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19/30

ep19.竜翼

エルヴは実技に合格していた。

ライル、リゼットも通っていたと聞いた。ミレイユとはあれ以来連絡が取れていない。


「はー、やっぱり駄目だったか…」


ダリオはすっかり朱の抜けた髪をかきながらぼやいた。ダリオは不合格だったのだ。素材の定着が不完全だったらしく、彼の髪色はすっかりもとの茶色に戻っている。


「また来年だな」

ネフィラがカエルに餌をやりながら慰めた。


ダリオは立ち上がると、実技の評価票を眺めているエルヴに歩み寄った。


『特例措置としての翼の補綴および再結合手技。卓越した運針の精度と絶妙な肉糸の張力調整により、既存の組織との完全な調和を果たしている。極めて高度な仕立て技術と深い解剖学的洞察による仕事である』


「うわ、めちゃくちゃ褒めてあるな」

ダリオが肩越しに覗き込み、口を挟んだ。


「…違う」

エルヴは短く呟くと、評価票を握りしめたまま立ち上がった。


「?何が?」


ダリオが首を傾げる。エルヴは何も答えず、おもむろに部屋の扉を開けて出ていった。


「ちょっ、エルヴ!?」


ダリオとネフィラが慌てて後を追う。廊下を早足で進むエルヴの背中に、ネフィラが慌てた声を張り上げた。


「エルヴ、鍵!」


その声にハッと正気に戻ったエルヴは、踵を返して自室の前まで戻り、手早く鍵を施錠してから再び歩き出した。


向かった先は、氷骨堂だった。しかし、そこにいたのはナザルク本人ではなく、三ツ星の星章をつけた助手であった。


「ナザルク先生はお留守ですよ」


「留守?」


エルヴが問い返すと、助手は手元の記録板に目を落としたまま答えた。


「はい。クロイゼン将軍とともに竜狩りの遠征へ向かわれました」

「分かりました」


エルヴは短く答えると、そのまま奥の病室へと向かった。開けると、ベッドの脇に人影があった。監査官のエイレンである。


「エイレンさん」

「ああ、エルヴ君」


エイレンは振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。


「少し、彼女の様子が気になってね。ナザルク殿もお留守のようだし」


エルヴはベッドに近づき、眠り続ける彼女の横顔を見つめた。


「レティ姉さん」


呼びかけながらその手を握りしめると、微かに指先が震えた。乾いた唇が小さく動く。


「…エル…ヴ……」


掠れた声が、途切れ途切れに漏れ出た。


「エルヴ!」


後ろで見守っていたネフィラが、喜びに声を弾ませる。ダリオもそっとエルヴの肩に手を置いた。エルヴはレティシアの手をほんの少し力を込めて握り直した。


「ところで、エルヴ君たちはどうしてここに?」


エイレンが尋ねる。

エルヴは握っていた手をそっと戻し、振り返った。


「ナザルク先生に、お尋ねしたいことがあって」

「ナザルク殿に?私で良ければ聞くが」

「…俺の翼のことです」


エルヴの答えに、エイレンは一拍だけ沈黙を置いた。


「なるほど。それなら私より適任の方がいる。私はこれからサロン・ド・リリスに向かう予定だ。極星・ヴェリシア殿なら、君の疑問に答えられるかもしれない」


エイレンの提案を聞き、エルヴはもう一度ベッドのレティシアを振り返る。彼はその胸の緩やかな上下を確かめてから、静かに頷いた。





サロン・ド・リリスへ到着すると、エイレンは店舗の横に佇む倉庫へと足を向けた。倉庫の入り口には作業員が数名たむろしている。


足を踏み入れると、ひんやりとした冷気が肌を刺した。内部には付票のつけられたナザルク式の小型保存槽がずらりと並べられている。その奥では、重厚な白銀の甲冑を纏った騎士が保存槽の蓋を一枚ずつ検分し、手元の帳面に書き込みを行っていた。そのすぐ近くには、ヴェリシアと話すメラディの姿もあった。


