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ep20.緑色の手紙

準極星昇格試験は、精神鑑定と倫理審査を残すのみとなっていた。


ダリオが『異形化施術倫理規程』と題された分厚い本を開いている。


「じゃあ問題だ、エルヴ。現場で被術者が『翼を授かるならどんな姿になっても構わない』と狂乱状態で口頭で同意した場合、仕立て師は施術を強行してよいか?」

「不可だ」


エルヴは卓上の肉糸の撚り合わせを止めずに即答した。


「個人の口頭による狂乱下での同意は、倫理規程上、精神正常性を欠いたものとみなされる。親権者または公的後見人の書面同意がない限り、第一種異形化に分類される施術は即座に中断しなければならない」


「正解。…じゃあライル、次の問な。『補綴組織の拒絶反応により、被施術者の身体構造が肉糸の暴走によって異形化し始めた場合、現場での切除および処分権限は誰に帰属するか?』」


ライルは困ったように眉をひそめ、人差し指で頬を掻いた。


「『臨場した準極星以上の仕立て師、またはそれに相当する権限を持つ者により、被施術者の生命維持より周囲の安全隔離を優先して切除可能』…であってるかな?」

「正解。まあ、要するにやばくなったら切り捨てろってことだろ」


ダリオは本を乱暴に閉じると、背もたれに深く体重をかけた。彼の表情は暗い。


「…意味あんのかな、これ」

「やらないと受からない」


エルヴは淡々と糸の手入れを続けた。ライルが、無言でダリオの開いていた教本を自分の手元へと引き寄せる。


そのとき、部屋の扉が短く叩かれた。


エルヴが立ち上がり、鍵を外して扉を開ける。立っていたのはネフィラだった。


「ナザルク先生が帰ったぞ」

「予定より早くないかい?」

ライルが腰を浮かせた。


「想定より負傷者が多かったらしい。治療を受けさせるために、一足早く帰還したとか」

「じゃあ、しばらく忙しいのかな」


エルヴが呟くと、ネフィラは微かに口元を引き結んだ。


「かもしれん。だが…」


ネフィラは言葉を濁し、一瞬だけ視線を落とした。エルヴは彼女がミレイユのことを考えているのだと察した。ミレイユの体は、すでに縫籍院地下に運び込まれているはずだ。


「縫籍院に行く」

エルヴが言った。

「もしかしたら、ナザルク先生も呼ばれるかもしれない」


ダリオが本を片手に立ち上がった。


「分かった。じゃ、俺の部屋で続きやってるよ」


ダリオはライルの肩を叩き、二人でエルヴの部屋を出て行った。エルヴは二人に頷きを返すと、壁に掛けてあった鞄を肩に引っ掛けた。扉脇の台座に置かれた小さなカエルが、ふくりと頬を膨らませた。





エルヴとネフィラが縫籍院の門をくぐると、待機していた衛兵が二人を地下二階の深部へと案内した。


冷気が漂う施術室の厚い扉を開けると、室内にはすでに先客がいた。メラディが振り返り、二人を見やる。


「ちょうどいいところに来た。今呼ぼうと思っていたところだ。レティシア・ベリスの状況と比較したい」


部屋の奥にはナザルクとヴェリシアの姿があった。その傍らでは、エイレンが手文庫を抱えて控えている。中央の石造りの施術台の上には、白い布がかけられたものがある。


ネフィラは静かに裁断礼をとると、壁際へと一歩下がった。


「始めよう」

ナザルクの声が室内に響き、白い布が取り払われた。


それは、ミレイユの遺体だった。


その翼は無数の斬撃によって裂け、血と黒ずんだ肉糸で汚れきっていた。左腕は完全に翼と溶け合っている。右手もまた、指先が翼の一部と癒着していた。ヴェリシアはわずかに瞼を伏せ、視線を切った。


