限らない」


ナザルクの言葉に、メラディが顔を伏せた。彼女の手が、首の赤布を握りしめる。


「エイレンは…その犠牲者たちを“素材”にした。シルヴァンは重刑を主張したが…エイレンはそれを“弔い”だと言った。死者たちの遺志を継ぐ行為だと」

「…彼は、本気で?」


エルヴの問いに、ナザルクが頷いた。ナザルクは、胸に溜まったものを吐き出すように、長く息をついた。


「私も、それを完全には否定できなかった」


ナザルクは、自身の白い手の中の人血染めの糸を見た。ナザルクが自身の両手だけでなく、手足を失った傷病兵らに、死体の部位を接合していることは誰もが知っていた。そして、「再び剣を握れた」、「また自分の足で立てた」と喜ぶ兵士たちがナザルクに頭を下げる姿を、エルヴは氷骨堂で見ている。


「彼の行為が発覚した当時とは、比較にならないほど緻密だ。これを作るには、相当な数の…」


ナザルクの言葉が途切れた。彼の視線が、エルヴの持つノートへと移る。


「それを」


エルヴが差し出すと、ナザルクは素早くページをめくった。”適性A”の文字に指を這わせ、眉間の皺が深くなっていく。


「…定着適性、か」

「どういう意味ですか」


エルヴが問うと、ナザルクは答えず、ただ静かにページを繰り続けた。


「う…」


ソファから、微かな呻きが聞こえた。


「クロイゼン」


メラディがすぐさま駆け寄る。エルヴとネフィラも歩み寄ると、クロイゼンの瞼が、震えながら開いていた。焦点の定まらない瞳が、天井の梁を彷徨う。


「…ここ、は」

「第五支部です」

「…第五…」


エルヴの答えに、クロイゼンが目線を動かす。彼はしばらく黙っていた。それから、掠れた声で言った。


「…あいつは」

「あいつ?」

「エイレンだ」


エルヴの背筋が冷える。


「何を?」


クロイゼンは答えようとして、息を詰まらせた。


ナザルクが止める。

「無理に話すな」

「いや、…話す」


クロイゼンがゆっくりと口を開く。その横顔に、暖炉の火影が揺らめいていた。





意識が戻った時、クロイゼンは石造りの狭い部屋にいた。魔石灯の乏しい光が、湿った壁を青白く照らしている。手足には封蠟帯が幾重にも巻かれていた。保存槽の外殻に、指先が触れる感触があった。麻痺毒の名残が、まだ指先の感覚を鈍らせている。

視界の端に、覗き込むエイレンの顔があった。いつもと変わらない、穏やかな表情だった。


「ああ、良かった。意識が戻りましたね」


彼の白手袋に包まれた手が映る。彼はクロイゼンの傍らに膝をつき、まるで往診に来た医者のような佇まいで、脈を確かめるようにクロイゼンの首へ指を這わせた。


「痛みはありませんか、閣下。麻痺毒は、あまり長く使うと組織にも負担がかかるので」


まるで世間話でもするような口調だった。クロイゼンは奥歯を噛み締め、必死に身をよじろうとしたが、封蠟帯はびくともしない。


「動かないでください。せっかくの肩甲骨の位置が、ずれてしまいます」


エイレンは静かに立ち上がると、傍らの作業台へと向かった。木製の台の上には、見覚えのある道具が並んでいる。骨針、裁ちばさみ、羊皮紙に描かれた図。クロイゼンの視線がそこに釘付けになる。


