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ep21.翼兵計画

細く雨が降っている。エルヴは片手に傘を持ち、一人氷骨堂に向かっていた。肩に提げた革鞄の中には、緑色の手紙が押し込まれている。彼の脳裏には、あの走り書きが焼きついている。


『シルヴァンは翼という異物を持て余した。息子の翼を未完成のまま残したのはそのためだ』


エルヴの手が鞄に指先を立てる。


『君なら、翼を完成させられる』


あの手紙の翼の構造図は、ごく緻密なものだった。使用素材、運針、人体との結合、術式までを網羅し、これならミレイユが信じたのもおかしくはない、と冷えた確信が胸を打つ。いや、それどころか、自分ですら、この手順通りにやれば完成できるのではないか。指先が勝手に針を求めて疼く。エルヴは首を振り、拳を握りしめた。


(ミレイユがどうなったのか、忘れたのか)


また、その図にはこう添えられていた。『翼兵計画』。


聞いたことのない単語だ。だが、エルヴの耳奥で、縫籍院の地下で漏れ聞こえたヴェリシアのあの呟きが蘇る。


『…やっぱり、これは例の計画の…』


単なる見当違いかもしれない。だが、崩解したミレイユがこの手紙を持っていた。「翼兵計画」という言葉。そしてヴェリシアは、ミレイユの翼を見てその呟きを漏らしたのだ。無関係とは思えなかった。


エルヴの足は急いでいた。先にサロン・ド・リリスに向かったところ、ヴェリシアは氷骨堂へ向かったと告げられたのだ。ヴェリシアは以前言っていた―レティシアは翼を完成させることを望んでいたと。だが、彼女がエルヴに残したのは否定だった。「翼を完成させないで」と。


あの時、レティシアが悲鳴のように零した言葉がちらつく。


『ちがう、私、完成できる、って…』


もしかしたら、レティシアも同じ言葉を囁かれたのではないか。『君なら、翼を完成させられる』、と。


そして試み、崩れた。





エルヴは氷骨堂に着くと、足を飛ばして病室へと向かった。扉を開けると、室内にはすでに先客があった。ヴェリシアとエイレンだ。ヴェリシアはベッドの上のレティシアの顔をじっと見つめている。エイレンは、濡れた髪の毛から微かに雫を滴らせ、手にした花切鋏でサイドボードの花瓶の花を整えていた。


