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ep16.魔獣狩り・前

魔獣狩りまで2週間を切った頃、エルヴとダリオ、ライルはエルヴの部屋で模擬素体を相手に実技の練習をしていた。準極星試験の実技では、一種の魔物素材を自身に定着させることが求められる。すでに翼を持っているエルヴが同じ内容を要求されるかは分からなかったが、練習しておくに越したことはない。


作業台の上に並べられたのは、加工した豚の皮で作られた三体の模擬素体だった。表面には魔蛇の鱗を模した薄い角質片が一定の間隔で並べられている。


エルヴの指先が滑らかに躍った。銀の骨針が滑り込む音はほとんど鳴らない。糸の張り具合を一定に保ちながら、皮下の疑似血管を寸分たがわず避け、鱗の基部だけを素早く縫い止めていく。


「なあエルヴ、俺のも見てくれよ」


ダリオが汗の浮いた額を拭いながら、自分の素体を突き出した。角質片が少し引きつっている。


「深く刺しすぎてる。針の角度が鈍いから、下の擬似真皮まで引き裂いちゃってるんだ。これだと定着時に激痛が出るよ」


「マジか…力任せに引きすぎたか」


ダリオが眉をひそめて首を振る。その横からライルが慎重な手つきで自分の素体を差し出してきた。


「僕のも確かめてもらえるかい?」


エルヴは視線を落とし、細かく打たれた縫い目を指先でなぞった。


「八割方はいい感じ。運針のピッチも綺麗だし。ただ、端の二枚、血管との定着がちょっと甘いかな。血流が通ったときに浮いちゃうと思う」


「なるほど。細かい圧の調整がまだ足りないか。ありがとう」


ライルは短く息を吐き、手元の骨針を持ち直した。フィオナが目の前で崩解して以降、長く落ち込んでいた彼だったが、ここ数日で少しずつ口数が戻りつつあった。


「うますぎだろ、お前…」


ダリオが半ば呆れたように呟く。部屋の扉脇で水槽を覗き込んでいたネフィラが、餌粒をピンセットで挟みながら振り返って笑った。


「エルヴだからな。見ている分には簡単そうに見えるが」


そう言いながら、ネフィラは二粒目の餌をはさんだ。


「ネフィラさん、あまりあげすぎないでくださいよ」

「分かっている」


短く答えたものの、ネフィラの手はもう一粒をピンセットでつまみ、水面へ向かっていた。エルヴは苦笑しつつ針を置いた。


「そういえば、名前は?」


素体から目を離さずにライルが尋ねた。


「決めてないな」


エルヴが答えると、ライルが椅子を引いて立ち上がり、水槽のそばへ歩み寄った。


「まだ小さいな」

「最近尻尾が消えたばかりなんだ」


ネフィラが鼻を鳴らす。カエルが水に飛び込み、スーッと水をかいて泳ぐ。尻尾が消えたばかりだというのに、誰に習うでもなく、見事に泳ぎ始めるのがエルヴには不思議だった。


「オタマジャクシから飼ってたのかい?」

「うん。ネフィラさんと水鏡亭で買ってきて」

「水鏡亭か。あそこは品揃えが豊富だからね。珍しい水棲魔物の素材も入る」


ライルが頷く。エルヴは作業台の糸巻きを整えながら言葉を継いだ。


「あそこに餌や水草を買いに行くと、エイレンさんに良く会うんだ」

「ああ、あの監査官の」


ダリオがピンセットを置いて肩を回す。


「あの人、スライムの飼育が趣味なんだよな。本院の棚にも怪しい瓶を並べてただろ」

「…そういえば」


ライルが水槽のふちを指で擦りながら、思い出したように声を潜めた。


「あの人、元極星だったらしいね」

「元?」


ネフィラが怪訝そうに眉をひそめた。


「なぜ今は準極星なんだ?実力があれば落ちる道理もないだろう」

「詳しいことは僕も知らないんだ」


ライルが首を横に振る。代わりにダリオが肘を作業台についた。


「準極星もだけどさ、極星ってそれ以上に厳しい技術審査とか、精神汚染の定期チェックがあるだろ。それに引っかかったのかもな」

「あの人がかい?」


ライルが意外そうに振り返る。


「エイレンさんは飾り縫いの名手でね。特に染料調合の腕は一級品だよ。現にうちの工房だけじゃなく、あのヴェリシア様の『サロン・ド・リリス』でも彼のレシピが使われているんだから」