図に描かれていたのは、人体の解剖図だった。肩から上腕、そして―翼の付け根。


「…何を、するつもりだ」

「必要なものをいただくだけです」


あまりにも穏やかな声音だった。


「筋肉。骨。血液。いくつかの内臓も」


クロイゼンの瞳が見開かれる。


「あなたには、シルヴァン先生の全てが詰まっている」

エイレンの声には、憧憬にも似たものがこもっていた。


「シルヴァン先生の針は美しかった。魔力を集め、流し、制する。より強く、よりしなやかに…あの銀翼を手がけるまでは」


エイレンが、作業台から何かを取り上げた。金の針だ。強化されたクロイゼンの視力は、その根本に刻まれた鱗模様を見た。


「15年前の大戦…あなたは22歳で投入された」


クロイゼンの目が細まる。エイレンの手の中の金の針が、魔石灯の光を照り返した。


「翼兵計画。第五次翼兵候補兵全25名、うち生存者2名。一方は片翼、一方は双翼」


エイレンは、クロイゼンの肩口のあたりに視線を滑らせた。


「極星、シルヴァン・テイラーによる九分仕立て。老化の鈍化。推定肉体年齢25歳。黒竜の骨翼。筋肉、骨格、神経系、いずれも高い定着率を維持。現在まで大きな拒絶反応無し…双翼で投入されたうちの、ただ一人の生き残り」


エイレンは流れるように続けた。


「レイ特務も悪くは無かったのですが…」

「メラディに手を出すな」


クロイゼンの言葉に、エイレンが肩をすくめる。


「ええ、彼女は片翼ですから」

エイレンが歩み寄る。


「本当は、エルヴ君で先に試すつもりでした」

エイレンが懐に手を差し入れる。引き出された指には、緑色の手紙が挟まれていた。


「あなたの狩ってきた、黒竜の素材で。…しかし、予定が狂いました」

エイレンは穏やかに続けた。


「レティシアさんの目覚めが近いようでしたので。前倒しにせざるを得なかったのです」

エイレンは槽の縁に肘をつき、まるで見舞客のような姿勢でクロイゼンに話しかける。


「安心してください」

エイレンが微笑む。


「脳は残します。以前、動物で試したことがあるのですが、脳を重ねると、ひどい混乱をきたしてしまって。…上手くいかなかった」


淡々と、まるで失敗した料理の反省を語るような口ぶりだった。


「血を作るための脊椎も、残します。あなたの血は、有用ですから」

「…お前の」


クロイゼンの声が震えた。恐怖ではない。もっと深く、腹の底から込み上げる嫌悪だった。


「お前の、目的は」

クロイゼンが問う。


「完全な翼」

エイレンが答えた。


「それが、死んでいった者たちのためだと思いませんか?」

エイレンは懐に手紙を戻した。そのまま、裁断礼をとる。―背信あらば断て。


「麻酔は使いますよ。あなたを、苦しませたいわけではないんです」


まるで、それが何よりの配慮であるかのような口調だった。クロイゼンの喉の奥で、声にならない呻きが鳴った。動かせるはずのない指先が、無意味に痙攣する。


「あなたは、かけがえのない存在ですから」


エイレンは槽の縁から身を起こす。なぜか、彼の腹のあたりから、ドクリ、と鼓動が聞こえた。


ゆっくりと、保存槽の蓋が閉じられる。最後に聞こえたのは、耳元で鳴る薬液の静かな音だけだった。





クロイゼンが話し終えた時、室内に、重い沈黙が落ちた。外では、嵐がなおも激しく、施設の壁を叩き続けていた。

ナザルクが、手にしたノートを静かに閉じた。


「…適性A、というのは」


エルヴが呟くと、ナザルクが低く頷いた。


「…素材としての適性だろう。誰の何を、自分にどう取り込むか。奴は、それを選別していたんだ」


ナザルクが片眼鏡の位置を直した。

「…施術室に、かつてのクロイゼンの固定架が用意されていた」


メラディの目元が険を含む。


「他人を、素材として取り込むつもりだと…?」

ネフィラの声が掠れた。


「取り込むつもり、ではないかもしれない」

ナザルクが静かに言葉を継いだ。


「既に、いくつかは―実行済みかもしれない」


窓ガラスを叩く雨音の向こう、雷鳴が地を揺らすように轟く。


椀の中のスープは、いつの間にか冷め始めていた。誰も、それに手をつける気になれずにいた。


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