「あら、いらっしゃい」


ヴェリシアがエルヴたちに気づき、優美な歩調で歩み寄ってきた。


「こんにちは」

エイレンが丁寧に会釈を返す。


「これは…?」

保存槽を見回し、ネフィラが疑問を口にした。


「半年に一回の検体提出よ。極星としての義務なの」

ヴェリシアが微笑を交えて応じる。


「へえ、極星ってのも大変なんだな」

ダリオが感心したように息を吐いた。


「確認は軍部から一名、縫籍院から一名と決められています」

エイレンが解説を加える。


「レイ特務、縫籍院側の担当は私のはずですが」

エイレンの指摘に、メラディが頷く。


「知っている。私は別件だ」

「…フィオナのことですか」

「そうだ」


メラディは首の赤布を押さえ、手元の紙をひらりと差し出す。


「使用された素材をすべて確認するつもりだ。明日呼ぶ予定だったが、ちょうどいい。エルヴ、このリストの素材を集めてくれ」


メラディから差し出された羊皮紙のリストを、エルヴは受け取って視線を走らせた。


「白蜘蛛糸、雪綿妖鳥スノーハーピーの羽、雪狼ダイアウルフの腱肉糸…」


「では、私は本来の業務を」

エイレンは騎士へ歩み寄り、視線を保存槽の付票に走らせる。


「手伝えるか?」

ネフィラとダリオが左右から身を乗り出し、エルヴの持つリストを覗き込んだ。





リストの素材を棚から揃え終えた頃、エイレンたちの作業も一区切りがついたようだった。騎士がエイレンに歩み寄る。


「申し訳ありません。私はこれから急ぎの軍議がありまして」

「ああ、では署名だけお願いします。あとはこちらで処理しておきますよ」


エイレンが差し出した書類に騎士が手早く署名を済ませ、急ぎ足で倉庫を後にした。


呼び込まれた作業員たちがエイレンの指示に従い、保存槽一基ずつに厚手の保護布をかけ、縄で縛り上げて木箱へ収めていく。その横で、ダリオとネフィラがエルヴの指定した素材をすべて台車へ載せ終えた。


「お疲れ様。サロンでお茶をいれるわね」


ヴェリシアが柔らかく微笑み、エルヴが「ありがとうございます」と頭を下げた。ダリオが重い台車を押し出し、倉庫を抜ける。入り口脇では、エイレンの指揮のもと、木箱が大型魔導車の荷台へと次々に積み込まれていた。


「ところで、あなたたち、どうしてここに?」

「…翼のことで、お尋ねしたいことがありまして」


前を行くメラディの背中にヴェリシアが一度視線を走らせ、静かに頷いた。


「わかったわ。お店で聞かせてくれる?」





サロンへ戻ると、裏口から作業スペースに入り、台車を壁際に寄せた。案内された隣の休憩室には、色鮮やかな花と装飾鏡が飾られている。ネフィラ、エルヴ、ダリオの三人が並んで三人がけのソファに腰を下ろすと、ヴェリシアが茶器の載った盆を手に現れた。彼女はメラディの隣に一人分の空白を挟んで腰掛け、優美に首を傾げた。