「外側に崩解の傾向は見られない」


ナザルクが手袋を嵌めた手で検め、淡々と告げた。彼は手際よくメスを手にとると、胸部から首筋にかけての皮膚へ刃を滑らせた。皮膚を切り開き、皮下組織と肉糸の走る筋膜を慎重に剥離していく。切開面に鉗子を打ち込み、視界を確保しながら層ごとに組織を開いた。


メラディは手元の羊皮紙に、ナザルクの口述を素早く書き留めていく。


「…脳、だと思います」


解剖の経過を凝視していたエルヴが、抑えた声で口を開いた。ナザルクは一瞬手を止め、短く頷くと、手を頭部へと進めた。


骨鋸の乾いた音が響き、頭蓋が開かれる。


「—崩壊している」

ナザルクが呟いた。


「なぜ分かった?」

メラディが書き留める手を止め、鋭い視線をエルヴに向けた。


「侵食の仕方が、レティ姉さんのときと同じでした」

「レティシアの…」


ヴェリシアが細い息を漏らす。ナザルクは短く顎を引いた。


「金針を」


ナザルクの要求に応じ、控えていたエイレンが手文庫の蓋を開けた。中から革紐で固く巻かれた細長い包みを取り出し、紐を解いてナザルクの手元へ差し出す。それは、エルヴがミレイユの首筋から引き抜いたあの金の針だった。


「なるほど。刻印が完全に潰されている」


ナザルクは片眼鏡を調整し、針を観察した。


「…改造が深い」

ナザルクの眉間に深い皺が刻まれる。


「それだけではない。まさか緋幻蝶を組み合わせるとは。それに、この翼の形状は…」


ナザルクの呟きを聞いた瞬間、ヴェリシアの指先がピクリと跳ねた。


ナザルクはそれ以上言葉を重ねず、無言のまま金の針をエイレンの手元へ戻した。そして、視線だけをエルヴへ向ける。


「…今日のところは帰っていい」

「でも—」

「何か分かったら伝える」


ナザルクの拒絶を含んだ静かな声に、ヴェリシアがそっとエルヴの背に手を添え、扉の方へと優しく促した。エルヴは足をとめ、一度だけ振り返る。


ナザルクは、翼とミレイユの手が溶け合った境界部になぞるように触れていた。


ヴェリシアは壁際にいたネフィラにも静かに帰宅を促す。


「気をつけてね」


ヴェリシアの言葉とともに、施術室の扉が音を立てて完全に閉じられた。


だが、エルヴはそのまま立ち去る気にはなれなかった。胸騒ぎに背中を押され、静かに扉に耳を押し当てた。ネフィラが軽くエルヴの袖を引く。


エルヴが意識を研ぎ澄ませると、強化された聴覚が、扉の奥から漏れ出るヴェリシアの小さな呟きを拾い上げた。


『…やっぱり、これは例の計画の…』


その後は足音に紛れた。エルヴは扉から耳を離し、長く息をついた。





エルヴとネフィラはサロン・ド・リリスへと向かった。彼は、このまま何事もなかったかのように帰る気にはなれなかった。


サロンの表通りには、普段と変わらず高級魔導車が列を連ねている。だが、客たちのざわめきには、隠しきれない重苦しい影が落ちていた。


表から入ることを諦め、二人は建物の側面に回って裏口へと足を進めた。裏口の扉に手をかけると、あっけなく手前に引けた。鍵がかかっていない。エルヴが不思議に思いながらも静かに足を踏み入れ、作業スペースへ進むと、まるで二人を待っていたかのようにリゼットが佇んでいた。


「来て」


リゼットは小さく囁くと、すぐに踵を返した。促されるまま足音を殺して階段を上る。突き当たりを左へ折れると、木製の扉が並ぶ廊下に出た。左側の扉のドアプレートには燕が、右側のドアプレートにはカナリアの絵柄が彫り込まれている。


