第八話 烏羽玉
『地頭野民俗資料集』より――「黒き大鳥の道案内」
むかし、神見の里に、弥平という若者がおった。秋の祭りの前夜、里では大川上地頭府神社へ、初穂と榊を納めるならわしがあり、その年は弥平がその役を言いつかった。
大川上地頭府神社へ参るには、神見の里を出て、物別川沿いの道をさかのぼり、辺土ヶ森の裾を抜けねばならん。昼を過ぎれば森はよう陰り、夕暮れどきには道が道でのうなる――そう言うて年寄りは、かならず日が高いうちに越えよと戒めちょった。
けんどその日、弥平は田の手伝いが長引いて、里を発ったがが遅うなった。榊を背負い、急ぎ足で山道へ入った頃には、空はもう赤う傾き、辺土ヶ森の木々の下には薄い靄が下りはじめちょった。
弥平は急いだ。急いだけれど、森へ入ると道の具合がどこかおかしかった。見覚えのある石が何度も目の前に現れ、曲がったはずの坂が、また同じように続いておる。足は前へ進んじゅうはずなのに、森の中だけがぐるりと輪を描いて、自分を包み込んでくるようであった。
その時、背後で「カア」と一声した。
森の奥からではのう、すぐ耳の後ろで鳴かれたような近さに、弥平はぞっとして肩越しに振り返った。
見上げると、頭の上の枝に、一羽の大きな黒い鳥がおった。烏に似いちゅうが、里で見る烏より二回りも大きい。羽は濡れた墨のように艶がのう、目ばかりが妙に濡れ光っちょる。
鳥は弥平を見下ろしたまま、ひとつだけ首を傾け、それから音もなく先の枝へ移った。
弥平が歩くと、またひとつ先へ飛ぶ。立ち止まれば、鳥も止まる。まるで「こっちじゃ」と道を示すようであったゆえ、弥平は、これは神社へ導く神使いかもしれんと思い、そのあとを追うた。
鳥は、森の道が分かれちゅうところへ来るたび、かならず一度鳴いた。
一度目の声を聞いた時、弥平は自分が神見のどこの家の者であったか、胸のうちで言い直さんと出てこんかった。
二度目の声を聞いた時、背負うた榊をどこの社へ納めるがやったか、一瞬だけ分からんなった。
三度目の声を聞いた時、母から呼ばれよった幼名が、喉の先まで出かかっちょるのに、どうしても思い出せんようになった。
それでも鳥の先には、たしかに森の切れ目が見えた。木々のあわいの向こうに、石段と、社の灯がかすかに浮いちゅう。弥平はようやく辺土ヶ森を抜け、大川上地頭府神社へたどり着いた。
社守の老爺は、榊を受け取るより早う、弥平の顔をじっと見て言うた。
「おまん、森で黒い大鳥に鳴かれて振り返ったか」
弥平はぎょっとした。
老爺は榊を抱えたまま、低い声で言うた。
「それは烏羽玉いう、辺土ヶ森に棲む夜の神のしもべじゃ。あれは道をよう知っちゅう。じゃが、人を導く代わりに、名の端を一枚ずつ啄む。振り返れば、その嘴が人の名へ届く。社へ着けても、自分の名をよう言えんなった者は、そのうち森の暮れに呼ばれて、里へ戻れんなる」
そう言うと老爺は、急いで榊の葉で弥平の胸を打ち、塩を振りかけ、「弥平、弥平、弥平」と三度、名を呼び戻した。すると弥平はその場へ膝をつき、忘れかけちょった幼名をようやく思い出して、大声で泣いたという。
それから神見の里では、辺土ヶ森を抜けて大川上地頭府神社へ参る時、夕暮れに黒き鳥を見ても、その鳴き声に応えてはならぬ、羽音に振り返ってはならぬ、と言うようになった。
「黒き大鳥が先へ立っても、呼ばれた名を返すな。辺土の暮れは道を貸しても、名までは返してくれん」
そう言うて年寄りは、暮六つ過ぎの森道を、子らにけっして歩かせなんだそうな。
◆
