ep23.保存槽
―暗い。
クロイゼンは瞼を開いた。だが、やはり視界は闇に閉ざされていた。
体が、揺れている。耳の奥で、鈍い水音がする。温いような冷たいような、粘度のある液体が全身を包んでいた。薄荷に似た冷たい匂いと、刺激臭。皮膚が痺れるような感覚。
(麻痺毒…)
声を出そうとして、口が塞がれていることに気づいた。手首も、足首も、何か硬いものに固定されている。皮膚に食い込む感触だけが、やけに鮮明だった。
―封蠟帯。
自分自身が幾度となく被術者に巻きつけてきた、あの帯の感触だ。手首も、足首も、同じもので幾重にも縛められている。もがこうにも、指の一本すら自由にならない。
(俺は―)
氷骨堂。倉庫。保存槽。異臭。
そこで、記憶が途切れていた。
ごく微かな振動が身体の輪郭を叩く。何かの脈動のような、規則正しい律動だった。
ナザルク式の保存槽だ、とクロイゼンは判断した。容器そのものを一つの生物として維持する術式。ならばこの脈動は、この“棺”自体の呼吸だろう。
クロイゼンは聴覚だけを研ぎ澄ませた。九分仕立ての肉体に埋め込まれた、常人を超える感覚器官。それだけが、今の彼に残された唯一の武器だった。
「それにしても、ずいぶん厳重だな」
若い男の声だった。足音に合わせて、声が途切れ途切れに揺れる。
「ああ、これは雨よけ布を二重にしろって」
もう一人の、やや年嵩の声が応じた。
雨音をかき分け、クロイゼンは声を懸命に拾い上げる。台車に乗せられたのか、車輪の軋る音が聞こえた。
「ずいぶん重いな。これ」
「極星ナザルク様の検体だぞ。文句を言うな」
(―ナザルク)
浮遊する意識の中で、その名前だけが、冷たい輪郭を持って像を結んだ。
(ナザルクが、俺を―?)
クロイゼンの脳裏に、竜狩りの際、地に伏した黒竜の体を、嬉々として検分していたナザルクの姿が蘇る。
『素晴らしい。頭部はほぼ完全な状態だ。翼も保たれている。ぜひ、あとで比較させてくれ』
『…何とだ』
『君の翼とだ』
『…見せるだけだぞ』
『もちろん。ただ、死後の譲渡先は検討しておいてくれ』
クロイゼンは手を握りしめようとした。だが、麻痺毒の名残か、それとも定着薬が切れた影響か、力を込めようとしても、痺れた感覚が虚しく散るだけだった。
屋内に入ったのか、雨音が遠くなる。足音が止み、台車が止まった。
クロイゼンは必死に身を捩った。新しい足音が近づいてくるのが聞こえた。
「旧式225番、異常無し」
「旧式225番、確認済み」
平坦な声。手順通りのやりとりだった。クロイゼンは呻いた。
(―誰も、気づいていない)
自分が、ここにいることに。彼らは、ただ作業をしているだけだ。
旧式315番、旧式412番、と続けられた。足音が近づき、擦れるような音が真上で鳴る。外箱の封印を確認しているらしい。
(誰か、気づけ)
「旧式559番、異常無し」
「旧式559番、確認済み」
(―異常ならある)
クロイゼンはそう叫びたかった。だが、喉の奥でくぐもった声が漏れただけだった。台車が再び動き出す振動が、槽の壁を伝ってクロイゼンの身体を揺らした。
「足元、滑るぞ」
「あぁ、大丈夫だ」
遠くで水音が聞こえた。水路だ、とクロイゼンは気づいた。
(―誰か、躓いてくれ)
足を滑らせ、台車を倒してくれればいい。そうすれば、誰かが破損を確認をする。
(誰か―)
台車が、再び止まる。
「移送分。低優先度検体、全四基」
「全四基、異常無し」
「確認済み。積載」
車輪は滑らかに回り続けた。
雨は、もはや降るというより、叩きつけるという表現がふさわしかった。縫籍院の窓ガラスを打つ音が、絶え間なく室内に響いている。
エルヴ、ネフィラ、メラディの三人は、縫籍院の記録保管室で、机の上に広げられた提出台帳と睨み合っていた。エイレンは部屋の隅で、濡れた外套を椅子の背にかけ、机に歩み寄った。
「もう一度確認する」
メラディが分類台帳のページを指でなぞった。
「クロイゼンは遠征帰還の翌日、検体の立ち合い作業のため、氷骨堂へ向かった。定着薬はその後、受け取る予定だった。だが、ナザルクの証言によれば、現れていない」
エルヴは積み上げられた提出台帳の一冊を開き、当日の記録をなぞった。隣でネフィラが別の帳面を検めている。
「サインの確認を」
メラディが言うと、エイレンは記録棚の奥から新たな一束を運んできて、机の端に静かに置いた。
「どうぞ」
エルヴとメラディは提出者の欄、確認者の欄、押された印章の一つひとつに目を走らせた。