「それで、話って?」

「この間の実技で、気づいたことがあるんです」

「気づいたこと?」

「はい。崩解の仕方が奇妙でした」

「…それは、どういうふうに?」


エルヴは視線を泳がせ、メラディの表情を盗み見た。背に潜ませた無銘の金の針の存在は、まだメラディには明かしていない。慎重に言葉を選ぶ。


「羽根ごと崩れ落ちたにも関わらず、接合部の肉糸がほとんど傷んでいなかったんです」

「…それは、シルヴァンの翼ですもの」


ヴェリシアが静かな声で応じた。


「でも—」


言いかけたエルヴの言葉は、店舗のホール側から響き渡った悲鳴によって断ち切られた。


全員が一斉に立ち上がり、ホールに出る。サロンの華やかなホールの中央で、ミレイユが床に膝をつき、激しく喘いでいた。その脇には、リゼットが立ち尽くしている。


「ミレイユ、しっかりして!」

「どうしたの?ミレイユ…」

ヴェリシアが歩み寄り、肩に手を置こうとした。


「…ヴェリシア様も、ライルも」

ミレイユの背中が不自然に波打つ。


「誰も、私を見てくれない」

「ミレイユ…?」

ダリオが声を漏らす。


「…でも、“あの人”は言ってくれたの」

ミレイユが緩慢な動作で立ち上がった。


「私なら、“翼を完成させられる”って」


彼女が両腕を突き出すように広げた瞬間、その背から一対の肉色が広がった。羽根をむしり取られたようなそれは、竜翼に似た形状だ。だが、鱗があるべき場所には、金色の羽根がまばらに生えている。翼膜の部分には、血脈のような緋色の肉糸が浮き上がっていた。


「翼…!?」

エルヴが目を見張る。サロン内に更なる悲鳴が吹き荒れた。


「ネフィラ、ダリオ、客を避難させろ!」

メラディが鋭く指示を飛ばす。二人が即座に動き、客を屋外へ押し出していく。メラディはリゼットの腕を掴み、力任せに後方へ引き戻した。


「ミレイユ、落ち着きなさい」

「ヴェリシア様…」

「あなたが誰から何を吹き込まれたのかは知らない。けれど、その言葉を信じるのはやめて」


ヴェリシアが静かな足取りで間合いを詰める。


「聞いて、ミレイユ。翼を下ろしなさい。それは今のあなたの手に負える代物ではないわ。あなたは…」

「エルヴは持ってるのに!?」

ミレイユが甲高い声を張り上げた。


「エルヴは良くて、私は駄目なの!?エルヴを贔屓しているの!?だからエルヴは合格させて、私は不合格にしたの!?」

「それは違うわ、ミレイユ」

「違わない!」


翼がしなり、無数の金色の羽根が空間に舞い散る。その羽根から粉塵のように散った赤い鱗粉が、空気を朱に染めた。メラディが口を開き、激しい火炎を吐き出して迫る鱗粉を焼き払う。


「緋幻蝶か…!」


客の退避を終えたネフィラとダリオが駆け戻ってきた。メラディが杖を構え、炎弾を練り上げようとした瞬間、ヴェリシアがそれを手で制した。


彼女の玉虫色の瞳が、怪しい光彩を帯びて揺らぐ。


「ミレイユ、眠りなさい」

重層的な響きを伴う声が空間を支配し、ミレイユの動きが揺らぐ。


「今だ!」


ネフィラとダリオが抑え込みに飛び出した。しかし、再び金の羽が荒れ狂う。ネフィラが間一髪で飛び退き、ダリオは腕で顔を覆ったものの、舞い散る粉末を吸い込み、荒い息を吐きながら膝をついた。


「…もう、ヴェリシア様の言うことは聞かない」


肉色の翼が蠢き、戦慄くように上下する。ミレイユはその巨大な翼を力任せに振るった。ネフィラが機敏に躱し、ダリオは転がって直撃を免れる。


(暴走ではない…彼女は自分の意思で動かしている)


エルヴの喉が冷たく引きつる。


「リゼット、騎士団に連絡を!」

ヴェリシアの叫びを受け、リゼットが奥の通路へ走った。


「次はリゼットが大事なの!?」


ミレイユが左翼を薙ぎ払う。それに対し、メラディが鋭く詠唱した。首筋の赤布が内側から赤く輝く。手にした杖から巨大な火球が放たれ、迫る翼を焼き焦がした。


「…っ!」


ミレイユがひるむ。だが、焦げ落ちた部位から肉芽が芽吹き、瞬く間に再生していく。メラディは攻撃の手を緩めず、左翼へ次々と火弾を叩き込んだ。


熱風と爆煙、散乱する鱗粉が視界を遮り、エルヴは不用意に近づくことができない。ネフィラは身体の自由を失いかけたダリオを抱え、奥のスペースへと放り込んだ。


不意に、ミレイユが動きを止めた。左腕と、焼き払われた翼を揃えるように重ねる。


エルヴの目が大きく開いた。


彼女の左腕が、糊のようにだらりと溶け落ちた。粘着質に蠢く肉の波が、刷毛で塗り拡げられたかのように破れた翼膜を埋めていく。ミレイユは具合を確かめるかのように左翼を動かす。


