完全観測基底
フィリスは、主人公たちの警戒を正面から受け止めながらも、まるで少しも怯まなかった。
「そう身構えんでええ」
その声はやわらかい。
だが、やわらかいからこそ逆に不気味だった。
本気でこちらを脅かすつもりがないのではない。
いまここで殺し合う段階ではないと、最初から決めている声だった。
主人公は剣を下ろさないまま言う。
「何者なんだ、お前は」
フィリスは巨大球体装置へ軽く手を触れた。
その表面を薄い黒紫の波紋が走る。
「わしらの宇宙は危機に瀕しとる」
タクトが目を細める。
テトラも黙って聞いている。
フィリスは続けた。
「ゼータのやつは、それを弦粒子中間体パートリングと呼んでおったな」
「わしらの宇宙では、その弦粒子中間体が安定なんや」
主人公の胸の奥が、わずかにざわつく。
パートリング。
その語は、ただの専門用語として聞き流せる響きではなかった。
どこかで何度も、別の文脈で触れてきた気配がある。
フィリスは、そんな主人公の反応を見抜いたように、かすかに口元を上げた。
「そちらの宇宙では、粒子は粒子、弦は弦、場は場として振る舞うんやろ」
「けど、わしらの宇宙は違う」
「境目がもっと曖昧や」
「定まった粒子になる手前の“中間体”みたいなもののほうが、むしろ安定して生き残る」
「……そんな宇宙があるのか」とタクト。
「ある」
フィリスは即答した。
「あるから、わしはここにおる」
最上層の巨大球体装置が低く唸る。
空中の複数画面には、アーデルム大陸の地図だけではなく、観測軸や位相線めいたものまで浮かび始めていた。
「こちらの宇宙に来るのには、一苦労やった」
フィリスは静かに言う。
「宇宙間翻訳の技術を、わしらは持ってへんかった」
「空間が違うだけやない。法則も、概念も、安定の仕方も違う」
「向こうで当たり前のものが、こちらでは崩れる」
「こちらで自然なものは、向こうでは保てん」
主人公はそこで、あの裂け目の向こうに見えた暗い世界を思い出した。
弾ける地面。泡立つ構造物。維持されなければすぐにほどけそうな宇宙。
フィリスは続ける。
「そこでや。この仮想世界を見つけたっちゅう話や」
主人公の目が細くなる。
「……ワールドストーリーを?」
「そうや」
フィリスは巨大球体装置の円環を見上げた。
「仮想世界には仮想の物理法則が働く」
「だから、わしらはここに安定してログインできるっちゅうわけや」
タクトが息を止める。
「仮想世界が……宇宙間の緩衝材になってるのか」
「そう考えてもろうてええ」
フィリスは頷いた。
「現実宇宙どうしを直接つなぐと、翻訳負荷がでかすぎる」
「けど、仮想世界ならええ」
「最初から“法則が記述可能な世界”やからな」
テトラが低く言う。
「だから、この世界にあんな裂け目を開けたのね」
「裂け目いうより、接続口や」
フィリスは言った。
「不格好やけどな」
そして球体装置の一部画面に、黒い文字列が流れた。
それはこの世界の標準文字ではなく、どこか理論式と祈りの中間みたいな記述だった。
フィリスはそれを見て、呆れたように笑う。
「まったく、ゼータのやつもやりよるわ」
「ゼータ?」と主人公。
「観測屋や」
フィリスは肩をすくめた。
「理屈ばっかり積み上げて、最後には完全系観測基底の構築とか言い出しよる」
「宇宙を丸ごと、取りこぼしのない基底で書き下したいんやと」
タクトの眉が動く。
「……完全系観測基底」
主人公もその響きに引っかかった。
フィリスは少しだけ楽しそうに続ける。
「一つの宇宙を観るだけや飽き足らん」
「別宇宙も、仮想世界も、夢も、記憶文章も、ぜんぶひっくるめて“観測可能な系”に落としたい」
「そういうたぐいの人種や」
「それで、この装置か」と主人公。
「それも一部やな」
フィリスは答える。
「これは地球物理学の究極装置に見えるやろ」
「実際そうや」
「けど、それだけやない」
「環境を観る。地殻を読む。気候を制御する。重力場を調整する」
「そうやって大陸全体を“ひとつの観測対象”にする」