「エルヴ」


ヴェリシアが振り返り、その玉虫色の瞳を揺らした。エイレンも手を止め、軽く会釈を返す。エルヴは革鞄のバックルを外し、あの緑色の手紙を取り出した。


「ミレイユの部屋にあったものです」

「ミレイユの…」

「『翼兵計画』とありました」


エルヴが告げると、ヴェリシアの表情が一瞬で硬直した。


「…どこで、それを?」

「この手紙に」


エルヴは折りたたまれた手紙を開いた。ヴェリシアは視線を落とし、紙面に並ぶ図表と文字を目で追う。読み進めるにつれ、彼女の顔に暗く影が落ちる。


「…知っていますか」


エルヴの問いかけに対し、長い沈黙が落とされた。壁の時計が規則的な音を刻む。


「えぇ」

ややあって、ヴェリシアは掠れた声で答えた。


パチン、とエイレンが花茎を切り落とす小さな金属音が室内に響いた。


「…15年前、大きな戦争があったでしょう」


ヴェリシアの語り口は暗く、重い塊を吐き出すように、一語一語をようやく紡ぎ出していた。


「はい。講義で習いました。九分仕立て…クロイゼンさんの活躍や、強化仕立て兵たちの奮戦により勝利を収めたと」


エルヴが記憶を辿って返すと、ヴェリシアは何かに耐えるかのように固く目を伏せた。


「…あの時は…もっともっと、と強化が試みられたわ。いえ、試みたわ。そして…」


ヴェリシアはそれきり言葉を途切れさせ、手紙をエルヴの手元へ突っ返すように返した。そして視線を逃がすように、再びレティシアの横顔へと戻した。


「…っ」


ベッドの上で、レティシアが喉を鳴らして呻いた。ハッと顔を向けたエルヴの視線の先で、彼女の瞼が薄く開かれる。


「エル、ヴ…?」

「レティ姉さん」


エルヴは半歩踏み出し、ベッドの脇へ歩み寄った。


「エルヴ…」


レティシアの焦点が定まりかける。しかし、エルヴの右手に握られた緑色の手紙が視界に入った瞬間、その表情が凍った。


「エルヴ、それ、だめ…!」

レティシアは腕を持ち上げ、狂乱したようにその手紙へ手を伸ばした。


「レティシア、落ち着いて」

ヴェリシアが肩を抑えようとする。


「だめ、だめ…!」


レティシアの腕が、激しく戦慄く。


カン、と乾いた高い金属音が床から跳ね返った。振り返ると、サイドボードの脇でエイレンが花切鋏を床に落としていた。


エルヴは屈み込み、その花切鋏を拾い上げる。鋏は薄く濡れていた。


「失礼」


エイレンが静かに手を差し出す。その白手袋の指先の生地が小さく切れていた。


「あの、これ」

「ああ、切ってしまったようですね」


エイレンは穏やかな調子で応じ、エルヴから鋏を受け取った。外の雨の名残がまだ残っていたのか、彼の指先から一滴の雫が落ち、床に小さな輪を作った。


エルヴがレティシアの枕元へ戻ると、彼女はすでに気力を使い果たしたように再び固く目を閉ざしていた。呼吸は浅く、胸の上下だけが残っている。ヴェリシアがその額に張り付いた乱れた髪を、指先で優しくかき分けた。


エルヴはシーツの上に転がっていた手紙を拾い上げ、鞄へ押し込んだ。そして、ヴェリシアとエイレンに向かって軽く頭を下げると、病室を後にした。




ナザルクの作業場に向かうと、彼の手元には広げられた帳面と、四体の白い人形があった。ナザルクはエルヴに気づくと、手招きして人形を指さす。


「金針事件の犠牲者を模したものだ」


人形の頭には、それぞれ1から4までの番号が記されている。


「1体目は表皮と筋肉だった」

ナザルクは、1と記された人形の布をつまみ、縫い目に沿って引き剥いた。中の白い綿と、十字に組まれた骨針があらわになる、


「崩解の起点は不明。バラバラになりすぎていた」

「すいません…」


この崩解体は、路地裏でエルヴが翼で切り刻んでしまっていた。


「謝らなくていい。そうしなければ君が死んでいただろう」

ナザルクが手元の帳面に視線を落とす。そこには、あの崩解体の記録が細かく記されていた。ネフィラか、あの時あの場にいた衛兵たちが報告したのだろう。 


ナザルクは2と記された人形を手にとった。


「崩解の起点は指だ」


人形の両腕の先に✕印が入っている。ナザルクは、ペンを取り、✕印から線を伸ばしていく。


「メラディ君の報告によると、腕から肩、鎖骨…だったね?」

「はい」

「そして首で止まった…いや、君が止めた」

「はい」

「そして金針はここだった」


ナザルクは人形を返し、その首に〇を描いた。


「…金針が起点じゃない」

「ああ。彼女のアトリエから、施術図が見つかっているよ」


ナザルクは帳面の下から、1枚の羊皮紙を引き出した。そこには、エルヴの見知ったレティシアの筆跡で、細かく素材や術式が書き込まれている。だが、エルヴの目は、その横の図に釘付けになった。


(これは…)


緑の手紙にあった図とほとんど同じだった。


エルヴは鞄から緑の手紙を引っ張り出した。

「ナザルク先生、これ」


ナザルクの瞳が細まる。

「これは」


彼は素早く手紙に目を走らせた。その下瞼が張り詰めている。


「…レティシア嬢は、この通りにしなかったらしい」


彼は手紙を置くと、短く息をついた。


「彼女は、緋幻蝶の肉糸の交差角度をわずかにずらしている」


ナザルクは指先で羊皮紙の図面をなぞった。


「手紙に記された術式は、肉体に肉糸との結合を強制し、急速な異形化を促すものだ。だがレティシア嬢は、その負荷が逆流するように構造を書き換えた。だから崩解は末端から始まった」


「…だから、レティ姉さんは助かった?」


エルヴが問うと、ナザルクは静かに頷いた。


「そして、君の処置があったからだ」


エルヴは自分の手のひらを見つめた。あの時、夢中で手繰り寄せた糸の感覚が蘇る。


(…俺だけの力ではなかった)