―提出者、ナザルク・オルドネル。
―軍部確認者、キリウス・クロイゼン。
―縫籍院確認者、エイレン・ヴェルム。
「筆跡照合済です」
エイレンが淡々と告げる。メラディは搬出台帳を手元に引き寄せた。
極星、ナザルク・オルドネル提出分。
小型槽∶四基
(D1105-01/D1106-02/D1107-02/D1108-03)
大型槽∶二基
(F3015-15/F3016-17)
「これらは今どこに?」
「規定通り、縫籍院地下倉庫に保管。その後、品目・優先度分類を行いました。提出分六基、全て本館に揃っています」
エイレンが保管記録を差し出す。メラディはそれをひったくると、険しい目で文字を追い、息をついて机上に滑らせた。
「…おかしいところがない」
メラディが苛立ったように首の赤布を巻き直す。エルヴはもう一度クロイゼンのサインに視線を落とした。角の立った、硬質な筆致。
「…エイレンさん」
「はい」
「この日、あなたも確認作業に立ち会ったんですよね。クロイゼンさんに何かおかしいところは?」
「特には…。将軍は作業が済むと、定着薬の受け取りがあるとのことで、すぐ立ち去られました」
「そうですか…」
エルヴは俯いた。書類上の綻びは一つも見当たらない。メラディが荒い手つきでもう一度分類台帳を引き寄せた。ネフィラが立ち上がる。
「このまま文字を追っていても埒が明かない。実際にその日動いた人間に聞くべきだ」
「氷骨堂から搬出した者、縫籍院に搬入した者、地下倉庫に移動させた者…かなりの数になるな」
「それでも、ここで座り込んでいるよりマシだ」
ネフィラはメラディに言い返し、外套を羽織って早足で扉に向かう。エルヴも、外套を掴んで立ち上がった。メラディも台帳をいくつか引っ掴んで席を立つ。
エルヴ、ネフィラ、メラディの三人が部屋を飛び出す。エイレンは、まだ湿り気を帯びた外套を取り、袖を通した。部屋を出て、静かに扉を閉める。カチリ、と鍵の閉まる音が雨音に紛れた。
四人がまず向かったのは、氷骨堂隣の軍病院だった。氷骨堂からの検体の搬出は、ここに所属する作業員が担当する。ナザルクの扱う検体は、危険度の高いものや、扱いに注意が必要なものが少なくない。軍病院に所属する者たちは仕事柄、薬品や検体の扱いに慣れている。
「二日前、氷骨堂からの搬出を担当したな」
メラディの声は苛立ちを隠せていない。彼女は台帳と、集められた五人の作業員の顔を交互に見ながら確かめた。作業員たちは、戸惑ったように顔を見合わせている。
「搬出の際、何か変わったことは?」
「いえ…特に何も」
「激しい物音や、悲鳴などは?」
「いえ」
メラディの奥歯が鳴るのが聞こえた。エルヴは、彼女の手元の搬出台帳に視線を走らせた。六基。クロイゼンとエイレンのサインも揃っている。
「…その六基はそれぞれ誰が運んだんですか?」
エルヴの質問に、作業員たちが視線を向けた。五人が口々に答えを返す。小型槽を誰が運んだのかは曖昧だった。だが、年嵩の男の発言に、メラディもネフィラもハッと視線を向けた。
「あ、三つ目の大型槽は俺と、あの若いやつです」
「…三つ目?」
「はい。特別な検体だとかで…雨よけ布を二重にかけろと言われました」
メラディが台帳に視線を落とす。
「…大型槽は二基だったはずだ」
「確かに、三基だったのか?」
「はい。大型槽は二人で一基を運んで、魔導車に積み込みます。あの時は五人でした。俺は二回運んだので、間違いありません」
ネフィラの問いに、若い男が頷く。メラディが台帳を閉じ、エイレンを振り返る。
「どういうことだ?」
「予備槽です。破損に備えて持ち込みました。前回の通りです」
「雨よけ布が二重だったのは、その予備槽か?」
「いえ、正規の提出分です。F3016-17」
メラディは若い男に視線を戻した。
「F3016-17の雨よけ布が二重だったか?」
「すいません。詳しい番号までは…」
若い男が申し訳なさそうに俯く。メラディは眉をしかめると、作業員らに背を向けた。
「その予備槽を確認する。縫籍院に戻るぞ」
エルヴとネフィラは作業員に礼を言うとメラディを追いかけた。雨は、更に激しくなっていた。
水音が、聞こえていた。
クロイゼンは、自分の鼓動の音を数えた。指先すら動かせなかった。麻痺毒が全身に居座り、意識だけが、水面に浮いた薄い油膜のように頼りなく揺れている。封蠟帯が隙間なく体に巻き付いていた。
(―何日、たった?)
