ep17.魔獣狩り・後
魔獣狩り、二日目。
鬱蒼とした巨木が天を突き、陽光すら途切れ途切れにしか届かない森の深部を、エルヴたちは脚で進んでいた。湿った腐葉土を踏みしめるたび、重い水気が靴底から伝わってくる。ここは木の根が地表にうねり、折れ重なった倒木が道を塞ぐため、魔導艇の乗り入れは不可能だった。
エルヴは胸元を押さえ、革鎧の留め具を確かめた。彼は軍の中でもやや特殊な立場だった。軍属の仕立て師ではあるが、極刑を猶予されている監視下の職人でもある。現在はクロイゼンの従卒のように扱われていた。
隣を歩くクロイゼンの横顔を見上げる。その視線の先、隊列の前方では軍用犬が地面の匂いを嗅ぎ回っていた。追っているのは、昨日ナザルクが使った氷結肉糸の冷たい残り香だ。
しばらく進むと、開けた樹の下に数体の魔狼の死骸が横たわっていた。そのうちの何体かには、陽光を弾いて青白くきらめく糸が、絡みついている。昨日、ナザルクが傀儡術で操った個体だ。
「近いな」
クロイゼンが短く呟いた。
強化されたエルヴの嗅覚も、湿った風の中に混じる魔狼特有の獣臭と、わずかな血の匂いを捉えている。
一行はやや開けた場所に出た。左手は崩れた斜面が迫り、右手には鬱蒼とした茂みが壁のように広がっている。足元には折れた巨木が重なり、足場を悪くしていた。
「斜面を背に。茂みを警戒せよ」
クロイゼンの指揮のもと、騎士団が素早く隊列を組み直す。正面の茂みが激しく揺れた。低い唸り声とともに、数匹の魔狼が飛び出してくる。
騎士団が一斉に前に出た。魔狼が地を蹴ると同時に、剣の閃光と魔導の光が交差する。ネフィラの大剣が鋭い風を巻き、躍りかかった一頭を真っ二つに斬り伏せた。
クロイゼンが踏み出すと同時に、エルヴたち職人の一団は輜重車とともに後方へと退避させられた。補強用の厚革が張られた輜重車は、並べて固定することで簡易障壁として機能する。
「…ラインの角度、少し浅くないか?」
「いや、衝撃を逃がすならこれでいい」
障壁の影で、ダリオとライルがクロイゼンの甲冑の背を指差し、身を潜めながら小声で話している。リゼットとミレイユは身を寄せ合い、何かを囁き合う。エイレンだけは手際よく輜重車の留め具を改め、固定の具合を確認していた。
その時、エルヴの背後からガサガサと草を分ける音が聞こえた。振り返ると、戦闘の喧騒から離れ、ナザルクが一人で後方の斜面に足を踏み込んでいた。
「ちょっと、ナザルク先生!危ないですよ」
エルヴは慌ててその背中を追いかけた。
「大丈夫だ、ほら…あぁ、やっぱり。臭うと思ったんだ」
ナザルクは振り向きもせず、手招きした。斜面の隅、倒木が複雑に重なり合った暗がりの中に、洞穴が開いている。ナザルクは躊躇することなく、そこへ上半身を突っ込んだ。
彼が奥から引き出してきたのは、まだ毛並みの柔らかい、魔狼の幼獣の死骸だった。目が、ドロリと濁っている。
「ほら、素敵だろう。こんなに幼いというのに、もう小さな毒牙が生えている」
ナザルクは素手で幼獣の口を広げ、生えたばかりの尖った牙をエルヴに見せつけた。彼の白い指に、毒液がたらりと滴る。
ナザルクは嬉々としているが、エルヴは気が気でなかった。
「危ないですよ。毒持ってるのに」
「なに、壊れたらまた接げばいい。この腕も四代目だ」
「駄目です」
エルヴはポーチから手袋を取り出して嵌め、ナザルクから幼獣を取り上げた。ナザルクが惜しそうに手を離す。
「エルヴ!」
背後からネフィラの切迫した叫びが響いた。
ハッと振り返ったエルヴの視界を、巨大な影が覆う。並べられた輜重車を易々と飛び越え、一頭の大型個体が、エルヴを目がけて跳躍してきていた。
手にしていた幼獣が滑り落ちる。
次の瞬間、強烈な衝撃とともに魔狼の巨大な顎がエルヴの肩口を咥え上げた。
「ぐっ…!」
肩から背にかけて走る、焼きごてを押し当てられたような激しい痛み。視界が真っ赤に染まる。かつて路地裏で、獣に牙を立てられたときの記憶が脳裏をよぎった。
肉を穿つ毒牙の激痛に、意識が遠のいていく。
(翼…)
朦朧とする中で、エルヴは翼を開こうとした。視界の隅で、黒い甲冑をきらめかせたクロイゼンが飛ぶように距離を詰めるのが見えた。
エルヴの背から、シャツと革鎧を内側から引き解いて銀色の翼が展開される。羽先に口内を裂かれた魔狼が痛みに唸り声を上げた。しかし、獲物を逃さぬよう顎を強く締める。エルヴは身をよじらせた。銀翼が狂ったようにのたうつ。
魔狼が力任せに顎を軋らせた。毒牙がエルヴの翼へと深く突き立てられる。
「…っ」
ミシリ、と胸の肋骨が嫌な音を立てて軋んだ。
(死ぬ―)
その瞬間、キン、と高く澄んだ金属音が響いた。
翼が、脱落した。
