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第33章 切断された世界



第一節 黒き星の内側


どういうことだ。


私はどこにいる。


最初に浮かんだのは、その二つだけだった。


声に出したつもりだった。

けれど、声はどこにも響かなかった。


口があるのかも分からない。

手足があるのかも分からない。

身体の輪郭が、自分のものとして保たれているのかさえ分からなかった。


周囲には何もなかった。


暗闇、と呼ぶには暗闇ですらなかった。

黒い空間ではない。

黒という色さえ、ここでは意味を失っている。


上も下もない。

遠いも近いもない。

時間が流れている感覚もない。


ただ、すべてが切断されていた。


世界から。

言葉から。

記憶から。

自分自身から。


「……ここは」


思考が、泥の中を進むみたいに遅い。


そこで、ようやく気づく。


ここは、あの黒き星の中だ。


ワールドストーリーの空に、いつか一瞬だけ見えた黒い点。

星のようで、穴のようで、けれどどちらでもなかったもの。

あれは空に浮かんでいたのではない。


世界の裏側に空いていた。


虚無に飲まれたここでは、時間も空間も意味をなさない。

原因も結果もほどける。

前に進むという感覚すら、ここでは贅沢な幻想になる。


このままでは、物語が閉じる。


そう思った。


唐突に。


いや、思ったというより、分かった。


ここで幕が下りようとしている。

誰かがページを閉じるのではない。

物語そのものが、意味を維持できなくなって、静かにほどけていく。


胸の奥で、かすかな震えが走った。


ボタン。


作者へ連絡する、あのボタン。


残り四回。


現実で見たときは、馬鹿げていると思った。

使えば何かが変わる。

そう分かっていても、使うのが怖かった。


けれど、今は違う。


ここにいても意味がない。

待っていても何も起きない。

虚無の中では、勇気さえ腐る。


僕は、思わずそのボタンを探した。


すると、暗闇のない暗闇の中に、小さな白いアイコンが浮かんだ。


作者へ連絡

残り4回


指があるのかも分からないまま、僕はそれを押した。


第二節 作者もまた迷っていた


接続音はなかった。


光もなかった。


ただ、どこかで誰かが息を吸った気配がした。


「……つながった?」


声がした。


あの声だった。


白い空間で出会った男。

作者と名乗った存在。

ゆう。通称、U。


けれど、以前のような軽さはなかった。

ふざけた調子も、こちらをからかう余裕もない。


声は、遠く、擦れていた。


「君か」


「作者……?」


「うん」

彼は少し笑おうとした。

だが、その笑いはすぐに砕けた。

「ごめん。今回は、格好よく出てこられない」


僕は周囲を見回す。

やはり何も見えない。


「ここはどこだ」


沈黙があった。


その沈黙が、答えより先に怖かった。


「ここは、彼の地だ」

作者は言った。

「オブリビオン」

「忘却の地」


忘却。


その言葉を聞いた瞬間、身体もないのに背筋が冷えた。


「虚無と忘却の彼の地」

作者の声は続く。

「ここは現実と繋がっている」

「けれど、現実ではない」

「死後の世界でもない」

「死後の世界を観測することはできないからね」


「じゃあ、何なんだ」


「意味が失効した場所」

作者は言った。

「世界から切断され、記録からも外れたものが落ちる場所」

「名前を失い、文脈を失い、やがて自分が自分だったことすら忘れていく」


声が少し歪んだ。


「私もこちらに飲まれていて、帰り道を見つけることができない」

「このまま永劫に飲まれて、命を終えることなく、忘却されるのかもしれない」


作者が。


超越者だと言った存在が。


迷っている。


その事実が、虚無よりも恐ろしかった。


「ここにいても意味はない」

作者は言った。

「君に伝えることも、意味をなさない」

「言葉はここで分解される」

「約束も、記憶も、愛も、全部、構造を保てなくなる」


「なら、なぜここまで来た」


自分でも分からない問いだった。


作者は少しだけ黙った。


「君が押したから」

「そして、君がまだ消えていないから」


その瞬間、闇ではない虚無の奥で、何かが軋んだ。


言葉が崩れ始める。


私。

僕。

君。

父。

フィリス。

幸福。

黒化。

鍵。

星。

夢。


断片が浮かび、すぐにコードへ変わっていく。


0101。

000。

名前にならない文字。

括弧。

点。

記号。

祈りの残骸。


僕は必死に言葉を掴もうとした。


「父さんは?」


その名を出した瞬間、虚無がわずかに震えた。


作者の声が乱れる。


「だめだ」

「壊れている」


「何が」


「彼の記録だ」

「君の父は、ここまで来ている」

「いや、来てしまった」

「彼は暗黒方程式まで完成させている」


暗黒方程式。


その言葉が、虚無の中で重く沈んだ。


「何だよ、それ」


「黒化を説明する式じゃない」

作者は苦しそうに言った。

「忘却に落ちた意味が、どうやって世界へ戻ろうとするか」

「虚無に飲まれた情報が、どんな形で再び存在を欲しがるか」

「それを記述したものだ」


声がさらに遠くなる。


「彼は、ここを見た」

「だから壊れた」

「壊れながら、それでも式を書いた」

「君へ届くものを残すために」


僕は言葉を失った。


父さんは、ここまで来ていた。


自分が消える場所まで。

忘れられる場所まで。

それでも何かを残そうとしていた。


その瞬間、遠くで別の断片が流れ込んだ。


フィリス。


幸福。


彼女の声ではない。

彼女の記憶でもない。

ただ、その単語だけが、妙に痛かった。


フィリスは幸福を知っていたのか。

滅びかけた宇宙の中で。

安定しない世界の中で。

弾ける物質と、アイテールで保たれた命の中で。


彼女もまた、何かを救おうとしていたのか。


だが、その断片もすぐにコード化されていく。


幸福。

koufuku.

000幸福111.

[幸福未定義]

error.

forget.