白金淵から戻った翌日の夕方、片桐神社の境内は昨日と同じように暑かった。石畳は陽を返して白く、拝殿の屋根はじりじりと焼けて見える。蝉は喧しいくらい鳴いているのに、社殿の脇に立つ大楠のあたりだけ、そこだけが別の季節みたいに音を吸っていた。
俺は拝殿の縁に腰を下ろし、胸に手を当てた。
千早健彦。
心の中でその名をなぞる。胸骨の裏に通った細い冷たさが、かすかに応えた。名はまだ俺の中にある。昨日みたいに井戸の底へ落ちたような遠さはない。けれど、それが「戻った」感じではないことも、もう分かっていた。
白金淵で銀次郎が貸してくれた綱が、胸の内側に一本だけ通っている。そこへ名の輪郭を引っかけて、どうにか此岸へ留まっているだけだ。時々、心臓の近くがひやりとするたび、それが借り物の支えでしかないと思い知らされる。
ヒエンは俺の足もとで落ち着かなかった。尻尾は上がらず、西の方角――辺土ヶ森のある側ばかりを見て、時々低く鼻を鳴らす。
砂利を踏む音がして、レイアとラミエが並んで入ってきた。荷台に座るオイゲさまは、今日は麦わら帽子を深くかぶっている。白いワンピースの裾だけが、夕方の風にかすかに揺れた。
「顔色、昨日よりはましやね」
レイアはそう言いながら、俺の顔より先に胸元を見た。綱なんて見えるはずもないのに、そこを確かめずにはいられないらしかった。
「ましなだけ。治ったわけやない」
そう返すと、レイアは眉を寄せた。
ラミエは大楠の裂け目の前まで行き、少し離れた位置から見上げた。雷に裂かれたと言い張ろうと思えばまだ言えなくもない傷だ。けれど昨日より、黒い裂け目の奥行きが深くなっているように見える。木の幹ではなく、暗がりそのものが口を開いているようだった。
「昨日より近い」
ラミエが言った。
「何が」
「向こう側が」
その言い方に、喉の奥をつままれたみたいになった。
オイゲさまが荷台から跳び降り、大楠を見上げる。
「森のほうから道が伸びてきゆう」
その声は小さかった。なのに、蝉の声の上をするりと通って、まっすぐ耳に入った。
「……もう?」
レイアが振り返る。
「うむ。白金淵で一度は押し返した。けんど、向こうも諦めちゃあせん」
その時、ラミエがしゃがみ込んだ。何かを拾い上げたのかと思ったが、触れずにその場で止めている。俺とレイアも近づく。石畳の継ぎ目のところに、黒い羽が一枚だけ落ちていた。烏の羽に見える。だが、近くの枝を見上げても影ひとつない。
「ここまで来た」
ラミエが低く言う。
「里まで?」
俺が訊くと、ラミエは首を振った。
「里じゃなくて、神社まで。ここはまだ向こうの手前やと思ってた。でも違う。もう、来てる」
レイアは露骨に嫌そうな顔をした。
「こんな羽、焼いちゃおうよ」
「駄目だよ。触らんほうがいい」
「じゃあ、ここへ置いちょくが?」
「触っても触らんでも、見つけた時点で道を見られた可能性がある」
羽一枚で、道を見られる。理屈では分からない。けれど昨日の白金淵をくぐった今となっては、ないとも言い切れなかった。
オイゲさまが羽を覗きこみ、帽子のつばを少し上げた。
「今夜、来るかもしれんの」
「来る、って」
「声じゃ。呼び口から先に来る」
その言葉が妙に胸に残った。名前ではなく、呼ばれ方のいちばん薄いところ。
ラミエは俺を見た。
「今夜から、ちゃんとやって。名古さまに言われたとおり、自分の名を確かめること。呼ばれても返事をしないこと」
「そんなに簡単に返事なんかするかよ」
言ってから、自分でもそれが強がりだと分かった。昨日、白金淵で自分の名の一部が遠くなった感触を、まだ喉の奥が覚えている。あのざらつきが戻ってきた時、どれだけ冷静でいられるか分からない。
