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ep22.氷骨堂

翌日、エルヴはネフィラ、ダリオとともに一条の広場に向かった。リゼットやライルとは広場で合流する予定だ。空は厚い雲で閉ざされ、今にも雨が降り出しそうだった。


「…いつ降ってもおかしくないな」

空を仰ぎながらネフィラが呟く。


「ああ、急ごう」

ダリオが足を早める。


走り出したネフィラとダリオの背が、あっという間に小さくなる。エルヴ自身の仕立ては五感の強化が中心で、筋肉や骨格の仕立ては到底彼らに及ばなかった。


これは、父の信条でもあった。


『肉体が強くなるほど、壊れることを忘れる』


肉体を強化すると、自身のその肉体を基準に、非施術者を扱ってしまう。エルヴは、そう解釈していた。だが、今、エルヴはヴェリシアの言葉を思い出していた。


『…あの時は…もっともっと、と強化が試みられたわ』


実際、それは、兵士の客に多い注文であった。もっと強く、もっとしなやかに、と。果てのない仕立て。そのままに針を進めた先には、何があるのか。


(―いや)


エルヴは首を振った。優れた肉体を仕立てるのが、職人の仕事だ。父の教えが、いつも正しいとは限らない。エルヴは足を早め、ネフィラとダリオを追った。





一条の広場に着くと、すでに黒山の人だかりができていた。鉄製の太い鎖で区切られた傍らには衛兵が数名立っている。その奥に鎮座する特大の保存槽の中に、黒々とした巨大な三本の角が並んで沈み、鈍い光を放っていた。


「こっちこっち」


人混みの中からライルが手を振っていた。その脇でリゼットが小さく片手を上げる。エルヴたちが人混みを押し分けて駆け寄ると、ライルは保存槽を指さした。


「ほら、ほとんど傷がないんだ。三本そろって欠けずに残っているなんて、めったにないよ」


「さすがはクロイゼン将軍だな…」

ネフィラが感嘆の吐息を漏らす。


「しかし、どうやって狩るんだろうな。黒竜って、腐敗の息を吐くんだろう?」

「ダリオはまだ竜狩りには従軍してないの?」


エルヴが尋ねると、ダリオは頭の後ろをかきながら悔しげな顔をした。


「ああ、竜狩りの従軍は準極星以上からなんだよ」

「来年は頑張らなきゃな」

ネフィラがダリオの背中を軽く叩く。ダリオは「まあな」と力なく笑った。


その横で、リゼットが黙ったまま、ちらちらとエルヴの横顔を伺っていた。緑の手紙の件はどうなったのか、と問い詰めたがっている視線だ。だがナザルクに取り上げられたとは言えず、エルヴは気づかないふりで角に顔を向けた。


巨大な角だ。角だけでこの大きさならば、本体は一体どれほどの巨大さになるのだろうか。これほど狩りを終えた直後なら、いくらあのクロイゼンであっても疲弊しているはずだ。


「ネフィラさん、竜狩りの後って部隊はどうするんです?」

「ん?ああ、そうだな。竜狩りの後はだいたい丸三日間の休暇が部隊全体に与えられる。と言っても、将軍自身は一足早く鉄針府に出ていることが多いが」

「ありがとうございます」

エルヴは短く礼を言った。今日から三日間の休暇。だが、クロイゼンは鉄針府にいる。


(…明後日、鉄針府に行ってみよう)

心の中で決意を固める。


ポツ、と濡れた冷たさがエルヴの頬を叩いた。空を見上げると、雲の切れ目が完全に塞がれている。


「やべ」


ダリオが声を上げた途端、見る間に雨脚が強まり、石畳を激しく打ち鳴らし始めた。人だかりが一斉に散り始める。


「急いで帰ろう!」

ネフィラが叫び、大剣の柄を押さえて走り出した。


「じゃあね、また」


ライルが手を振り返し、リゼットも避難を始める。去り際、リゼットがもう一度だけすがるようにエルヴを見た。エルヴはわずかに視線を逸らすと、勢いを増す雨の中をネフィラとダリオの背中に続いて駆け出した。