時間の感覚すら曖昧だった。もう何日も過ぎたような気がする。薬液越しの視界は、常に滲んでいた。
(暗い…)
差し込む光はなかった。それでも、保存槽が、クロイゼンを生かし続けていた。栄養液と循環液が骨針から供給される音が、耳元で規則正しく響く。
意識は浮沈を繰り返した。時折、15年前の光景が暗闇に重なった。双翼を広げて飛び立つ自分と戦友たち。次の瞬間には、自分以外が崩れて悲鳴を上げる。必死に伸ばした手は、ただ空を掴んだ。
(―メラディ)
赤い髪と深紅の瞳。当時15歳だった彼女は、最年少の兵士だった。彼女が両翼を得る前に、戦争は終わった。片翼のメラディ。喉に巻く赤い布は、耐熱布だ。他人を焼かないために。彼女は、クロイゼンが定着薬を忘れると、ひどく険しい顔をした。まるでメラディ自身の体が痛むかのように。
クロイゼンが右翼を失った日、彼女がどんな表情をしていたのか思い出せない。
(―翼が、崩れる)
悪夢の中で繰り返し見た光景が、現実と混ざり合う。冷たい手が、自分の身体に触れている。指先が、皮膚の上を這う。まるで、縫い目を探すように。薬液が、コポリと耳元で鳴った。
(シルヴァン先生…)
意識の輪郭が、再び少しずつ溶けていく。最後に残ったのは、遠く、絶え間なく続く水音だけだった。
「予備として持ち込んだのは、大型槽558番。未使用。規定通り、返却いたしました」
エイレンがメラディに備品台帳を差し出す。すでにエルヴたちは備品庫を確認していた。大型槽558番は問題なく棚に収まっていた。異常は、どこにもなかった。
メラディが備品台帳を睨みつけている。エルヴは、使用記録表をめくった。ネフィラは、再び搬出台帳を確認している。
(…あれ)
エルヴの指が止まった。
「エイレンさん」
「はい」
「どうして、わざわざ旧式の槽を?」
エルヴは当日の使用記録を指した。旧式を使わずとも、現行式の在庫があったはずだ。
「慣例です。前回の予備槽も旧式槽でした」
エイレンが穏やかに答えた。
「旧式槽…」
メラディが短く呟く。彼女はエルヴの手元から記録表をひったくった。素早く視線を走らせ、次いで備品台帳を束でめくった。
「558番、待機番号利用」
「待機番号?」
メラディの言葉に、エルヴは首を傾げた。
「12年前の地震で、多くの検体が破損、廃棄となった。保存槽が現行式に変わったのも、この地震がきっかけだ。検体廃棄により空き番号になったものは、待機番号となる。この番号は、旧式槽に限り、再振り当て可能だ」
メラディはエイレンを見据えた。
「いつだ」
「いつ、とは?」
「いつ再振り当てした」
「再振り当て日は記録義務がありません」
メラディは舌打ちし、続けて備品台帳をめくった。
「他に、再振り当て済の待機番号は、559番、560番、561番…」
眼鏡の銀縁ごしに、メラディの深紅の瞳が光った。彼女の手が、ネフィラの手から搬出台帳を取り上げる。
「559番が、当日、分院に移送されている」
エイレンの運転する魔導車が、雨をかき分けるようにして道を飛ばす。向かっているのは、王都五条にある旧王都縫籍院分院だ。すでに日が落ち始め、あたりは薄暗くなっていた。
「分院にあるのは価値の低い文書、および低優先度検体です」
エイレンの言葉に、メラディが目を細める。搬出台帳によれば、その日、四基の旧式槽が、分院行きになっていた。
分院に着くと、エイレンは魔石灯を掲げながらエルヴ達を案内した。埃と黴の匂いが、雨で湿った風とともに吹き出してくる。エルヴは外套の襟を立てた。地下へと続く階段を下りると、空気が急速に冷え込んでいった。並んだ棚には、古い書物と、忘れ去られたような小型の保存瓶が積まれている。
「保管区画は、この奥です」
エイレンが指し示した先、他の棚から少し離れた場所に、一際大きな空間があった。
エルヴの足が、そこで止まった。
床に、大型の保存槽が転がっていた。蓋は開け放たれている。“旧式559番”と書かれた付票が放られている。メラディの目が見開かれた。
「…!」
ネフィラが部屋の隅に駆け寄る。
そこにあったのは、主を失った、黒竜の甲冑だった。