レイアがぱっと俺の袖を掴んだ。
「たっ――」
そこまで言って、はっとしたように口を噤む。
ラミエが振り向いた。
「森へ入るなら、本名で通したほうがいい。呼ばれ方が増えると、そこから掴まれる」
「まだ入るなんて決めてないやん」
レイアは反射的に返したが、声は少し上擦っていた。オイゲさまは羽から目を離さずに言う。
「決めることになる。向こうはもう、こっちの道を見つけちゅう」
その時、ヒエンが初めてはっきりと唸った。西の空を見上げる。俺たちもつられて視線を向けた。まだ夕方で、山の端は赤い。里の烏なら、そろそろねぐらへ帰る時刻だ。その空を、一羽だけ黒い影が逆向きに横切った。森のほうからこちらを見に来て、また帰っていくみたいに。
羽音は聞こえなかった。
ただ、影だけがひどくはっきりと見えた。
◆
その夜、家の中はいつもどおりだった。
夕飯の味噌汁は少し濃くて、焼き魚の皮はぱりぱりしていて、テレビでは地元のニュースが流れていた。母さんは「今日は早よ寝ぇよ」と言い、俺も「分かった」と返した。何ひとつ特別じゃない。昨日も一昨日も、こういう夜はあった。
なのに、全部の輪郭の向こうにもう一枚、薄い膜がある感じがした。
風呂を出て部屋に戻り、机の上へ腕時計を置く。父さんのものではない。俺の安物のデジタルだ。それでも、何かを確かめずにはいられなかった。時間は十一時を少し過ぎていた。
電気を消して、窓のところへ立つ。庭木の向こうは暗い。遠くで虫が鳴いていて、川のほうから湿った空気が上がってきている。
名古の銀次郎の言葉を思い出す。
――夜ごと名を確かめえ。
俺は心の中で、自分の名を胸の奥へ落とした。胸の内側の冷たい糸が、かすかに応える。そこにある。まだ切れていない。けれど、その先がどこか深い水に浸かっているような感触があって、それが借り物の支えでしかないことも同時に思い出させた。
窓の外で、ばさ、と羽のこすれる音がした。
俺は息を止める。続けて、低い声がした。烏の濁った声に似ている。でも、人の喉を通った気配も混じっている。
「た……」
たったそれだけだった。
名前じゃない。名の頭だけ。なのに、それが俺へ向けられたものだと分かってしまう。
胸の中の糸が、ぴんと張る。
振り返るな。返事をするな。
分かっている。分かっているのに、肩が勝手にそちらへ引かれる。窓硝子に映った自分の顔が、ひどく他人みたいに見えた。俺は思わず、半歩だけ窓へ寄った。
その時、庭のどこかでヒエンが低く唸った。
はっとして立ち止まる。次の瞬間、気配はすっと消えた。羽音も、声も、最初からなかったみたいに。
窓を開ける勇気はなかった。
ただ硝子越しに闇を見た。葉のあいだに、何かがいくつか光った気がした。露か、目か、それさえ分からない。見ようとした途端、全部が木の影へ溶けた。
翌朝、縁側のすぐ下に、濡れたように黒い羽が一本だけ落ちていた。
拾おうとして指を伸ばし、触れる寸前でやめる。胸の糸が冷たくなったからだ。
指先は羽に触れていないのに、なぜか薄い油膜みたいな感触が残った。
◆
翌朝の空は、皮肉なくらいよく晴れていた。そんな日ほど、片桐神社の大楠の裂け目は、よけいに黒く見える。
拝殿の脇で、ラミエは俺が持ってきた羽を見た瞬間、顔色を変えた。昨日の羽より少し長く、根元のほうに青みがかった艶がある。
「呼ばれた?」
訊かれて、俺は少しだけ迷った。けれど黙っても仕方がない。
「……名前そのものじゃなかった。頭だけ。最初の音だけ」
レイアが息を呑む。