メラディが舌打ちを漏らした。その喉元から焦げたような臭いが漂う。彼女は首の赤布を引き抜いた。露出した皮膚の鱗が、ちりちりと音を立てて剥がれ落ちている。


「使いすぎるとすぐこれだ…」

メラディが低く吐き捨てる。


ヴェリシアが再びミレイユの正面へと歩み出た。金の羽と赤い鱗粉が渦巻く渦中へ、迷いなく踏み込んでいく。


「危ない…!」


ネフィラが叫ぶが、ヴェリシアの足取りは止まらない。彼女の右腕に刻まれた蝶の魔法陣が、赤く光を帯びていた。


(…中和している)


ヴェリシアの得意とする調律だ。エルヴはその精密な操作に舌を巻いた。


「ミレイユ、もうやめて。あなたが傷つくところは見たくないわ」

ヴェリシアの声は柔らかい。彼女の腕が、ミレイユを抱きしめるように伸ばされた。


「ヴェリシア様…」


ミレイユの瞳に揺らぎが生じたその時、サロンの正面入り口の扉が押し開かれ、騎士団が雪崩れ込んできた。


「暴走体だ!」

「確保せよ!」


怒号が室内に響き渡る。ミレイユの身体が大きく跳ねた。


「いや…!」


拒絶の叫びとともにヴェリシアの手を振り払う。翼の内部から肉を食い破り、骨が杭のように突き出した。左右の巨大な翼が狂ったように振り回される。踏み込んだ騎士たちが剣の腹で受け止め、金属と骨が衝突する硬質な音が連続した。

飛び出したネフィラが、一人の騎士に襲いかかろうとしていた翼の先を大剣で切り落とす。


次々と振るわれる白刃が肉色の翼を刻み、鮮血が床を汚していく。翼から伸びた緋色の肉糸が鎖骨へと這う。赤が広がるにつれ、次第にミレイユの身体から力が失われていった。


「やめて…私の、翼が…」


金色の羽根はすでに一枚も残っていなかった。ミレイユの首筋の皮膚が、泡立つように痙攣した。血管が膨らみながら脈を打つ。


「私の、翼…」


ミレイユは震える右手を翼に押し当てた。彼女の指先の肉がじわりと溶ける。


「だめだ!」


エルヴの悲鳴のような制止をよそに、メラディが静かに歩み寄った。


「お前のそれは、翼ではない」


ミレイユが涙に濡れた瞳でメラディを見上げる。


「あなたに…何が分かるの…」


その視線を真正面から受け止め、メラディは静かに告げた。


「これが、翼だ」


メラディの右肩から、縫籍院の制服を内側から引き解いて、巨大な赤翼が広がった。赤銅色の艶やかな鱗で隙間なく覆われたそれは、紛れもなく赤竜レッドドラゴンの翼だ。


エルヴは息を飲んだ。ミレイユの目が大きく見開かれる。


「私、わたしは…」


ミレイユの膝が折り崩れ、そのまま床へと倒れ伏した。すかさずネフィラと騎士たちが抑え込み、封蠟帯を巻き付けていく。


エルヴがゆっくりと崩れ落ちたミレイユへ近づいた。


「エルヴ?」


ネフィラがエルヴを見上げる。エルヴはミレイユの脇へ膝をついた。彼はその首筋へ指を当てる。


「…もう、死んでいる」


エルヴの呟きに、ネフィラは言葉を失う。


彼の指先がミレイユの首筋を滑り、そこに埋もれていたものを正確に引き抜いた。


―格子模様の、金の針。


刻印は、完全に潰されていた。


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