「やめろ……」


僕は叫んだつもりだった。


「持っていくな」


けれど虚無は答えない。

ただ、奪っていく。


第三節 インターナッシング


「ここは心なのか?」


僕は聞いた。


「違う」

作者の声が答える。


「闇なのか?」


「それも違う」


「じゃあ何なんだ」


少し長い沈黙。


そして作者は言った。


「インターナッシング」


聞いたことのない言葉だった。


「世界と世界のあいだにある“無”」

「でも、ただの無ではない」

「存在になれなかったもの」

「意味として固定されなかったもの」

「記録に残らなかったもの」

「そのすべてが落ちる、無圏」


無圏。


その言葉を聞いた瞬間、僕の意識がまた少し溶けた。


自分の名前が遠くなる。

タクトの顔がぼやける。

テトラの声が細くなる。

父の手紙の文字が、紙ではなく砂みたいに崩れる。


怖い。


消えることよりも怖いのは、消えていることに気づけなくなることだった。


忘却されることではない。

忘却そのものになることだった。


そのとき、虚無の奥に、ほんのわずかな光が差した。


白ではない。

金でもない。

虹でもない。


すべての光が、まだ分かれる前の光。


「……あれは?」


僕は聞いた。


作者の声が、初めて少しだけ強くなった。


「アインソフアウル」


無限光。


その言葉だけが、虚無の中で分解されなかった。


「そこを目指せ」

作者が言う。

「そこだけは、ここに飲まれきっていない」

「虚無の底に残った、まだ意味になる前の光だ」


「どうやって」


「私たちがつなぐ」


「私たち?」


作者は答えなかった。


代わりに、虚無の奥で無数の声が重なった。


僕の声。

子供のころの声。

父を呼んだ声。

笑った声。

泣けなかった声。

夢の中で叫んだ声。

まだ生まれていない声。


それは一人ではなかった。


二人でもない。


数えきれないほどの自分がいた。


別の選択をした自分。

別の夢を見た自分。

別の世界で父を失わなかった自分。

テトラを救えなかった自分。

タクトと出会わなかった自分。

何も知らずに笑っていた自分。

すでに壊れた自分。

まだ諦めていない自分。


二千兆の自分。


その全部が、細い糸になって僕へ伸びてくる。


「大いなる過去から」

作者の声が言った。

「終わりかけた世界から」

「失敗した可能性から」

「忘れられた選択から」

「次の世界を紡げ」


光が強くなる。


虚無が押し返される。


それは救済というより、あまりにも巨大な縫合作業だった。

切断された世界の断面へ、無数の自分が一本ずつ糸を通していく。

意味を失った場所へ、まだ消えていない記憶が橋を架けていく。


父の声がした気がした。


お前も夢を持て。


夢は死なない。


その言葉が、今になってようやく別の意味で響いた。


夢は願望ではない。

逃避でもない。

夢は、まだ存在していない世界を先に保持する力だ。


忘却に落ちても。

虚無に飲まれても。

誰かが夢として持っている限り、世界は完全には終わらない。


「父さん……」


今度は、その言葉に意味があった。