「返事は」
「してない」
「振り向いた?」
「完全には」
その“完全には”の一言で、レイアの顔が曇る。ラミエは額に手を当て、短く息を吐いた。
「もう始まってる」
オイゲさまが拝殿の階段に腰を下ろし、足をぶらつかせながら言う。
「辺土ヶ森の中心に、古い社がある。今はもう、人が参ることものうなったところじゃ。あそこが、こっちと向こうの境になっちゅう」
「境……」
俺が繰り返すと、オイゲさまは頷いた。
「完全に裂けちゅうわけやない。じゃが、楠が割れてから、あそこが痩せた。境が薄うなって、向こうのもんが此岸へ手を掛けやすうなっちゅう」
ラミエが静かに言葉を継ぐ。
「白金淵で銀次郎が貸してくれた綱は、健彦の名を留めるための仮止め。それで今すぐ持って行かれんようにはなる。けんど、境が緩んだままだと意味がない。向こうのもんは、また呼び口から入ってくる」
レイアが羽を睨んだまま言う。
「じゃあ、どうすればえいが」
ラミエは一度、大楠の裂け目を見上げ、それから俺たちへ向き直った。
「守るだけじゃ、もう間に合わない」
その声は低かったが、はっきりしていた。
「今、緩んでるのは境そのもの。彼岸界におるもんが、ここを足掛かりにして此岸界へ出ようとしてる。羽が神社まで来て、呼び口が家まで届いた。もう“寄ってきゆう”段じゃない。道を作りはじめてる」
蝉がわっと鳴いた。
その中で、レイアが俺を見る。いつもの真っ直ぐな目じゃない。連れて行きたくない、縛ってでもここに置きたい、でもそれが正しいのか自分でも分からない、そんな目だ。
オイゲさまが帽子のつばを押さえたまま言う。
「森へ入るがは、様子見やない。あやつが此岸へ首を出そうとしゆう境まで行って、押し戻す。こっちで追い払うだけでは駄目じゃ。彼岸へ返して、向こう側で封じ直さにゃならん」
俺は背負った袋の中の加多奈切を思う。木刀のはずなのに、その名を聞いた途端、掌の奥がかすかに冷えた。
ラミエが続ける。
「加多奈切で切るのは、姿そのものじゃない。夜の神の僕が此岸へ引っかけてる“片名”だよ」
「片名……」
俺が繰り返すと、オイゲさまが頷いた。
「名の全部を持つのは、まだ向こうにも難しい。やき、端から啄む。呼び名の端、幼名の端、覚えの薄いところから削ってくる。此岸へ掛かっちゅうその端――片名を、彼岸で断つがよ」
ラミエが補う。
「片名が此岸に掛かったままだと、あっちは何度でもそこを足掛かりにして出てくる。だから彼岸へ押し戻したうえで、健彦が加多奈切で断つ。そうすれば、向こうが掴んだ名の鉤が外れて、境も閉じやすくなる」
レイアの指が、白い髪紐を握りしめる。
「そんなこと……今のたっけにやらせる気?」
その声には怒りより、怯えが強く混じっていた。俺を行かせたくない。けれど、行かせなければもっと悪くなる。その両方を知ってしまった声だった。
ラミエは一度だけ目を伏せ、それからまっすぐ言った。
「名が、もう向こうに触られてる。触られてない人間が行っても、あの境は見えん。加多奈切を渡しても、切る場所が分からん」
冷たい言い方に聞こえた。
でも、それが冷たいだけの言葉じゃないことも分かった。
俺はレイアの視線から逃げずに言った。
「行こう」
二人とも黙った。
「守られるだけじゃ駄目なのは、俺が一番分かってる。昨日、白金淵で綱を借りた時点で、もう猶予しかないんだろ。昨日の夜も来た。ここで待ってても、また名前の端から削られる。だったら、向こうが出てくる前に押し戻して、境を閉じるしかない」
