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ep30.雨上がりの続き

金針事件の全容が明らかになってから、半月が過ぎた頃だった。

縫籍院本館、あの日エルヴが立たされたのと同じ石造りの法廷に、レティシアの姿があった。まだ、本調子とは言えないのだろう、椅子に腰掛けたままの彼女の傍らには、付き添いの衛兵が控えている。傍聴席には、エルヴとネフィラの姿もあった。

高座には、あの日と変わらぬ主席司法官、オズワルド・レーンが座している。


「開廷する」


乾いた声が、石の空間に響いた。


「被査問人、レティシア・ベリス。準極星」

「…はい」

「起訴事実を告げる。被查問人は、監督者を伴わず、自身の肉体に対し異形化仕立てを単独で施した。使用されたのは、後に判明した"改造金針"。使用素材は、極星指定素材、“緋幻蝶”。これは、典範に照らせば即時の星位剥奪、および極刑の対象となる重大な違反である」


法廷に、重い沈黙が落ちた。レティシアは俯いたまま、小さく肩を震わせている。


「事実に相違ないか」

「…ありません」


掠れた声だった。


「訴追官、メラディ・レイ」


促され、メラディが立ち上がった。真紅の瞳が、静かにレティシアを見据える。


「規定に照らせば、極刑もあり得る違反だ。…だが」


彼女は帳面を一枚めくった。


「この施術に使用された金針は、後の調査により、正規の術式を意図的に改造されたものである

ことが判明している。被查問人は、これと、緋幻蝶を用いる術式を、"翼を完成させる技術"と偽られ、渡されていた」


法廷の空気が、僅かに動いた。


「つまり、被査問人は、己の行為が"どれほど致命的な危険を孕むものか"、正確に認識できてい

なかった可能性がある」

「その根拠は」


主席司法官が問う。メラディは短く答えた。


「事件の全容―金針事件の首謀者による、複数の職人への欺瞞的な接触の手口は、既に立証済みだ。被查問人は、その被害者の一人でもある」

「鑑定人として、極星ヴェリシア・ミルティスを召喚する」


主席司法官の声に、傍聴席の後方から、優雅な足取りで一人の女性が進み出た。長い紫の髪が、意思を持つように緩やかに揺れる。


「ヴェリシア・ミルティスです」


彼女は証言台の脇に立ち、レティシアへと一瞥を投げた。その瞳には、教え子を見る、複雑な色が

浮かんでいた。


「彼女は、私の教え子でした。…飾り縫いの才能は、当代でも稀に見るものです」


淡々とした、しかし確かな熱を帯びた声だった。


「彼女の過ちは、規則を軽んじたからではない。…己の技術を、師の技術の先へ進めたいとい

う、職人としての渇望から生まれたものです」


ヴェリシアは、一拍置いて続けた。


「私にも、覚えのある渇望です」


その言葉に、法廷は静まり返った。


「かつて、私は、エイレン・ヴェルムの処分に際し、温情を主導したことがある。人血染めを用いた彼でも、やり直す機会があると」


ヴェリシアは、法廷を見回した。


「ですが、あの時と、状況は違う。私は再び、この場で申し上げたい。この娘には、技術を正す機会を与えるべきだと」


メラディが小さく頷いた。


「訴追官としても、同様の見解だ。…先の金針事件において、エルヴァン・テイラーに対しても、同様の温情ある処遇が下された前例がある」


法廷に、静かな緊張が満ちた。


「最終陳述はあるか、被査問人」


主席司法官の問いに、レティシアは、ゆっくりと顔を上げた。


「…私は」


声が、震えていた。


「翼を、完成させたかった。…シルヴァン先生の、その先に行きたかった。それだけでした」


彼女は、エルヴの方へ、一瞬だけ視線を向けた。


「でも、あれが、何のためのものか、知らなかった。…知ろうともしなかった。それは、私の落ち

度です」

「判決を告げる」


主席司法官が、静かに口を開いた。


「被査問人レティシア・ベリスは、規定に違反する異形化仕立てを単独で行った事実を認める。本来であれば、即時の星位剥奪、および極刑の対象となる」


一拍。


「しかし、当該違反が、悪意ある第三者の欺瞞によって誘発されたものであること、及び、金針事

件全体の解決を鑑み、以下の処遇をもってこれに代える」


法廷が、息を潜めた。


「第一。準極星から、二ツ星への降格を命ずる」

「第二。極星ヴェリシア・ミルティスの監督下における、技術の再修練を命ずる」


ヴェリシアが、レティシアを見つめた。


「以上をもって、閉廷とする」


木槌の代わりに、主席司法官の指先が机を軽く叩いた。


レティシアは、深く俯いた。細かな震えが、その肩に残っていた。


傍聴席のエルヴは、その背に、そっと視線を向けた。


(―良かった)


