第九話 名求院 廿咫烏
振り返るより早く、森のほうがもうこちらの名を、呼び名の形で知っていた。
「た、け……」
ひとつの声が梢の上で鳴き、少し遅れて別の枝がそれを受ける。
「た、け……」
またひとつ。
またひとつ。
二つ鳥居の笠木の上、藤棚の奥、社を囲む木々の高み、低み、見えない葉裏の影の中から、順に、順に落ちてくる。
「た、け……」
「た、け……」
「た、け……」
呼ばれ方の、いちばん柔らかいところだけを啄まれる。
“健彦”ではない。
此岸で誰かに近しく呼ばれる時の、返事をしてしまいそうな名の端だけが、濁った声になって森のあちこちから落ちてくる。
肩が勝手に揺れた。
「振り返ったらいかん!」
レイアが叫び、俺の手首に結ばれた白い紐を強く引いた。
同時にヒエンが空へ向かって吠える。
ラミエは御幣を構え、塩の包みを裂いた。白い粒が湿った土へ散る。
その時だった。
何かが、ひどく静かに外れた。
音はなかった。
裂ける音も、砕ける音も。
けれど空気の重なり方だけが変わる。二つ鳥居の歪みが、一瞬だけ真っ直ぐになった。藤棚の葉が、風もないのにいっせいに裏返る。社の前の空間が、陽炎とも水面ともつかぬ揺れ方をして、その奥から薄い闇がにじみ出した。
「……開いた」
ラミエの声が低くなる。
俺たちが踏み込んだんじゃない。
向こうが、勝手にこちらへ口を開いたのだと分かった。
蝉の声が一気に遠のいた。森の湿り気が冷たく変わる。此岸の夏の匂いの上へ、もう一枚、乾いた夕闇の匂いが重なる。土の上に土が敷かれるみたいに、景色そのものは変わらないのに、その輪郭だけが別のものに食われていく。
「境が崩れ始めた!」
ラミエが言うより早く、彼は御幣を正面へ打ち振った。
白い紙垂が空気を切る。
ぱん、と乾いた音がして、梢に散っていた赤い点が一瞬だけぶれた。群れの輪郭が乱れる。ひとつの意志で動いていたものが、ほんのわずかに解れたのだと分かった。
「レイア!」
レイアは俺の手首の紐を左手に巻きつけたまま、右手で別の髪紐をほどいた。足元の草へ素早く白い線を置き、低く祭文を唱え始める。
「天地の前に告げ申す。
我は名を呼びて、禍を訴う。
来たりし影、居座る瘴よ、名を以て示せ。
その名は此処に記し、此岸のうちに留め置く。
聞け、応へ、退れ。
影の形を曝し、根を断ち、縛りを解け」
ラミエが御幣で空間を押さえるなら、レイアは俺を押さえる。
「千早健彦の名は此岸へ、彼岸の呼び口は彼岸へ、
行くべき所へ帰り、現世の外へ送り還れ。
清めの水は流れ、塩の輪は結ばれ、
鈴の声は道を開き、白き緒は名を結ぶ。
禍は去ね、穢れは流れよ。
この名は此処に在れ――」
空間と、人。
境と、名。
二人が別々のものを同時に留めているのが分かった。
そのあいだにも、彼岸は押し寄せてくる。
廃れた社の上へ、別の社が重なった。
朽ちた柱と、朽ちていない柱。
落ちかけた屋根と、影のように完全な屋根。
藤棚に呑まれた社殿の上から、花も鈴もないくせに“名を捧げる場所”だと一目で分かってしまう、冷たい社の輪郭が現れる。
二つ鳥居は彼岸の側では傾いていなかった。
真っ直ぐだ。異様なほど真っ直ぐで、だからかえって不自然だった。
藤棚はただの藤ではなく、黒い帳みたいに垂れ下がり、社の口を半ば隠している。
オイゲさまが低く呟く。
「名求院の社……かつて古き世に“黄昏”を崇めた者どもが建てた社じゃ」
その声には、嫌悪と、古い記憶の両方が混じっていた。
群れはまだ呼んでいる。
「た、け……」
「た、け……」
「た、け……」
その声に押されるたび、胸の中の綱がきしむ。
名そのものが抜かれていくわけじゃない。けれど、返事をしてしまえばそこから全部を持っていかれる――そんな確信だけが、ぞっとするほどはっきりあった。
「健彦、本名を言え!」
ラミエが鋭く叫ぶ。
俺は息を吸う。喉が乾く。
それでも、声を出した。
「千早健彦!」
その瞬間、胸の綱がぴんと張った。
群れの声がほんの一拍だけ乱れる。
「た……」
「け……」
「た、……」
