ep25.第五支部
エルヴらは、クロイゼンを薬液を抜いた保存槽に入れ、台車に乗せて暗い通路を引き返した。分院に戻り、クロイゼンを古びた施術室に運び込む。軋む施術台の上に彼を横たえ、エルヴはその脈を確認した。
「脈が…どんどん弱くなってる」
エルヴの言葉に、メラディが唇を噛む。
「エルヴ、何とかできないのか」
ネフィラが問うた。
エルヴは青ざめていくクロイゼンを見やり、俯いた。
「…三ツ星の俺が、極星仕立てのクロイゼンさんを施術するには、監督資格者2名が必要です」
―期間中に同様の違反行為があれば極刑。
その言葉がエルヴを縛っていた。たとえ、目の前で人が死にかけていても。
「ならば、監督官は私とクロイゼンだ」
メラディの言葉に、エルヴとネフィラが顔を上げた。
特務魔道士であるメラディには監督資格がある。そして、極星仕立てであるクロイゼンにも、監督の資格が認められていた。だが、その本人は今、意識すら朧げなまま、浅い呼吸を繰り返しているだけだった。
「クロイゼンさんは、今…」
「監督者の意識の有無は典範に定められていない。私が半分、あいつが半分。文句があるか」
それこそ有無を言わさぬ調子だった。エルヴは短く息を吐き、頷いた。
「…始めます」
エルヴは骨針を台の上に並べ、クロイゼンの左肩へ視線を落とした。
黒竜の骨翼の仕立てを施された肩口から、翼の付け根が浮き上がりかけている。エルヴは骨針に皮膜肉糸を通し、クロイゼンの皮膚に針を潜らせた。チリ、と肉を通す感触が指骨に伝わる。
針を運ぶたび、エルヴの脳裏にクロイゼンの仕立てが彫り出されていく。
筋繊維に沿わせて幾重にも束ねて巧みに編み込まれた肉糸の痕跡。皮膚の表には一本の糸も出すことなく、肉の隙間と骨の裏側だけをくぐる不可視の運針。
(…父さんの仕事だ)
まぎれもなく、父の針だった。寸分の狂いもなく打ち込まれた骨針の角度、肉糸の結び目の角度、そのすべてが、エルヴの中の父の記憶を手繰り寄せていく。
針を進めるエルヴの手先は次第に重さを増していった。
「…足りない」
彼の口から、掠れた呟きが漏れた。
針が追うべき深層の縫い目が、エルヴの指先から遠ざかっていく。父が施した極星の仕立ては、三ツ星であるエルヴの針が届く深さよりも、はるかに奥深い場所にまで根を張っていた。それが、定着薬の枯渇によって狂い始め、反発を起こしている。
「俺の針では届かない…」
エルヴの指が震えた。糸を引き直そうとしても、手応えがあまりにも軽い。
「エルヴ」
ネフィラの言葉に、エルヴは顔を上げた。
「お前は、レティシアを救った」
「…俺だけの力じゃない」
「今も、お前だけじゃない」
ネフィラが真っ直ぐにエルヴを見つめる。
「お前の針は、命をつなぐ針だ」
エルヴは息を呑んだ。
「私も、メラディもいる。それに、将軍を仕立てたのは、誰だと思っている」
エルヴの指の震えが止まった。父が施した仕立ては、今もクロイゼンの肉体の中で息づいている。自分はその「縫い目」の辿り方を知っているはずだった。
エルヴはネフィラを見つめ、次いで背後に立つメラディを見た。最後に、施術台の上で浅い息を繰り返すクロイゼンへと視線を戻す。
「…定着薬と、専門的な処置が要ります」
エルヴの言葉に、メラディの喉から押し殺した低い音が漏れた。彼女は翻然と背を向けると、部屋の隅、壁に掛けられた古い通話鏡へと歩み寄った。
「ナザルクを呼ぶ」
「ナザルク先生を…」
エルヴの脳裏に、あの保存槽の蓋を押し開けた時の匂いが蘇った。―あの、薄荷にも似た冷たい匂い。
―559番の保存槽を用意し、クロイゼンを攫ったのは、ナザルクかもしれない。
「応えなければ焼く」
メラディは短く吐き捨てると、通話鏡に触れた。鏡面が鈍く光り始める。
「…それまで持たせます」
エルヴは小さく頷き、骨針を持ち直した。新しい糸を針に通す。極細の糸が、エルヴの指先で繊細な網目を描いていった。
しかし、通話鏡からは沈黙だけが返っていた。
「くそ…出ない」
メラディの声が波立つ。何度魔力を流し込み、呼び出しの術式を叩き込んでも、鏡面は鈍い灰色に濁ったままで、ナザルクの声は応答しない。
「鋼骨工房は?」
ネフィラが提案した。
メラディは即座に反応し、通話鏡の接続先を切り替えた。
『…はい、こちら鋼骨工房』
鏡から聞こえてきたのは、見習いであるトビアスの声だった。
「ナザルクはいるか」
『あ、はい…ちょうど、今いらっしゃって―』
「変われ」
メラディの命令に、鏡の向こうで短い混乱の音が響き、やがて、穏やかな声が返った。
『何事かい?』