レイアは何か言い返しかけて、言えなかった。その代わり、掴んだ髪紐をいっそう強く握る。
ラミエが静かに言う。
「……森の中では、“健彦”で通す。呼び名を割ると、そこから掴まれる。此岸の名はひとつに揃える。彼岸へ入ったら、オイゲさまが境を見つける。僕が道を保つ。レイアは結びを切らさない。健彦は加多奈切で片名を断つ」
オイゲさまが、ふっと目を細めた。
「今回やるがは退治やない。押し戻して、封じ直すがよ」
しばらく誰も喋らなかった。蝉の声だけがやけに大きい。夏の朝はどこまでも明るいのに、大楠の裂け目の奥だけは相変わらず黒かった。
やがてレイアが、諦めたように、けれど諦めきれん顔で息を吐いた。
「……分かった。でも、健彦。絶対に一人で先へ出んといて。呼ばれても返事したらダメ。わたしが掴んじゅう限り、ちゃんとこっちへ戻すき」
最後の一言だけ、少しだけ震えていた。
俺は頷いた。
◆
出立の段取りは、決まってしまえば早かった。
ラミエは拝殿の脇へ置いてあった長い布袋を広げ、中身をひとつずつ確かめていく。御幣、塩、鈴、細い注連縄、白紙の札、榊の小枝。どれも見慣れた神社のもののはずなのに、こうして地面に並べられると、急に「戻るための道具」に見えた。
レイアは無言で髪紐を数えていた。いつも結んでいる白い紐のほかに、同じものを何本も取り出し、指先で癖をのばしていく。結ぶための紐。留めるための紐。ほどけそうになったものを、無理やりでも此岸へ繋ぎ止めるための紐。
俺は縁に置いた加多奈切の袋を手に取る。木刀が入っているだけのはずなのに、持ち上げた瞬間、腕の奥にじわりと重みが来た。重いわけじゃない。むしろ軽いくらいだ。なのに、重さの居場所が定まらない。
「健彦」
レイアが呼ぶ。森の中で使うと決めた名だ。柔らかいあだ名ではなく、切れ目のはっきりした本名。たったそれだけの違いなのに、呼ばれ方が変わるだけで背筋が少し伸びる。
「手、出して」
言われるまま差し出すと、レイアは白い髪紐を一本、俺の左手首へ巻いた。きつくもなく、緩くもない、ちょうど引けば存在が分かるくらいの強さで結ぶ。
「無理に解いたらいかんよ」
「引っ張るため?」
「そう。でも、それだけじゃない。健彦が健彦でおるように、こっち側に結び目を残しとく」
その言い方は、まるで昔からそうしてきたみたいだった。祭りの日、山へ遊びに行く日、川へ下りる日。危ないところへ行く時、レイアはいつも「結んどく」と言って笑っていた。あの頃はお守りの真似事だと思っていたのに、今は違う。
ラミエが札を束ねながら言う。
「僕は前を取る。目印がずれた時は、声じゃなくて合図で止める。呼ばれても、絶対に返事をしないで」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「お前な」
言い返しかけると、ラミエはちらりとこちらを見て、それからほんのわずかに口もとを緩めた。
「分かってないんじゃなくて、分かりすぎてる顔か」
その言い方に、少しだけ息が抜ける。緊張で張りつめたままの空気に、ほんの一瞬だけ隙間ができた。
オイゲさまは拝殿の階段から立ち上がり、帽子のつばを押さえた。
「森に入ってからは、なるたけまとまって歩く。道が楽でも信じるな。通りやすいがは、通したいからじゃ」
「分かりました」
レイアが答える。だが、その声はまだ固かった。
オイゲさまは少しだけ首を傾げた。
「レイア。怖いかえ」
いきなり核心を突かれて、レイアの肩がぴくりとした。目を逸らしもせず、けれどすぐには答えない。
「……怖いよ」
ようやく出た声は、小さかった。