ばらけた御幣の紙が、その隙をもっと広げるようにまた打ち鳴らされる。
「保てるか、ラミエ!」
オイゲさまが言う。
「広がるのは止める! でもこれ以上は閉じきれません!」
「それでえい、今は留めえ!」
彼岸の社――名求院は、藤の帳の奥で静かにこちらを見ていた。
目があるわけじゃない。
なのに、社そのものが“名を求めている”のが分かる。
社の前に立つ者から、答えの代わりに名を受け取ってきた場所。そんな古い飢えみたいなものが、空気の底から滲み出していた。
赤い目がいっせいに光った。
次の瞬間、烏羽玉が襲いかかった。
一羽が低く滑空し、俺の顔の高さで嘴を鳴らす。
加多奈切を抜き、反射的に払う。木の刃が黒い羽を裂く。手応えはある。だが切られたはずの一羽は、ただの烏みたいにばさりと落ち、その代わりに別の枝の個体の目が赤く燃えた。
「替わり身か……!」
ラミエが歯噛みする。
別の一羽が今度は横から来た。
ヒエンが吠え、飛びついて弾き落とす。だが落ちた個体から赤みは消え、その瞬間、藤棚の奥の影がもう一羽へ移る。
また替わる。
また、別の一羽が来る。
「た、け……」
今度は真上から。
羽音より先に、声が落ちる。
その声を聞いた瞬間だけ、自分の肩幅が自分のものでなくなるような不快さが走った。加多奈切を振るう。木の刃は羽根を打つ。だが終わらない。
一羽払えば、別の烏に“中身”が移る。
ヒエンが噛み払っても、ラミエの御幣が輪郭を崩しても、完全には止まらない。
「きりがない……!」
俺が吐き捨てるように言うと、オイゲさまが一度だけこちらを見た。
「あたりまえじゃ。あやつは一羽やない」
その声に、三羽、五羽、七羽と同時に飛びかかる。
俺は加多奈切を振り、ヒエンは俺の足もとへ降りた個体を追い払い、レイアは紐を通じて俺の体を此岸へ引き止めながら、低い声で祭文を切らさない。
「結べ、留めろ、散らすな、返すな――」
だが群れは増える。
いや、増えているのではない。見えている数より、宿っている意志のほうが多いのだ。
ラミエの御幣がまた空を切る。
白い紙の力で、群れの輪郭が乱れる。赤い目の並びが一瞬ぶれ、ひとつの大きな意思だったものが、群れとしてばらける。けれど、ばらけるだけだ。消えない。すぐまた集まり、別の枝、別の嘴、別の羽に宿り直す。
「群れ替えしゆう!」
ラミエが叫ぶ。
「個体を落としても意味がない、宿り先を替えるだけだ!」
「じゃあどうすればえいが!」
レイアが返す。
その瞬間、別の一羽が俺の右肩を掠めた。爪が当たったわけではないのに、そこだけ薄く自分でなくなる。俺は思わず息を呑み、左手の紐を掴んだ。
ヒエンが唸り、黒い影へ飛びつく。
爪を立て、牙を立て、枝から叩き落とす。だがその個体の目はただの黒に戻り、別の位置の烏がまた赤く燃える。
「健彦!」
ラミエが叫ぶ。
俺は加多奈切を振るい、低く来た一羽の翼を払った。
その瞬間、オイゲさまが吐き捨てるみたいに言う。
「ほんに嫌なもんじゃの」
その声音には、ただの怪異への嫌悪ではない、もっと古い感情があった。
「あやつらは水辺には寄れん。羽が重うなるき。やき、わしのほうへは露骨に逆らわん。けんど好かん。好かんのう、あの暮れの臭いは」
オイゲさまはそう言って、名求院のほうを睨んだ。
「聞け、健彦。あやつらは、ただの烏の怪ではない。‟烏の群れ”に宿った黄昏の眷属じゃ」
加多奈切を構えたまま、俺は息を呑む。
「烏羽玉とは、あやつの真の名ではない。夜神によって被せられた、片名よ」
「片名……」
「本当の名の上に被せられた、仮の輪郭じゃ。人にも怪異にも、それで形を与える。呼ばれるほど縁が太り、此岸へ帰る道は細うなる。名を忘れるがやない。呼べる、けんど違う名が残る。そうやって、あやつは此岸へ食い込む」
別の一羽が来る。
払う。
また別の一羽が来る。
切ったはずの気配が、別の羽音に移る。
「塞がれた片名しか持たんき、群れを替われる。個のまま留まらず、どの烏へも移れるがよ」
「じゃあ、どうやって止めるんだよ!」