「じゃ、精神の方だ」


ダリオが迷わず断定し、転がっていた模擬素体を引き寄せた。ネフィラが腕を組んで鼻を鳴らす。


「ナザルク先生が普通に通っているのにか?」

「ぶっ…」


ダリオが吹き出し、エルヴも思わず口元を押さえて横を向いた。ライルだけが苦笑いを浮かべながら、慌てて二人を制した。


「さすがにそれは失礼だよ…」

「いやだって本当のことだろ」


ダリオが腹を抱える。


「あの人、夜中に地下の保存槽に向かって子守唄を歌ってるっていう噂があるんだぞ」

「その噂なら私も聞いたぞ」


ネフィラが真顔で頷いた。


「それに、私の小さい頃は『言うことを聞かない子はナザルク先生が夜中に腕を継ぎ接ぎしにくるぞ』って脅されたものだ」

「俺も言われたよ。『好き嫌いすると棺桶に詰められて氷漬けにされるぞ』ってな」


ダリオが笑い転げる。


「似たようなことは僕も言われたな…『針を粗末に扱うと夜中にナザルク先生に指を縫い合わされる』って」


ライルが困ったように肩を落とした。


水槽の中で、緑色の小さなカエルがケロリと短く鳴いた。エルヴは手元の模擬素体を引き寄せ、新しい骨針に肉糸を通した。


「…もうちょっと練習したら、レティ姉さんのところに見舞いに、氷骨堂に行くよ」


その一言に、ダリオとライルも表情を引き締め、それぞれの素体に向き直った。室内には再び、針が皮を突く静かな音が響き始めた。





王都外れの北の森に向かう魔導艇の中で、エルヴは纏った革鎧を確かめていた。

鋼骨工房で誂えられた簡易革鎧は、関節の沈み込みから胸当ての張り具合まで、わずかな遊びを残してしなやかに体に馴染んでいる。


この一ヶ月で、鉄針府での最低限の戦闘訓練はこなした。体調の波もない。部屋に残してきたカエルの世話は宿舎の用務員に頼んであり、出発前には氷骨堂へ立ち寄ってレティシアに見舞いも行った。ベッドの上で眠り続ける彼女に声をかけたとき、かすかに唇が動いたのをエルヴは見た。やるべきことはすべて済ませてある。


手持ち無沙汰に立ち尽くしていたエルヴの肩を、ぽんと力強い手が叩いた。


「大丈夫だって。クロイゼン将軍も一緒なんだし」

ダリオがニッと笑う。横からネフィラが並び立ち、胸当てを軽く拳で叩いた。


「私もいるしな」


エルヴは短く頷いた。


「…ナザルク先生もいるし」

ライルが言うと、ネフィラとダリオは同時に吹き出した。エルヴも小さく笑う。


「ね、ライル」

背後から声をかけてきたのはミレイユだ。後にはリゼットがいる。ライルが振り返ると、ミレイユは右袖をまくってライルの前に差し出した。


「どうかな…これ」


彼女の右袖の金のカナリアの周囲には、新たに鮮やかな肉糸で草花が飾り縫いされていた。白とピンクの花に、差し色として翠の木葉が散らされている。


「ん、ああ。きれいだね。配色がいい」

ライルが褒めると、ミレイユの頬が薄赤く染まった。


「ありがとう、ライル。ヴェリシア様も仰ってたわ。私には誰よりも配色のセンスがあるって。ライルもそう思うのね?」

「うん」


ライルが頷くと、ミレイユは微笑みながら指先で右手の飾り縫いをなぞった。リゼットがちらちらとエルヴたちの方を見ている。


「…?」


エルヴが首を傾げていると、ダリオがエルヴとネフィラの腕を掴んだ。


「ほら、そろそろ雲を抜けるな。景色でも見てこようぜ」

「お、いいな」


ネフィラが答える。エルヴはダリオに引っ張られるまま、窓に向かって歩を進めた。





「そろそろだ」


甲板へ通じる扉から一人の騎士が顔を出し、鋭い声で告げた。エルヴは腰に下げた小型銃剣の留め具を確かめ、深く息を吐いた。


魔導艇が重い振動とともに高度を下げていく。ハッチが開放されると、湿った森の風の匂いが船内に流れ込んできた。先に大型のハッチから飛び出した中型艇へ騎士たちが乗り込み、次々と下降していく。ネフィラがエルヴたちへ軽く手を振ると、部下と二人一組で小型艇へ飛び乗り、緑の海の中へ散っていった。


風を切る甲高い音が鼓膜を突く。エルヴたちの小型艇は、ダリオが舵を握っていた。ライルとミレイユ、リゼットと若い職人がそれぞれ二人一組となり、森の上面を滑空していく。


見下ろす森は深緑の絨毯のように広がり、巨木の隙間から鬱蒼とした暗がりが覗いていた。湿り気を孕んだ木々の葉が、魔導艇の風圧で激しく波打つ。その静寂を切り裂くように、どこか遠くで獣の遠吠えが響いた。魔狼ワーグの群れだ。その硬質な骨格は、一般的な防具や肉体の骨格補強において最も普及している素材でもあった。