「また持っていかれそうで」
オイゲさまはただ頷いた。
「ほいたら、なおのこと気ぃ張れ。怖いもんを怖いと言えんようになったら、そっちのほうが危ない」
準備が済むと、拝殿の前に一瞬だけ妙な静けさが落ちた。
蝉は鳴いている。風もある。なのに、出立の直前だけ、神社そのものが息を潜めたみたいに感じる。あそこから始まったものを、俺たちは今から追い返しに行くのだと思うと、足の裏が少しだけ冷たくなった。
「行こう」
ラミエが言う。
俺たちは頷き、それぞれ荷を持った。鳥居へ向かう石段を下りる。
鳥居の笠木の上に、黒い影があった。
一羽だけだ。
大きくも小さくもない。ぱっと見には、里でよく見る烏と変わらない。
けれど、ヒエンの背の毛が、見る間にはっきり逆立った。
烏は鳴かなかった。
ただ、こちらを見下ろしている。
「見張りじゃの」
オイゲさまが鳥居を見上げたまま言う。
「追い払う?」
レイアが低く訊く。
オイゲさまは首を振る。
「今ここで散らしても意味はない。あれは目でしかないき」
その瞬間、烏が音もなく飛び立った。黒い影だけが鳥居の上から剥がれ、ひとつ大きく弧を描いて、辺土ヶ森のほうへ流れていく。
「急ごう。向こうは、もうこっちが来るのを知ってる」
ラミエのその一言で、俺たちは鳥居をくぐった。
その一歩だけで、神社の側に残っていた夏の明るさが、少し背中のほうへ遠のいた気がした。
◆
神社の石段を下り、田のあいだの細い道を抜けるあたりまでは、まだ此岸の朝だった。
辺土ヶ森の裾が近づくにつれ、ヒエンは尻尾を下げたまま黙り込み、俺たちの脚にぴたりとついて歩いた。
「ここから先、声を張らないで。呼ばれても返事はしない。止まりたい時は肩を叩く」
ラミエが言う。
「健彦、自分の名前」
言われるまま、心の中でそっと唱える。胸の糸が、かすかに応えた。
森の入口は、外から見るとただの木陰だった。だが一歩踏み込んだ瞬間に光の質が変わる。
頭上にはまだ陽があるはずなのに、地面へ落ちてくる頃には白さが抜けていた。葉裏の緑は鈍くくすみ、木の幹はどれも少し濡れたように黒い。風が止むと、蝉の声は森の表面で吸われ、少し奥へ入っただけで、自分たちの足音ばかりが近く聞こえた。
なのに、道は驚くほど歩きやすかった。
踏み跡ははっきり残り、倒木も避けやすく、足を掛ける石まで都合よくある。むしろ手入れされた山道みたいだ。
「よっぽど通したいようじゃ」
オイゲさまがぽつりと言った。
少し先の地面に、黒い羽が落ちていた。二枚、湿った土の上へ重なるように落ちている。分かれかけた踏み跡の、ちょうど進むべきほうの上だ。
「乗るな。でも避けすぎるな」
ラミエが言う。
結局、避けたつもりでも羽が示したほうへ寄せられる。反対側は藪が濃く、明らかに歩きづらい。
その時、頭上で、ばさり、と一度だけ羽音がした。
「見るな」
オイゲさまの声が低く落ちる。
見なくても分かる。すぐ上の枝から、何かがひとつ先へ移った。
さらに数歩進む。
右手の林の奥で、紙を一枚だけめくるような音がした。
父さんの調査ノートに似た音だった。
俺の胸が跳ねる。そこへ行けば何か分かると思ってしまう。父さんが三年前の台風水害のあと、何を見つけたのか、その手がかりがあるんじゃないかと。
一歩、足が向きかける。
「健彦」
ラミエの声が鋭く飛ぶ。
はっとして止まる。見ると、右の暗がりには何もない。ただの木立だ。
「今のがそうだよ。助けるふりで寄せてくる」
ラミエが息を吐く。
俺は黙って前を向き直る。胸の糸は、さっきより少しだけ冷たくなっていた。