「群れをいくら払うても駄目じゃ。断つがは烏の羽やない。真の名へ食い込んだ、その片名じゃ」
黒い影がまた頭上を掠める。
ヒエンが吠え、俺は反射で加多奈切を振るった。
だが手応えの向こうで、赤い目はもう別の枝へ替わっている。
オイゲさまの声が、鋭く落ちた。
「真名とは、そのものがそのまま在るための名じゃ。真名を知ること、呼ぶことは、相手の輪郭を定めることになる。封の取っ手にもなる。逆に、強い結びにもなる」
その言葉は、雷みたいに胸へ落ちた。
「加多奈切で片名を断てば、真名が露わになる。そうなって初めて、あやつはひとつの形に定まる。群れ替えも逃げも出来ん。そこまで追い込んで、ようやく封じられる」
片名。
真名。
俺の名の端が啄まれるだけじゃない。
向こうもまた、片名でしか此岸に食い込めないのだ。
「でも、見えん!」
「見えるようにする」
オイゲさまはそう言うと、足もとの苔へ片手をかざした。
空気がわずかに湿る。
朝露の残り、土の中の滲み水、藤の葉の裏に溜まった湿気、名求院の周りで冷えた空気に宿る見えない水の気配――それらがいっせいに、ひとところへ寄せられるのが分かった。
「ラミエ、もう一度輪郭を崩せ!」
「分りました!」
御幣が振られる。白い紙が群れを切る。
赤い目の並びがまた一瞬乱れる。
「レイア、結びを強めえ!」
「名古さま、御名を借ります!」
レイアは俺の手首の紐を引き、祭文の声を低く深くする。
「白金淵の名古さま、白金淵の名古さま、
霧を御衣、水を御座として坐す御主。
あわいに現れし院の形、留め給え。
散らすな、替えるな、影を移すな。
断つべき名の露わるるまで、
その輪郭、ここに在れ――」
名を護る水竜の神気に、周囲の湿り気が増した。
梢の上で、羽音が変わる。
さっきまで乾いて鋭かった羽ばたきが、少しだけ鈍くなる。
オイゲさまが冷たく笑った。
「そうじゃ。水が近いと、よう飛ばんろう」
群れ替えの速度が落ちた。
完全には止まらない。けれど、替わる瞬間が見える。赤い目が移る、その半拍の隙が生まれる。
その隙に、群れの奥で何かが集まり始めた。
梢に散っていた黒が、一つの影へ寄る。
二つ鳥居の上、藤棚の奥、社を囲む木々の高みから、ばらけていた赤い視線が吸い寄せられていく。群れで替わり続けるより、一つの形を取るほうがましだとでも言うように。
風が重くなった。
黒い影が、社の前へ降りた。
一羽の、大きな烏だった。
羽根を広げると、三メートルを軽く超える。
濡れてもいないのに艶が強い。黒曜石を何千枚も重ねたみたいな羽根だった。朝の薄光も、彼岸の鈍い闇も、その表面では同じように冷たく滑る。目は群れの赤より深く、古い血を水で薄めたような暗い朱をたたえている。
嘴だけが、わずかに白く欠けていた。
真っ黒な中で、そこだけが骨みたいに白い。
噛み割れたのではない。
何度も、何度も名を啄んできた、その痕跡だった。
そう直感して、背筋が寒くなる。
大烏は二つ鳥居のあいだに立った。
群れのざわめきが一斉に静まる。名求院の社も、それを迎えるみたいに黙った。
「……名求院廿咫烏。それがあやつの真名じゃ」
オイゲさまが低く言った。
名を喰らう、二十咫――およそ三メートルもの大烏。
大烏は首を傾けた。
こちらを見ている。
でも、俺たち全員ではない。俺だけを見ている。
それが分かった瞬間、胸の綱がひどく冷えた。
廿咫烏の喉が、ゆっくり鳴る。
人の声ではない。烏の声でもない。
そのあいだにある、呼ぶためだけに研ぎ澄まされた音だ。
「……名を返して欲しいか」
今度は端だけではなかった。柔らかい呼び方のかたちを保ったまま、もっとはっきりと俺へ届く。
レイアの指が紐を強く引いた。
「答えたらいかん!」
廿咫烏はその声を無視して、俺だけを見ていた。
「ならば、代を出せ」
濁った声だった。
けれど意味ははっきり分かった。
オイゲさまが低く吐き捨てる。
「健彦、騙されるな。契りも結ばず、あやつは先に啄んだ。供物あっての対価じゃ。祀られたものは、その掟に逆らえぬ」
喉が乾いていた。
それでも言えた。