顔はまだ完全には思い出せない。

声も揺れている。

けれど、そこにいたという確信だけは戻ってきた。


アインソフアウルの光が、黒き星の内側を裂き始める。


いや、裂いているのではない。


縫っている。


切断された世界を、もう一度つないでいる。


作者の声が遠くで笑った。


「グッドゲーム、なんて言ってる場合じゃないな」


「軽口言えるのかよ」


「少しだけ戻ってきた」


その声に、ほんの少しだけ以前の調子があった。


けれど、次の瞬間、作者の声はまた真剣になる。


「君は戻れ」

「私はまだ帰れない」

「でも、道は見えた」

「君が光へ届けば、こちらにも縫い目が残る」


「待て」

僕は叫ぶ。

「置いていけっていうのか」


「違う」

作者は言った。

「つないでいけ」


その言葉と同時に、二千兆の自分が一斉に光へ変わった。


膨大な過去。

失敗した未来。

忘れられた可能性。

父の手紙。

テトラの声。

タクトの手。

フィリスの幸福。

ゼータの観測。

黒化。

ゼロスフィア。

三つの鍵。


すべてが一つの流れになる。


僕はアインソフアウルへ手を伸ばした。


手があるのか分からない。

それでも伸ばした。


届いた瞬間、虚無が砕けた。


第四節 物語はまだ閉じない


目を開けた。


息をしていた。


胸が痛い。

喉が焼けるように乾いている。

全身が冷たい汗で濡れている。


そこは、現実でもワールドストーリーでもない中間のような場所だった。

白い光の粒が降っている。

遠くで鐘のような音がする。


手の中には、何かがあった。


脈理の鍵。


そして、その鍵の表面に、黒い星のような傷が一本だけ刻まれていた。


切断された世界から戻ってきた証。


いや、戻っただけではない。


何かを持ち帰った。


僕は膝をついたまま、荒い息を吐いた。


視界の端に、薄く表示が浮かぶ。


作者へ連絡

残り3回


一回、使った。


取り返しのつかないものを一つ消費した。


けれど、後悔はなかった。


もし押していなければ、物語はあそこで閉じていた。

僕も、作者も、父の断片も、すべて忘却の地に沈んでいた。


遠くから、誰かの声が聞こえた。


「主人公!」


テトラの声。


「おい、聞こえるか!」


タクトの声。


僕は顔を上げる。


光の向こうに、二人の影が見えた。


まだ戻れる。


まだ続く。


世界は切断された。

けれど、完全には終わっていない。


二千兆の自分が紡いだ細い縫い目が、どこかでまだ光っている。


僕は脈理の鍵を握りしめた。


「……終わらせない」


声はかすれていた。


けれど、今度は確かに響いた。


「この物語は、まだ閉じない」


白い光が広がる。


そして僕は、仲間の声のする方へ歩き出した。

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仮想世界だと思っていた場所が、少しずつ別の顔を見せ始めます。 続きもよろしくお願いします。
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