身体にかかっていた力がふっと緩む。エルヴの銀翼の一部が、まるで鉱石が縦に割れるように、甲高い音を立てて剥がれ落ちた。
拘束を脱したエルヴの身体が、濡れた腐葉土の上へ転がった。すぐ頭上で、魔狼の低く濁った唸り声が迫る。エルヴは地面に伏せたまま身を固くした。
しかし、いくら待っても次の痛みは来なかった。
目を開けたエルヴの視界に入ったのは、クロイゼンの姿だった。
彼は黒革の手袋を脱ぎ捨て、素手の右手を、魔狼の首筋に当てていた。掴んでいるわけでも、拳を叩きつけたわけでもない。ただ、触れているだけだ。
だが、その手に触れられた魔狼は、全身の筋肉を硬直させ、濁った瞳を大きく見開いた。顎からだらだらと唾液を滴らせ、やがて糸が切れた人形のようにその場へ崩れ落ちる。クロイゼンは獣が事切れたのを確かめると、手袋を再び右手にはめ直した。エルヴは、その右人差し指の腹に、小さな黒い牙を見た。
「大丈夫か、エルヴ!」
ネフィラが声をはねさせて駆け寄ってきた。彼女の手が肩に触れ、エルヴはようやく息をつく。
「…はい。なんとか」
血と泥に汚れながらも頷き、ネフィラの手を借りてゆっくりと立ち上がった。
「やあ、悪かったね。怪我を見せてごらん」
ナザルクが、頭をかきながら近づいてきた。彼はエルヴの破れた背中に素早く指を走らせると、氷結肉糸と冷却用の薬液を指先に絡め、手際よく出血を止め、傷口を仮留めしていく。エルヴの背に冷たい感覚が走り、灼熱のような痛みが引いていった。
「エルヴ、これ…」
ダリオとライルが、落ちていたエルヴの翼の断片を拾い上げ運んできた。毒を受けた部分の羽と肉糸が、青黒く変色している。
(毒が…)
エルヴは変色した部分をなぞった。父の技術が、魔狼に破られた。彼は二人に礼を言って翼の残骸を受け取りながら、エルヴは先ほど崩れ落ちた大型魔狼の死体へと視線をやった。
クロイゼンが手に触れていた首筋の部位が、黒く落ち、骨すらも朽ちさせている。鼻を刺す、ツンとした刺激臭。
(…腐敗?)
エルヴが言葉を失っていると、上空に一筋の赤い信号弾が打ち上がった。
ネフィラが空を見上げ、短く言った。
「撤収だ」
森の夜。ネフィラは部下の騎士達と共に、エルヴらとは別の天幕にいる。エルヴ達がいるのは天幕群のほぼ中央、クロイゼンの指揮所の近くだ。ダリオが慣れた手つきで鍋をかき回し、一人分ずつスープを椀によそっていく。
「ほい」
「…」
ミレイユが無言で椀を受け取る。ダリオは次いでリゼットに椀を渡した。
「ありがとう。料理、できるんだ」
「うん。遠征にはもう何回か従軍してるし」
ダリオが口端を上げながら答える。湯気の立つ椀からスープを掬ったライルが、ほう、と息をついた。
「おいしい。味付けは塩だけかい?」
「胡椒と、あとちょっと香草。魔狼の肉はちょっと臭いが強いから」
ダリオがエルヴにも椀を差し出す。口にすると、熱いスープがとろりと喉を落ちていった。
「このとろみは?」
「粗く切った白芋が入ってる。これでちょっととろみが出るんだ。冷めにくくする効果もある」
「へえ…」
ダリオは最後に自分の分をよそうと食べ始めた。エルヴも二口目を口に運ぶ。油と香草で炒められた魔狼の肉と、根菜のとろりとしたスープは、冷えた夜気の中で声を上げたいほどにうまかった。
「…ライル」
しばらく、昼間の魔獣狩りが話題になった。皆が、交互にエルヴの背を気遣う。エルヴの傷はすでに塞がっていた。だが、彼は父の技術については話さず、ナザルクの手当てによるものだと説明した。話題がクロイゼンの活躍から、ナザルクの噂話に移るころ、腰掛代りの石から立ち上がったのはリゼットだった。続けてミレイユが腰を上げる。ミレイユの椀には、まだ半ばほどスープが残っていた。
「ん?」
声をかけられたライルがリゼットとミレイユを見る。
「…話があるの」
ミレイユは思い詰めたように俯く。
ライルが戸惑いながら立ち上がると、リゼットが輜重車の固められた一角を指した。
ライルとミレイユ、リゼットが魔石灯を揺らして遠ざかっていく。
「あれは…アレだな」
ダリオが心得顔に言った。
彼は手早く残された椀を重ねると、炎石炉を片付け始めた。
「あれって?」
「鈍いなあ、お前」
ダリオが重ねた椀と鍋などを水場に運んでいく。横でそれらを洗いながら、エルヴは首を傾げた。ダリオは鼻歌を歌っている。エルヴは、ふと水槽のカエルを思い出した。
夜半、エルヴは眠れず、剥がれた翼の残骸を見つめていた。彼の右手には、背に仕込んでいた無銘の金の針がある。あの時、確かにこれが鳴った。
路地裏の崩解体、レティシア、そしてフィオナ。全てに父の金の針が使われていた。これまで、父は、エルヴにとって文字通りの極星だった。仰ぎ、確かめ、導にすべき存在。
(本当に?)