彼女自身の縫い目が、命を繋ぎ止めていたのだ。


「その手紙の出どころはあとで聞こう」


ナザルクは机の端に置かれていた3と書かれた人形を手元へ引き寄せた。


「フィオナ嬢だ」


ナザルクは人形の背の切り込みから、中に仕込まれていた組まれた骨針を取り出した。支柱を失った布人形が、机の上でくたりとうなだれる。


「崩解は骨。起点は首…この金の針の位置だ」

ナザルクは人形の首筋に、〇と✕を重ねて黒いインクで描き込んだ。


「そしてミレイユ嬢」


次に彼が手にしたのは、4の番号が振られた人形だった。


「崩解は脳」


ナザルクは人形の頭部にある切り込みから、詰まっていた白い綿を指先で手際よく引っ張り出した。人形の頭部がしぼむ。


「起点はやはり金の針」


再び、首筋に〇と✕が重ねて描かれる。


「細かい剖検結果はこれだ」


ナザルクは傍らの羊皮紙の束をエルヴの前へと滑らせた。机の上には、四体の人形が転がっている。


エルヴは差し出された紙面に視線を落とした。整然と並ぶインクの文字と、解剖図。ナザルクの精密な観察記録を、上から順に追っていく。


しばらく視線を走らせていたエルヴの指が、ある項目でぴたりと止まった。


(…?)


違和感が胸の底から湧き上がる。エルヴは記述を何度も読み返した。


「ナザルク先生、これ…」

「気づいたか」


ナザルクは片眼鏡の位置を調整した。


フィオナの剖検記録には、骨格が崩解したことで、圧迫された内臓が大きく損傷を負ったと記されていた。ミレイユは、脳こそ完全に崩解していたものの、彼女の臓器や骨格は、ほぼ完全な状態を保ったまま残されていた。


「ナザルク先生、フィオナの臓器に崩解の痕跡は?」

「ない。骨格の崩解による副次的な損傷のみだ」


ナザルクは即答した。


(崩解は肉糸の暴走だ。本来なら、無秩序に“崩れる”。だが、これは―)


エルヴの脳裏に、準極星試験の実技で修復した自身の銀翼の光景が跳ねた。


魔狼の毒牙を受けて脱落した翼。あの時感じた奇妙な違和感。毒の痕跡がないにも関わらず、肉糸は大きく解けていた。金針を起点に構造に沿って糸が解け、羽根が脱落していたのだ。


そして、フィオナとミレイユの記録。エルヴの中で何かが繋がりかけていた。


「―さて」


ナザルクが短い声を差し込んだ。エルヴはハッと顔を上げる。ナザルクはとんとん、と指先で机上の緑の手紙の端を叩いた。


「“これ”について教えてくれるかい?」





結局、手紙はナザルクに取り上げられてしまった。エルヴは自室前の廊下で濡れた傘を畳みながらため息をついた。いくら尋ねても、ナザルクからは、ヴェリシアの話以上のことは聞き出せなかった。部屋にはいると、カエルが目をくりくりと動かしながらエルヴに泳ぎ寄る。彼は挨拶代わりに水槽の縁をなぞり、小机の引き出しを開けた。


(―クロイゼンさんなら)


ふと、エルヴにその考えが浮かんだ。クロイゼンはエルヴが背中に隠している金の針のことを黙っていてくれた。大戦の英雄でもある。何より、彼は父が編んだ翼をその身に持っていた。


(もしかしたら、彼なら)


―何か教えてくれるかもしれない。


エルヴは引き出しから餌の袋を掴んだ。ピンセットを袋の中に差し入れる。つまんだ餌粒が、ポロリとこぼれ落ちた。


「ごめんごめん、今、あげるから」


カエルがケロケロと鳴く。エルヴは改めて餌をつまみ直し、カエルの口元に差し出す。


コンコン、と扉がノックされた。彼は餌の袋とピンセットを小机に置き、扉に歩み寄った。


「はい?」

「俺だ」


ダリオの声だった。エルヴが扉を開けると、ダリオは「帰ってきたのが聞こえたからさ」、と言い、やや興奮した面持ちで続けた。


「クロイゼン将軍が竜狩りからお帰りだ。一条の広場に、黒竜の角が威張ってるぜ」


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