雨が激しく石畳を叩いていた。


氷骨堂の裏手に構えられた石造りの倉庫は、雨音でひどく騒がしい。石畳の床は湿気を帯び、冷たい保存液と雨の匂いが混ざり合っていた。


クロイゼンは倉庫の入口で、外套の雨滴を払った。定着薬の処方は今朝のはずだったが、遠征帰りの報告書仕事に追われ、氷骨堂に立ち寄る暇がなかった。こめかみの奥に、鈍い頭痛がある。関節の継ぎ目、特に左手の甲から肩口にかけて、いつもより重い。異形化された部位が、鈍く軋んでいた。


「―お待ちしておりました、閣下」


穏やかな声にクロイゼンが振り返ると、エイレンが書類を小脇に抱えて立っていた。何度も顔を合わせている相手だった。


「休暇中のところ、申し訳ありません」

「かまわん。どうせここに寄る予定だった」


クロイゼンは倉庫の中央に並べられた木箱の列に視線を落とした。大小の保存槽が、それぞれ厳重に木箱へ収められている。


「ナザルク殿の、半年に一度の提出分です。今回は少し数が多いですね」


エイレンは手元の書類をめくりながら、淡々と続けた。


「今回は、軍部からの立ち会いは閣下が、縫籍院からは私が担当します」

「ああ」


慣例のやり取りだった。極星が提出する検体は、軍部と縫籍院の双方の人間による確認を経なければならない。


「では、始めましょうか」


エイレンの案内で、木箱が一つずつ開けられていく。中の保存槽は、薬液に満たされたまま静かに揺れていた。魔物の腱、切除された臓器、まだ形を保った小型魔獣の死骸、ナザルクの技術によって、屠殺直後の生々しさを保ったまま眠っている。


「一号槽、異常無し」

「一号槽、確認済み」


クロイゼンが箱に貼られた付票を確認し、頷く。エイレンが手早くペンを走らせる。淡々とした作業が、雨音の中で続いていく。


「二号、三号…」


一つ、また一つと、確認の声が重なっていく。クロイゼンにとって、既に何度も繰り返してきた手続きだった。


(…まずいな)


クロイゼンは軽く額を押さえた。定着薬が切れたことによる鈍痛が、熱を持って脳を揺らしている。遠征の疲れもあるのだろう。一瞬、視界がくらりと歪んだ。エイレンが視線を動かす。