「完全系観測基底のための、足場づくりや」
主人公は巨大球体装置を睨んだ。
アーデルム大陸を映していた画面群は、もはや地図ではなく、標本の断面図みたいに見え始めていた。
都市も山脈も水系も、ただの景観ではなく、観測可能なパラメータへ分解されている。
「そんなために」
主人公が低く言う。
「この大陸を使うのか」
「使う、いう言い方は好きやない」
フィリスはやや疲れた顔で言った。
「けど否定はせん」
「わしらはもう、選り好みできる立場やないからな」
その瞬間、主人公は剣をわずかに構え直した。
タクトも補助ウィンドウを開く。
テトラの杖先に、重力魔法の予兆が灯る。
だがフィリスは、それを見ても表情を変えなかった。
「やめとき」
静かな声だった。
「ここで戦う意味は、まだあらへん」
「意味ならある」
主人公は言う。
「お前を止める意味がな」
フィリスは首を横に振る。
「今のあんたらでは、わしは止められん」
「逆に、わしも今ここであんたらを潰す気はない」
「どうして」
そう聞いたのは、タクトだった。
フィリスは少しだけ間を置いた。
そして、正直に言う。
「まだ測り足りんのや」
その一言で、部屋の温度がさらに下がった気がした。
「第一の鍵を入れたんは、あんたらや」
「ゼロスフィアに似せたこの球体へ、最初の位相を与えたんも、あんたらや」
「なら、もう少し先まで見たい」
「どう進むか」
「どこまで届くか」
「どの相をひらくか」
主人公は唇を噛む。
試されている。
見逃されているのではない。
観測対象として保留されているのだ。
フィリスは球体装置から手を離した。
すると空中の画面群が、一枚ずつ静かに閉じていく。
完全停止ではない。
むしろ逆で、深いところではまだ回っている感じがある。
「今日は顔見せや」
フィリスは言う。
「第一の鍵をどう使うか、少し見せてもろうた」
「それで十分や」
「待て!」
主人公が一歩踏み出す。
だが、その瞬間。
フィリスの背後に、あの黒い裂け目とは少し違う、薄い暗色の膜が立ち上がった。
闇ではない。
翻訳途中の宇宙みたいな、不安定な色だった。
「また会うやろ」
フィリスは軽く笑う。
「ゼータも、あんたらのことを気に入りそうやしな」
「ゼータって何者だ!」と主人公。
フィリスは振り返らないまま答える。
「観測を愛しすぎた、おもろない男や」
その言葉を最後に、彼女の輪郭がゆっくり薄れていく。
主人公が追おうとしたとき、テトラが鋭く叫んだ。
「だめ! 触らないで!」
「いま無理に追うと、あっち側へ引っ張られる!」
主人公は寸前で足を止める。
薄暗い膜の向こうで、フィリスの姿が完全に消えた。
静寂。
最上層には、巨大球体装置の低いうなりだけが残る。
主人公はしばらく動けなかった。
戦闘を避けられた安堵ではない。
もっと質の悪い感情だった。
「……逃げられた」
「違う」とタクトが言った。
「向こうが戦う必要を感じなかっただけだ」
それは慰めにも何にもなっていなかった。
むしろ、正しいぶんだけ腹が立つ。
テトラは、巨大球体装置を見つめたまま小さく言う。
「でも、残していった」
「情報も、装置も、第一の鍵が刺さったままの状態も」
主人公とタクトが同時にそちらを見る。
たしかにそうだった。
フィリスは装置を奪っていない。
壊してもいない。
第一の鍵も、そのまま残っている。
つまり彼女は、この場を次の観測点として残していったのだ。
主人公は低く息を吐く。
「……だったら、こっちも使う」
タクトが頷く。
「先に調べるしかないな」
巨大球体装置はまだ唸っている。
その内部には、アーデルム大陸の環境記録だけではなく、別宇宙の論理、ゼータという観測者、完全系観測基底、そしてゼロスフィアに似せた何かが眠っている。
主人公は、第一の鍵が刺さったままの差し込み口を見つめた。
戦闘はなかった。
だが、それ以上に厄介なものが残った。
敵の理屈だ。
そして理屈がある相手は、ただの怪物よりずっと長く追ってくる。