前方の木立が不意にひらけ、薄暗い奥に、石段らしきものの白さがちらりと見えた。
その先に、二つの傾いた鳥居と、藤棚に呑まれかけた社が待っていた。
◆
苔に覆われ、半ば土へ沈みながらも、石はまだ石段のかたちを残していた。
木立がさらにひらける。
そこに、二つの鳥居があった。
どちらも古い。どちらも傾いている。ひとつは右へ、もうひとつは左へ、互い違いに首をかしげるように歪んでいた。表面の朱はとうに褪せ、木の肌は灰と黒のあいだみたいな色へ変わり、脚元からは苔と蔦が這い上がっていた。
二つの鳥居の奥に、社殿があった。
いや、社殿だったもの、と言うほうが近い。
屋根は半ば落ち、梁は黒ずみ、壁板は剥がれ、縁は片側から沈み込んでいる。けれど、それ以上に目を引くのは、その上から覆いかぶさる藤棚だった。太い蔓が梁に絡みつき、幾重もの枝が屋根を貫き、倒壊しかけた社殿そのものを呑み込むように繁っている。花の時季ではないのに、葉ばかりが異様に濃い。
「……あれか」
自分の声が、思ったより小さく出た。
オイゲさまが頷く。
「境じゃ」
ここだけ、森の空気が沈んでいる。白金淵で触れた“向こう側”の冷たい薄さが、山の湿り気の中へ雑に重なっている。
背中の袋の中で、加多奈切がかすかに震える。
「ここから先は不用意に入れない」
ラミエが低く言う。
ヒエンは石段を見ず、その上を覆う木々だけを見ている。
風が、そこで止んだ。
蝉の声がひとつ落ちる。
森全体の音が、薄い布をかぶせられたみたいに鈍くなる。
「来る。烏羽玉じゃ」
オイゲさまが言った。
最初、何も見えなかった。
それでも、見られている。
目を凝らす。
すると、あった。
黒の中に濡れた赤みが滲んでいる点が、ひとつ、ふたつ、みっつ、と散っていく。二つの鳥居の上にも、藤棚の奥にも、社を囲む枝々の隙間にも、いつの間にかそれが増えている。
数えようとした瞬間、位置がずれた。全部でいくつか確かめる前に、森そのものがこちらを見ているような気分になる。
「見上げないで」
レイアが低く言った。
「見るな。数えるな」
オイゲさまの声が重なる。
その時だった。
俺のすぐ耳の後ろで、ひどく近く、掠れた声がした。
「た……」
喉が凍る。
呼ばれたのは俺だと分かる。しかも、名前そのものじゃない。呼び名の、いちばん柔らかいところだけを啄むみたいに、端だけが掠められる。
肩が反射的に揺れた。
「振り返ったらだめ!」
レイアが叫ぶ。
同時にヒエンが、初めて空へ向かって吠えた。ラミエが御幣を構える。塩の包みがその手の中で破れ、白い粒が足元へ散った。
ばさり、と頭上の枝が鳴る。
ひとつではない。
二つの鳥居の上で。
藤棚に覆われた社の上で。
社を囲む木々の梢で。
いっせいに黒い影が身じろいだ。
羽音は確かにあるのに、どれがどこから鳴っているのか分からない。枝の上に夜そのものが降りてきて、形だけを変えながら揺れているみたいだった。
次の瞬間、赤い目をした烏の大群が、暗がりのあちこちでいっせいにこちらを向いた。
「た、け……」
ひとつの声が鳴く。
少し離れた梢で、また別の一羽が、
「た、け……」
と続ける。
それが二つの鳥居の上から、藤棚の奥から、社を囲む木々の上から、順に、順に落ちてくる。
「た、け……」
「た、け……」
「た、け……」
呼ばれている。
しかも、俺の名そのものではなく、此岸で誰かに近く呼ばれる時の、柔らかい側だけを。
胸の糸が、きしむみたいに冷えた。
振り返るより早く、森のほうがもうこちらの名を、呼び名の形で知っていた。