エルヴは金の針を見る。
野営地に張られた天幕は薄く、外の湿った森の匂いが布越しに忍び込んでくる。夜警の兵士らの足音の他は、虫の声すらしなかった。
水筒を探ろうと身を起こしたエルヴの視線が、隣に横たわる人影で止まった。
クロイゼンだった。
普段の彼からは想像もつかない乱れた寝息だった。呼吸が、浅く、切れ切れに揺れている。毛布の下で、左手が、右の肩甲骨のあたりで繰り返し痙攣するように曲げ伸ばされていた。
エルヴは動けなかった。声をかけるべきか、見なかったことにするべきか、判断がつかないまま、ただ息を殺していた。
「…翼が、崩れる」
低く、掠れた声だった。眠ったままの唇から漏れたそれは、いつもの平坦な声色とはまるで違う、何かに擦り切れたような響きを持っていた。
エルヴの背筋が冷えた。
「やめろ、飛ぶな」
黒革の手袋に包まれた指先が、何かを押しとどめるように宙をかいた。眉間には深い皺が刻まれ、閉じられた瞼の下で眼球が激しく動いているのが分かった。
(何を、見ているんだ)
エルヴの脳裏に、鉄針府の執務室で見た光景が蘇る。軍服の下から跳ね上がった黒竜の骨翼。「俺はあの大戦で体のほとんどを失った」という、感情の乗らない声。
―翼を持ったのは、クロイゼンだけではなかったのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、クロイゼンの喉から低い呻きが漏れた。
「シルヴァン先生…もう、翼は…」
エルヴは息をのんだ。クロイゼンの肩に左手をかける。彼は肩を震わせ、エルヴを振り払うのではなく、その手を掴んだ。
「あ…」
クロイゼンの目とエルヴの目が合う。クロイゼンはエルヴの右手の金の針を見つめた。
「それ」
「…はい」
「どうした」
エルヴは俯いた。誤魔化すすべはない。彼は全てを話した。
クロイゼンは否定も肯定もせず、ただ、聞いていた。その沈黙が、エルヴの言葉を続けさせた。
「…この針は、何のためのものなのでしょうか」
エルヴの声は震えていた。天幕の作業台には、剥がれた翼の残骸がある。毒牙を受けて歪んだ羽が、魔石灯の青い灯に照らされていた。
「…」
クロイゼンは無言で左手を右肩に伸ばした。その指先が、何かを引き抜く。エルヴの息が止まった。
それは、金の針だった。
父の刻印が、魔石灯の光を鋭角に跳ね返している。だが、エルヴの知る格子模様では無く、鱗模様が刻まれていた。
「…それは」
「俺は、元は両翼だった」
クロイゼンは静かな声で続けた。
「だが、あの大戦で右翼に深手を受けた。左翼と違い、右翼は黒竜の腐敗の力を残したまま俺に縫い付けられていた。傷口の肉糸が暴走し、右翼が腐り落ちた」
「これはその名残だ」とクロイゼンが手袋に覆われたままの右手を動かした。エルヴは、昼間見た小さな黒い牙を思い出した。
「侵食は肩まで及んだ。腐って死ぬ、と思った。その時、これが鳴った」
「腐敗が止まった」と、クロイゼンは金の針を持つ指を動かした。エルヴは、自分の右手の中の金の針を見つめた。
「停止点」
エルヴが呟く。クロイゼンは左手の金の針を右肩に戻した。
「その後、十五年間俺はこうして生きている」
クロイゼンが毛布を引き上げ、横になった。
「…お前の目はシルヴァン先生に似ている」
「…」
エルヴの緑の瞳。彼はなんとなく目元をこすった。
「明日も早い。休める時に休め」
「…はい」
エルヴは寝床に戻った。破れた革鎧が傍らに置いてある。胸に食い込んだ牙による傷が浅かったのは、この鎧のおかげでもある。彼は破れた革をなぞった。
―停止点。そうかもしれない。
エルヴは金の針を自分の背に戻した。暴走する魔力を堰き止め、崩解を、一点で止めるための針。
見つかった金の針。路地裏の崩解体。レティシア。フィオナ。
エルヴの指が止まる。
彼らの崩解は、針を抜くことで止まった。