ナザルクだった。
「クロイゼンが見つかった」
メラディが告げた瞬間、鏡の奥の気配が一変した。ナザルクの呼吸の隙間が消える。
『どこだ』
「分院だ。定着薬が切れている。衰弱も激しい」
『分かった。薬を持っていく』
即座だった。メラディは間髪入れずに言葉を重ねた。
「食料と毛布、着替えも頼む。クロイゼンと、ネフィラの分だ」
『すぐ向かう』
接続が切れ、鏡の光が消えた。
「…来るそうだ」
メラディが通話鏡から手を離し、短い息を吐いた。ネフィラもまた、緊張させていた肩をわずかに緩めた。
「そういえば、エイレンはどうした」
メラディがふと思い出したように周囲を見回した。
「来てないな。衛兵も」
「…」
ネフィラの言葉に、メラディは眉をひそめた。通報に向かったはずのエイレンの遅さが、仄暗い部屋に影を落とす。
「…やれることはしました」
エルヴが骨針を置き、手袋を脱いだ。
施術台の上のクロイゼンの呼吸は、先ほどまでの途切れがちな浅さから、やや落ち着いた一定のリズムを取り戻していた。
メラディがゆっくりと施術台に歩み寄る。クロイゼンの胸の上下を見つめる彼女の鋭い目元には、険しさが残るものの、確かに安堵の色が宿っていた。
嵐は、確実に近づいていた。分院の外壁を叩く風が、次第に唸り声のような音を立て始めている。
エルヴ達はクロイゼンを施術室から、暖炉のある、隣室の待機室に移動させていた。ネフィラが、濡れた服を暖炉の前で乾かし、メラディがクロイゼンの傍に付き添っている。
やがて、重い駆動音とともに、大型の魔導車が分院前に滑り込んできた。ガルドとトビアスが木箱を運び下ろす。続いて降りてきたナザルクが、真っ先に分院の入り口に走るのが見えた。
エルヴが出迎え待機室まで導くと、ナザルクは外套も脱がずに、ソファに寝かされたクロイゼンに歩み寄った。手早く懐から小瓶を取り出し、注射器で薬液を吸い上げる。ナザルクがクロイゼンの首筋へ針を刺し、薬液が流れ込むと同時に、彼の喉から小さな呻きが漏れる。
「…間に合った、か」
ナザルクが短く息を吐く。エルヴの張り詰めていた肩から、力が抜けた。
「君の応急処置は正しかった、エルヴ」
ナザルクが顔を上げずに続けた。
「補綴と、最低限の定着。これがなければ、私が来る前に脈が止まっていた」
エルヴは何も言えず、ただ自分の手のひらを見つめた。
外の風が、さらに勢いを増している。ガルドとトビアスが荷を運び終え、応接室の入口に姿を見せた。
「先生、これからどうする」
ガルドが問うと、ナザルクは処置の手を止めぬまま答えた。
「”第五”に向かう」
その一言に、エルヴは眉をひそめた。
「…第五支部は、封鎖されていると聞いてたんですが」
縫籍院第五支部。名前だけは耳にしたことがある。だが、詳細を語る者はいなかった。長く使われていない、ただそれだけの施設だと思っていた。
「封鎖されている。だが、設備は生きている」
ナザルクが答える。
ネフィラは、トビアスに渡された着替えに袖を通している。ガルドは木箱から毛布を取り出すと、クロイゼンを包んで抱え上げた。
エルヴがメラディを振り返ると、彼女の顔から、表情が抜け落ちていた。首の赤布に添えられた指先が、微かに震えていた。
「メラディさん?」
エルヴが問うても、メラディは何も答えなかった。
「時間が惜しい。急ぐぞ」
ナザルクが立ち上がる。ネフィラとトビアスが木箱を抱え上げた。メラディが、口を開きかけて閉じる。エルヴが暖炉の火を始末すると、部屋には魔石灯の青白い灯だけが落ちた。
第五支部は、旧分院から魔道車でわずかな距離にあった。石造りの外壁は蔦に覆われ、正面の両開き扉には、幾重にも鎖が巻き付けられ、魔導鍵がかけられている。
ナザルクが懐から鍵束を取り出し、錠の一つに差し込んだ。
「一年に一度、定期点検が入る」
ナザルクの指先が、扉の縁で止まった。
「…おかしいな」
「どうしました」
エルヴが尋ねると、ナザルクは魔石灯を扉の周囲へと近づけた。蔦の隙間、錆びついた蝶番の付近に、明らかに新しい擦過痕が残っている。土埃の付き方が、他の場所と違う。
「最近、誰かがここに出入りしている」
ナザルクの声から、いつもの余裕が消えていた。
風が唸り、蔦の葉が激しく揺れる。メラディの表情が険を増す。エルヴは腰の針箱を確かめ、隣に立つネフィラと視線を交わした。彼女は無言のまま、大剣の柄に手をかけている。
「入るぞ」
ナザルクが扉を押し開けた。軋んだ蝶番の音が、嵐の唸りにかき消される。
冷たく澱んだ空気が、内側から漏れ出してきた。