一筋の白い光が上空へ伸び、弾けて火花を散らした。


「…始まったぞ」


ダリオが操縦桿を握り直し、前方を睨みつける。


遠吠えの密度が一気に増し、間近へと迫ってくる。樹海の一角が激しく揺れ、数十頭の黒い影が弾け飛ぶように森の外へ躍り出た。その背後からは、整然と隊列を組んだ中型艇が肉薄している。上空を滑るそれらから魔導銃の光弾が掃射され、逃げ道を塞がれた魔狼の群れが一直線へ走らされていた。


散り散りになって狂奔する魔狼ワーグに対し、小型艇の騎士たちが地面すれすれを滑空しながら小群ごとに囲み、包囲網を絞っていく。エルヴたち職人に与えられた役割は、この包囲網から漏れ出た孤立個体を処理する、あるいは網の中へ追い戻すことに過ぎない。


「…やることないな」

ダリオが肩の力を抜いて呟いた。


地上では、騎士たちが統制された動きで魔法と剣を振るい、魔狼を次々と屠っていた。包囲の一角にはネフィラの姿もあった。彼女は艇から飛び降りて地上に降り立つと、風の刃を纏わせた大剣を一閃し、飛びかかってきた魔狼を真っ二つに斬り伏せていた。上空で待機するライルやミレイユ、リゼットの小型艇も、旋回を続けている。


その時、眼下の開けた草地で、地鳴りのようなざわめきが湧き上がった。


「クロイゼン将軍だ」


ダリオが艇の高度を下げ、息を呑んだ。エルヴも身を乗り出す。


彼はただ一人で、十数頭の魔狼の群れと対峙していた。


一頭の大型個体が低く唸り、毒を纏った牙を剥いてクロイゼンの首筋へ飛びかかる。クロイゼンは半歩だけ身を引く最小限の動作でそれをかわした。手首がかすかにしなった瞬間、発射された黒い骨針が正確に魔狼の眉間を貫く。間髪置かずに襲いかかった二頭目も、同様の軌道で地へ崩れ落ちた。


周囲を囲む魔狼たちが警戒を強め、じりじりと距離をとる。


クロイゼンが深く踏み込んだ。


それを合図に、残る数頭が一斉に跳躍し、空中から殺意を浴びせかける。次の瞬間、クロイゼンの肩口から黒竜の骨翼が跳ね上がり、円を描いて薙ぎ払われた。


鋭利な骨の突起が、空中で獣たちの喉笛を切り裂く。鮮血の霧が舞い散る中、反転して森へ逃れようとした最後の個体へ、正確無比に放たれた骨針が後頭部を穿ち、地面へ縫い付けた。


一瞬の沈黙の後、そこには動かなくなった魔狼の死骸だけが転がっていた。


「…すげえな」


ダリオの掠れた声に、エルヴはただ無言で頷くことしかできなかった。


やがて緑色の信号弾が空へ上がった。集結の合図だ。


ダリオは小型艇を操縦し、クロイゼンの待つ所定の開けた草地へと着陸させた。エルヴが真っ先に艇を降りて駆け寄ると、すでに着地していたナザルクがしゃがみ込み、魔狼の死体を素手で検分していた。その隣ではエイレンが保存槽の状態を確かめている。


「素晴らしい、キリウス。一撃だ。骨格も内臓もほとんど傷ついていない、使えるところが多いよ」


ナザルクが保存槽を引き寄せ、感心したようにクロイゼンを褒める。


「ああ」

クロイゼンが短く応える。


エルヴが顔を上げると、包囲網の隙間を突き、数頭の魔狼が深林の暗がりへと逃げ込もうとしていた。


「あ、あれ…」


ダリオが声を上げ、腰の銃剣へ手を伸ばそうとしたのを、ナザルクが手をかざして制した。


「あれの処理は私が」


ナザルクの白い指先から、陽光を反射してきらめく極細の糸が解き放たれ、生き物のように空中で踊った。


次の瞬間、目の前に横たわっていたはずの魔狼の死体が、次々と関節を不自然に軋ませながら立ち上がった。


「ヒッ…!?」


ダリオがたじろぎ、エルヴも思わず半歩退いた。死体は濁った瞳を剥き出しにしたまま、四肢を突っ張っている。


「追え」


ナザルクが静かに命じると、起き上がった魔狼の死骸は弾かれたように跳ね起き、数筋の疾風となって森の暗がりへと吸い込まれていった。エイレンは驚く様子もなく、残った魔狼ワーグを一箇所に集めている。


開いた口が塞がらないまま、遠ざかる背中を見送るエルヴとダリオに対し、クロイゼンは言った。


「ナザルクの手品だ」


そう言い残し、クロイゼンは踵を返して魔導艇へ向かって歩き出す。


「そうそう、ただの傀儡術だよ」

ナザルクは糸を指先に巻き戻しながら微笑んだ。


「やっぱあの人おかしいよな……」

ダリオがエルヴの耳元で引きつった声を囁く。


やがて、逃げ込んだ獣たちが消えた森の深部から聞こえていた吠え声は、途切れ途切れの尾を引いて消えていった。


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