リゼットは迷わずカナリアの描かれた扉の取っ手を回し、室内へと入っていった。戸惑いを覚えつつも、エルヴとネフィラがその後に続く。


「ここ、ミレイユの部屋」


リゼットが短く言った。室内には色鮮やかな造花や繊細な装飾鏡が飾られ、可愛らしく整えられていた。作業机の端には真鍮製の鳥かごが置かれ、その中にはガラス細工のカナリアが止まっている。


リゼットはためらうことなく、作業机の引き出しを次々と引き抜き、中身を探り始めた。


「おい、いいのか?」


ネフィラが眉をひそめて制止の声をかける。リゼットは手を止め、短い沈黙ののち、引き出しの角を固く握りしめた。


「…ミレイユは、殺されたの」


言葉を失うエルヴとネフィラに対し、リゼットは視線を落としたまま静かに言葉を重ねた。


「ライルに振られた直後は、まだいつものミレイユだった。でも、その後からどんどん変になっていったの。まだ三ツ星なのに、禁止されている緋幻蝶を棚から盗もうとしたり、ヴェリシア様のことを悪く言ったり…」

「何か、きっかけはなかったのか?」


ネフィラが問うと、リゼットは顔を上げた。


「緑色の手紙」

「手紙…?」

「彼女が部屋でこっそり読んでいるのを一度だけ見たの。その時の表情…怖がっているみたいで、でもなんていうか、手紙ごと食べちゃいそうな…そんな顔をしてた」


「緑色の手紙…」

エルヴが反芻するように呟く。


「よし、探そう」

ネフィラが即座に応えた。


三人は手分けして部屋中を捜索し始めた。クローゼットの衣装の隙間、本棚の教本の頁の間、絨毯の端まで入念に調べるが、それらしきものは見当たらない。


部屋の奥、ベッドの脇に屈み込んだエルヴが、床とフレームのわずかな隙間に手を伸ばした。奥から引っ張り出したのは、手のひらに載るほどの小さな木製の宝箱だった。表面にはカナリアを模した愛らしい意匠が施されている。その口は魔導鍵で施錠されていた。


「開かないな」

ネフィラが箱の側面を指で弾く。


「鍵がどこかにあるはず」


リゼットが再び周囲の捜索に取りかかった。棚の裏や飾りの額縁の背面まで指を滑らせるが、金具一つ見つからない。


「あと探していないのは…」


ネフィラが造花の挿された磁器の花瓶を引き寄せ、床の上で思い切りひっくり返した。乾いた茎と模造の葉が散らばるだけで、金属音は響かない。


「ないな」

ネフィラが息を吐く。


エルヴは静かに作業机へと歩み寄った。卓上に置かれた円筒型の鳥かごを両手で持ち上げる。


彼は上部の金属部分を細かく検分し、一番上に取り付けられた半球状の吊り具に指をかけ、力を込めて捻った。かすかなカチリという手応えとともに真鍮の底部が外れる。


空洞になった吊り具の内部には、綿にくるまれた小さな金の鍵があった。


「鍵…!」

リゼットが息をのむ。


「何でわかったんだ?」

ネフィラが驚きを隠せずに尋ねた。


「吊り具があるのに、フックにもかけず置いていた。仕立て師なら作業机のスペースは少しでも広く保ちたいはずだ。わざわざ邪魔になる位置にこれを置き続けていたのは、スペースを割いてでも手元に置いておきたい理由があったからだ」


エルヴは金の鍵を鍵穴へと差し込み静かに回した。硬い音が室内に響き、蓋がゆっくりと持ち上がる。


箱の底に収められていたのは、肉糸の束と、一通の折りたたまれた緑色の手紙だった。


エルヴが手紙を取り出し、慎重に紙面を開く。


そこには、翼の精密な構造図と、走り書きが残されていた。


『シルヴァンは翼という異物を持て余した。息子の翼を未完成のまま残したのはそのためだ』


エルヴの指先が、激しく震え始めた。


呼吸を忘れたまま、彼は続く一文に視線を走らせる。


『君なら、翼を完成させられる』


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