ep24.旧水路
エルヴは開け放たれた保存槽に歩み寄った。底には、僅かな澱だけが残っている。
「これは…」
ネフィラも槽に駆け寄り、内側を検分する。表面に幾筋もの深い傷が走っていた。傷は、朽ちたように黒く変色していた。
「腐敗の骨牙だ」
メラディが低く呟く。
「クロイゼン将軍の…」
エルヴの声が、掠れた。
「なぜ、誰も中身を確認しなかった」
メラディがエイレンを睨む。
「原則として、作業員に検体の開封権限はありません」
エイレンが淡々と答える。メラディは重ねた。
「当日の分類担当者はお前だった」
「はい」
「なぜ、559番を分館行きにした」
「本館の倉庫が圧迫されていました。また、一定期間保管された旧式槽は、内容確認を省略して移送可能です」
エイレンの答えは淀みない。
「クロイゼンが消えたのは二日前だ。一定期間保管とはどういうことだ」
「少なくとも書類上は、“12年前の検体”でした。検体一覧の廃棄前の記録が、更新されていなかったようです」
メラディの奥歯が鳴る。
槽のすぐ脇には、千切れた封蠟帯の繊維片が幾つも落ちていた。エルヴは保存槽の傍らに膝をついた。薄荷にも似た、冷たい匂いが漂う。
「…ナザルク先生の保存液だ」
エルヴのその一言に、場の空気が凍りついた。
「まさか…」
ネフィラが低く呟く。エルヴは、乾いた喉を、無理やり上下させる。エイレンは無言で散らかった封蠟帯の繊維片を一処にまとめた。
「…これだけでは、まだ何とも言えない」
メラディが低く言う。
彼女は槽の奥へと歩を進めた。エルヴとネフィラも立ち上がる。部屋の最奥、暗がりの中に、細い通路が続いているのが見えた。冷えた風が、その奥から吹き抜けてくる。
「この先は―」
「旧水路のバイパスです」
エルヴが問うと、エイレンが答えた。
「地震以前の主要水路の名残です。現行の水路とは違い、今はほとんど使われていません」
エルヴは通路の奥を見つめた。暗闇の奥から、かすかに水の流れる音がする。
(クロイゼンさんは、ここから連れ去られたのか)
メラディが、靴を鳴らしてエルヴをすり抜けた。魔石灯を掲げ、足早に暗がりへと進んでいく。
「メラディさん」
「―三日だ」
「え?」
メラディが振り返った。
「クロイゼンが消えてから、今日で三日目だ」
触れれば割れてしまいそうな緊張が、彼女の表情を強張らせている。エルヴは、腰の針箱を確かめ、メラディに歩を進めた。
「探しましょう。今は、それしかない」
エルヴの言葉に、ネフィラも頷く。
「―私は、衛兵を呼びましょう。人手は、多いほうがいい」
エイレンが静かに口を開く。
「頼む」
メラディが短く応じる。エイレンは一礼し、足早に去っていった。
通路は、思っていたより長かった。
石壁の隙間から染み出す水が、足元の石畳を絶えず濡らしている。魔石灯の光の輪の外側は、完全な暗闇だった。三人分の足音が、狭い空間に反響しながら重なり合う。
「この先、下り坂です」
先頭を歩くエルヴが、振り返らずに告げた。彼は、慣れた足取りで、暗い水路の分岐を辿っていく。
「ずいぶん慣れているな。知っているのか?」
メラディが問う。
「旧水路は綻び街に繋がっています。昔、希少素材と引き換えに、何度か荷役を手伝いました」
「…なるほどな」
メラディが首の赤布を巻き直す。雨は、地下水路にまで染み込むように、湿気となって漂っている。彼女が苛立っているのがエルヴには分かった。この湿度と狭所は、炎を扱う彼女にとって、腹立たしい以外にないのだろう。
やがて通路は二手に分かれた。片方はそのまま緩やかな下り坂となって闇の奥へ続き、もう片方は、朽ちかけた木戸の残骸で塞がれている。
エルヴは魔石灯を足元に近づけた。
「…これ」
石畳の上、散った木屑が不自然にひしゃげている場所があった。
「最近、誰かがここを通っている」
メラディが屈み込み、指先で跡をなぞった。
「この幅…たぶん、台車の跡だ」
エルヴは木戸の先を目で追った。
「…台車があれば、一人で運べるな」
ネフィラが呟く。
「運んで、どこに隠す」
メラディが返す。ネフィラが黙った。エルヴは、無言で水路の構造を思い起こしていた。
「…水門管理室、かもしれません」
エルヴが呟くと、メラディが顔を上げた。
「水門管理室?」
ネフィラが問う。
「荷運びの途中で貨物に不具合が出た時、一時的に避難させるための施設です。貨物を扱うための巻き上げ機や、昇降設備が残っていると聞いたことがあります」
エルヴは以前、綻び街で荷役を手伝った折、老いた水夫から聞いた話を思い出していた。今はもう使われていない、と笑い話のように語られたその場所。
「旧水路は浅く、流れがほとんどありません。…つまり」
エルヴは言葉を切った。それから先の言葉は、メラディの表情を見ると口の中で固まった。だが、ネフィラが口を開いた。
「…つまり、沈めても流されにくい」
「…!」
メラディの表情が凍った。
エルヴは目線を落とした。魔石灯の灯が、頼りなく揺れる。湿り気が、足元から這い上った。
「…エルヴ」
「…はい」
「案内しろ」
エルヴは頷き、歩き出した。隣を歩くメラディの喉が、赤布の下で小さく鳴る。ネフィラが、甲冑を鳴らしながら最後尾を進んだ。