言葉にはならなかったが、確かな安堵が、胸の奥に広がっていた。


法廷を出る間際、ヴェリシアがレティシアの傍らに歩み寄り、その肩に手を置いた。


「…もう一度、一から、私が見てあげる」


低く、しかし温かい声だった。レティシアは、何も言わず、小さく頷いた。





レティシアの査問から一週間後、銀針堂の封鎖が正式に解除された。

エルヴは店内を見回した。びっしり埋まっていたはずの棚には、まだ空白がいくつもあった。

エルヴは作業場に向かった。灯りを点し、針箱を開く。


銀の骨針が、整然と並んでいる。その奥、仕切りの隙間に、あの金の針が横たえてあった。エイレンが投げて寄越した、サインの途切れた、模様の無い金針。


エルヴはそれを指先に取った。

父のサインは、確かに歪んでいた。まるで手が震え、そのまま止まったかのような、不完全な線だった。


水路でのエイレンの言葉が、耳の奥で繰り返される。

―『先生が成さないのならば、私が受け継ぐ』

―『"それ"以外の全てを』


“それ”以外。


エルヴの手が、止まった。


エイレンの体を構成していた、あの透明な粘液。無数の水泡。人血染めの糸。その中に漂っていた、幾つもの金の光。あの日、粘液に指を突き入れた時の熱と痛み。あの中に、確かに何かが―誰かが、溶けて混ざっていた。


(父さんは、もう―)


言葉にできなかった。喉の奥が、結び合わされたかのようだった。涙は、出なかった。ただ、腹の底から込み上げる何かが、行き場もなく渦を巻いていた。


エルヴの背にある無銘の金針と、今、手の中にある、サインの途切れたもう一本の金針。

彼は、しばらくそのまま、指先の金の針を見つめていた。


証拠は、無い。確かめる術も、もう無い。エイレンは水路の底に沈み、あの粘液も、金の針も、大流されて戻ってこない。誰に聞いても、誰に鑑定を頼んでも、答えは返ってこないだろう。


(それでも)


エルヴは、作業台の引き出しから、真新しい布を一枚取り出した。父の遺した銀の針を、一本ずつ、丁寧に磨き上げていく。かつて父がそうしていたように。ずっと自分がそうしてきたように。指先に染みついた儀式だった。


一本、また一本と、針が磨かれ、光を取り戻していく。


最後に、あの金の針を取った。歪んだ刻印を、指の腹でなぞる。


「…父さん」


呟いた声が、誰もいない作業場に落ちて、静かに消えた。


「弔い方が、分かりません」


答えは、返ってこない。当然だった。エルヴは、金の針を革紐で包み、針箱の一番奥、決して施術には使わない場所へと仕舞った。


「だから、これを、父さんの墓にします」


蓋を閉じる。エルヴは魔石灯の灯を落とし、しばらく暗闇の中に立っていた。窓の外、雲の切れ間から、月明かりが差し込んでいる。


嵐の去った空は、もう静かだった。





それから一ヶ月後経った。

エルヴは最後の糸を客の右腕に潜らせた。カウンター脇のプレートには、“準極星”の文字が光っている。


「はい、できましたよ」

「お、さすがは銀針堂だ。腕が動く」


客が、目を輝かせながら腕を曲げ伸ばしする。彼の使い込まれた革の胸当ての、留め具が小さく鳴った。


「また、剣を持てますね」

「ああ、それに」


彼が嬉しげに微笑んだ。


「―また、息子を抱いてやれる」


客を見送り、扉のベルが鳴り止むと、エルヴは銀の骨針を静かに針箱へ戻した。カチリ、と蓋が閉じる。


「終わったか」


入れ違いに、ネフィラが扉から顔を覗かせた。手には、水鏡亭の紙袋がある。


「ネフィラさん、また来たんですか」

「暇なんだ、休暇中はな」


ネフィラは勝手知ったる様子で椅子に腰を下ろすと、紙袋から取り出した餌の小瓶を作業台に置いた。扉脇の水槽で、小さなカエルが一声鳴いた。


エルヴは思わず目を細める。


尾は、もう残っていない。


「大きくなったな」


ネフィラが水槽を覗き込み、目を細めた。


「はい。すっかり、カエルらしくなりました」


エルヴは水槽の縁に手をかけ、しばらくその泳ぎを眺めた。オタマジャクシだった頃、誰に教わるでもなく水を蹴っていた、あの小さな足を思い出す。


「父さんが、いなくても」


エルヴがぽつりと呟いた言葉に、ネフィラは水槽から視線を上げた。


「このカエルは、ちゃんと育つんですよね」

「…当たり前だろう」


ネフィラは、少し呆れたように、しかし柔らかく答えた。


「誰の手も借りずに、自分で足を出して、自分で泳ぎ方を覚える。お前が縫ったわけでもないのに」


エルヴは小さく頷いた。肩に仕込んだ、あの無銘の金の針の感触を、指先が確かめる。父が名を刻むはずだった針は、今もそこにある。


完成しなかった翼と、完成しなかった針と。


「父さんの、続きをやります」


エルヴが言うと、ネフィラは片眉を上げた。


「翼をか」

「いえ」


エルヴは針箱に触れた手を、そのまま自分の胸元へと移した。


「針を。命を、つなぐための」


ネフィラはしばらくエルヴの横顔を見つめていたが、やがて、ふっと笑った。


「なら、これからも私を仕立て続けろよ。私はまだまだ、強くなる予定だからな」

「望むところです」


エルヴが答えると、ネフィラは満足げに頷き、水槽の縁に指を這わせた。カエルが、その指先を追うように水面近くまで浮かび上がってくる。


窓の外では、王都の午後の光が、乾いた石畳を白く照らしていた。


雨は、もうどこにも降っていなかった。


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