「顔色が優れませんね。定着薬は、この後でしたか」

「ああ。この確認が終わり次第だ」

「無理をなさらず。もし途中で気分が悪くなるようでしたら、おっしゃってください」

「問題ない」


クロイゼンはエイレンを促した。エイレンが軽く頷いた。


「分かりました。手早く、済ませましょう」

「あぁ」


エイレンが最後の木箱の前で立ち止まった。クロイゼンが付票を確認する。


「六号槽、異常無し」

「六号槽、確認済み。はい。以上で、正規の提出分は全て相違ありません」


エイレンが最後の書類にサインを走らせ、クロイゼンへと差し出した。


―キリウス・クロイゼン。

―エイレン・ヴェルム。


帳面に二つの名が揃えて記された。


「ご苦労だった」

「いえ、こちらこそ。…ああ、そうだ」


エイレンが思い出したように、倉庫の奥を振り返った。


「予備槽が一基あるのですが、そちらもご確認いただけますか」

「予備?」


クロイゼンが眉を寄せる。


「正規の槽が運搬中に破損した場合に備えて、念のため持ち込んでいます。実は、何やら異臭がしまして」


奥の暗がりに、一際大きな木箱が置かれていた。他の槽と違い、まだ蓋が開けられていない。


「異臭、とは」

「いつもの保存液とは違うのです。念のため、確認していただけると助かります」


クロイゼンは短く頷いた。

「見よう」


彼は奥の木箱へと歩を進めた。エイレンが後に続く。木箱の蓋を開けると、大型の旧式保存槽が姿を現した。


「旧式槽だな」


クロイゼンは保存槽の蓋に触れた。いつもの冷たい匂いに混ざり、刺激臭がクロイゼンの鼻腔を刺す。エイレンが帳面に視線を落とした。


「ナザルク殿が、今回の竜素材の保存用に新しい調合を試すと仰っていましたが…」

「またか」


クロイゼンが息をつきながら蓋を大きく開ける。エイレンが、静かに一歩下がった。


雨はまだ、降り続いていた。





翌々日、雨は激しさを増していた。叩きつけるような雨音が石畳に響き渡り、視界を白く濁らせている。傘を深く傾けながら、エルヴとネフィラは鉄針府の重厚な石造りの門をくぐった。


クロイゼンの執務室の前に立ち、ノックする。


反応はない。エルヴがドアノブに手をかけて引いてみたが、鍵はかかったままびくともしなかった。


「珍しいな…」

ネフィラが眉をひそめる。


そこへ、書類の束を抱えた衛兵が通りかかった。ネフィラが呼び止める。


「将軍は?」

「いえ、お見かけしていません。本日は出仕されていないはずです」


衛兵は首を振って立ち去った。二人はその後も廊下で行き交う将軍つきの兵や事務官たち数人に尋ねて回ったが、返ってくるのは「見ていない」という同じ答えばかりだった。


「…まあ、まだ休暇中ですしね」


エルヴが肩をすくめると、ネフィラは腕を組み、怪訝な顔を崩さなかった。


「こんなことは初めてだぞ。あのクロイゼン将軍が、休暇中に完全に休むなど」


苦笑するエルヴにネフィラが尋ねる。

「どうする?」


エルヴは少し考えを巡らせてから口を開いた。


「氷骨堂に行きます。レティ姉さんの見舞いもしたいですし…」


鉄針府と氷骨堂は近い。それに、レティシアの容態を確認することに加えて、ナザルクからもう一度だけ、あの手紙や翼について話を聞き出したいという思いもあった。





氷骨堂に足を踏み入れ、扉を閉めると、背後の雨音はさらに勢いをましている。湿り気と薬品の匂いが立ち込める作業室へ向かうと、中にはナザルクだけでなく、険しい表情のメラディの姿もあった。


「メラディさん…?」


エルヴが声をかけると、メラディは即座に振り返り、詰問するような鋭い視線を向けた。


「エルヴ、クロイゼンを見たか?」

「いいえ、見ていませんが…」

「そうか…」


メラディは苛立ちを隠さず、腕を組んだ。ネフィラが小首を傾げて問う。


「どうかしたのか?」

「定着薬を受け取りに来ていないんだ」


答えたのは机の前に座るナザルクだった。彼の指先には、細長い小瓶がある。


「遠征の後だ。薬は切れていたはずだ」

「あいつが薬を忘れるなんてあり得ない」


メラディが低い声を吐き出す。


「縫籍院にも顔を出していない。自宅の通話鏡にも出ない」

「…他に、心当たりは?」


エルヴが尋ねると、メラディは視線をナザルクに向けたまま答えた。


「ここか、軍病院くらいだ」


氷骨堂の隣には軍病院がある。ナザルクが、保存槽や薬液を納品している場所だ。彼自身が医師として赴くことも多い。


「あいつは遠征から戻ったら、どれほど疲れていようが必ず負傷兵の見舞いに足を運ぶ。だが、病院でも見ていないと言われた」


エルヴとネフィラは黙って顔を見合わせた。その時、エルヴの視線がナザルクの作業机の上へと滑った。


そこには、座らせた姿勢で並べられたあの白い布人形たちが置かれていた。一番から四番までの人形。金針事件の犠牲者たち。


「…被害者は、翼を持つ者たち」


エルヴの呟きに、ネフィラがハッと息を呑んだ。


「…クロイゼンが?」


メラディが低く呻くように呟いた。ナザルクは無言のまま、片眼鏡の縁に指先を添えた。


沈黙が、激しい雨音と共に落ちた。


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