三人分の足音が、木戸の残骸を踏み越え、暗闇の奥へと吸い込まれていった。
旧道の突き当たりに、朽ちかけた鉄扉があった。閂は錆びついていたが、力を込めれば動く程度の劣化だった。
ネフィラが肩でそれを押し開けると、埃と、それ以上に濃い水の匂いが漏れ出してきた。
「…ここか」
メラディが魔石灯を掲げる。
内部は、思ったよりも広い空間だった。壁際に、古い骨針や封蠟帯を収めた密閉棚が並んでいる。棚の傍らには、台車が停めてあった。奥には、錆びついた鎖と滑車を備えた、貨物用の昇降機が据えられている。
「…油を差した跡がある」
エルヴは、巻き上げ機に触れながら呟いた。鎖が擦れ合った時にこぼれたのであろう錆が、点々と散っていた。
「最近使われた、ということか」
「…」
ネフィラの言葉に、メラディは無言で歩を進めた。
昇降機の傍らには、四角く切り取られた縦坑があった。手すり越しに覗き込むと、黒々とした水面が、静かに揺れている。魔石灯の光が届く範囲はわずかで、水底は闇に沈んだままだった。
「水中点検用の縦坑だ」
メラディが低く呟いた。
「見えるか」
メラディが縦坑の縁から身を乗り出し、水面を睨みつけた。エルヴはその隣で、魔石灯を握る手に力を込める。
「…いえ、深すぎます」
「私が行く」
短く告げると、ネフィラはすでに甲冑の留め具を外し始めていた。心肺の強化仕立てを受けた彼女の肺活量は、常人のそれとは比較にならない。
「無茶はするなよ」
「今は、無茶をする時だ」
ネフィラは、手すりに巻かれていた縄の先を腰に結びつけると、迷いなく水中へ身を投げた。水音が縦坑の壁に反響し、やがて静寂が戻る。
エルヴは縄に触れる手を強張らせたまま、水面を見つめ続けた。時間の感覚が引き延ばされていく。
水面が、再び大きく波打った。ネフィラが顔を出し、大きく息を吸い込む。エルヴとメラディは、穴の縁に膝をつき、じっと水面を見つめた。時間の感覚が、やけに引き延ばされていく。
「…遅くないか」
メラディが低く呟いた瞬間、水面が大きく揺れた。ネフィラの頭が浮かび上がる。
「見つけた…!昇降機の鎖を、こっちに垂らしてくれ」
エルヴは弾かれたように立ち上がり、鎖の先端を投げ入れる。ネフィラがそれを掴み、再び水中に潜った。一秒、二秒。時間が、長く感じられた。不意に、縄が強く引かれた。
「引き上げるぞ!」
メラディが巻き上げ機を動かす。錆びた歯車が軋みながら回転し、鎖がゆっくりと巻き取られてい
く。水面を割って、大きな保存槽が姿を現した。それは、見慣れぬ形状の保存槽だった。ナザルク式の保存槽を改造したのか、本来の骨針に加えて、やや細身の骨針が追加されている。旧式槽に存在したはずの継ぎ目は、外側から滑らかな皮膜で蓋をされていた。
(長期保存用だ)
エルヴはその構造から察した。
ギリギリと錆びた鎖が鳴る。ネフィラが保存槽を下から押し上げた。エルヴは、保存槽からぶら下がった鎖に手を伸ばし、縦坑の縁へと引き寄せた。鎖の先端の錘には、湿った泥が絡みついている。この鎖で、水底に繋いでいたのだろう。
水から上がったネフィラがエルヴを手伝い、保存槽を岸に引き上げる。エルヴは槽の外殻に手をかけた。内側で、人の形をしたものが、ぼんやりと揺れている。
「開けます」
エルヴの手が封印環に触れる。蓋を外すと同時に、冷たい匂いが立ち上った。中に横たわっていたのは、瞼を閉ざしたクロイゼンだった。手足と口には、幾重にも封蠟帯が巻きつけられている。
「キリウス!」
メラディの声が裂けた。ネフィラが、驚いたようにメラディを見る。三人がかりで、クロイゼンの身体を保存槽から引き出す。エルヴは、手早く裁ちばさみを取り出し、口元の封蠟帯を慎重に裁ち切った。
「…っ、げほっ…」
クロイゼンが呻きながら薬液を吐き出した。メラディが長く息を吐く。エルヴとネフィラの口からも、安堵の息が漏れた。
メラディが首の赤布を解いた。クロイゼンの傍らに膝をつき、濡れた彼の頬を拭う。ネフィラは腰の短剣を抜き、手足の封蠟帯に刃を這わせる。エルヴも自らの裁ちばさみを、反対側の帯へと刃を滑り込ませた。
じじ、と蠟の音がして、帯が緩む。手首、肘、肩と、一つずつ拘束を解いていく。
そして、肩口の帯を取り払った瞬間、エルヴの手が止まった。
「…これは」
薄闇の中、魔石灯の光がクロイゼンの肌を照らし出す。肩甲骨から上腕の付け根にかけて、一筋の細い線が走っていた。
エルヴは震える指先で、その線を辿った。至る所に、同じ線が引かれている。まるで、あらかじめ決められた通りに。
「エルヴ、どうした」
ネフィラの声に、エルヴは顔を上げられなかった。
指先が覚えている感触だった。何度も何度も、自らの手が刻んできた感覚。裁ち位置を決める時、仕立て屋なら誰もが最初に引く、あの下描きの線と、寸分違わない。
「…裁断線です」
掠れた声で、エルヴは言った。
「これは、切って、縫うための―」
言葉が、喉の奥で詰まった。エルヴは、手を震わせながらクロイゼンの首筋に指を当てた。薬液に濡れた肌は、ひどく冷たい。エルヴの指の下で、クロイゼンの脈は、ゆっくりと弱くなっていった。