「断る。返せ。おまえのものじゃない」
廿咫烏は、白く欠けた嘴をわずかに開く。
それは笑ったみたいにも、飢えたみたいにも見えた。
「啄んだは、たかだか呼び名ひとつじゃ。寄越せば、おれが境を保つ術を授けてやろう」
群れの声ではない。
一羽の声だった。
それがよけいに恐ろしい。
俺は答えなかった。
その沈黙に、廿咫烏の目が細くなる。
「――忌々しい。代なくば、名は返さねばならん」
廿咫烏の黒い翼がわずかに震える。そのたびに黒曜石みたいな羽の一枚一枚がきしみ、朝の湿りに少しだけ重く沈む。
さっきまでの尊大な静けさが、そこで初めて乱れた。
代を取れぬ。
契りも結べぬ。
ならば返さねばならない――祀られた神としての理は覆せない。
もう一度、俺は言った。
「名求院廿咫烏、俺の名を返せ。契りもないのに啄んだものは、おまえのものじゃない」
廿咫烏の目が、ひどく暗く細くなる。
怒りというより、掟に追い詰められたものの冷たさだった。
嘴が、ゆっくり開く。
喉の奥に、夜より黒いものが見えた。
そこから、声とも息ともつかぬものがひと筋、細く引き出される。黒い糸みたいにも、濡れた煙みたいにも見える。けれど、それが何かは一目で分かった。
呼び名だ。
ただの音ではない。
人に近しく触れるためだけに柔らかく削られた名の端。
俺が此岸で、気を抜いた時にだけ返事をしてしまうような呼ばれ方のかけらが、廿咫烏の喉奥から細く細く引かれてくる。
群れのあちこちで、赤い目がいっせいに揺れた。
「た、け……」
最後の名残みたいに、梢の上で声が漏れる。
そのたびに糸は少しずつほどけ、白く欠けた嘴の先へ集まってくる。
ラミエの御幣が、名求院と廿咫烏のあいだを断つように振られる。紙の白が闇に走るたび、廿咫烏の輪郭がわずかにぶれた。群れ替えを起こそうにも、御幣が輪郭を乱し、水気が羽を重くしている。
「健彦! 輪郭が出てる!」
俺は廿咫烏を見る。
その黒い体のどこを切ればいいのか、最初は分からなかった。羽でもない。喉でもない。嘴でもない。けれど次の瞬間、白く欠けた嘴から、名求院の奥へ、一本の黒い線が伸びているのが見えた。
名の線だ。
廿咫烏が啄み集め、夜神に塞がれた片名の、その綻び。
完全な真名ではない。だが、そこへ繋がるたった一つの口が、欠けた嘴の白に引っかかって見えた。
「見えた……!」
俺が呟く。
廿咫烏の目が変わる。
今度は明らかに、こちらを殺そうとする目だった。
飛ぶ。
重い羽音が落ちる。
さっきまでの群れとは比べものにならない圧で、黒い塊が一直線に来る。
ヒエンが吠え、俺の前へ飛び出した。
正面からではない。少し横へずれて、低く、廿咫烏の左の脚へ噛みつく。ほんの一瞬だけ、その巨体がぶれる。
その隙にレイアが紐を引いた。
「健彦!」
ラミエの御幣が白く閃く。
オイゲさまが叫ぶ。
「嘴じゃ! その白を断て!」
俺は加多奈切を振り上げた。
斬るためじゃない。混ざったものを分けるための刃。
此岸へ食い込んだ片名と、彼岸の奥に塞がれた真名のあいだへ、一本の線を入れるための刃。
廿咫烏が嘴を開く。
その白い欠け目が、はっきり見える。
振り下ろした。
乾いた音はしなかった。木が肉を打つ音でも、骨を砕く音でもない。
薄い紙を、水の上で切るみたいな感触が手に返った。
その瞬間。
「た、――」
無数に続いていた呼び声が、途中で切れた。
廿咫烏の体が大きくのけぞる。
白く欠けた嘴のところから、黒い線が一気にほどけた。二つ鳥居の上、藤棚の奥、梢のあちこちに散っていた赤い目がいっせいに揺らぎ、烏たちがただの烏の重さへ戻って落ち始める。
群れ替えが、止まった。
名求院の輪郭が波打つ。
真っ直ぐだった二つ鳥居が再び歪み、黒い帳みたいだった藤の影が、ただの藤棚の濃い葉へ戻っていく。彼岸の社は、此岸の廃れた社の奥へ押し戻されたように薄くなった。
「今じゃ、閉じよ!」
オイゲさまの声に、ラミエとレイアが同時に応じる。
ラミエの御幣が、最後に一度、強く境を打つ。
レイアの祭文が、今度は留めるのではなく送り返す響きへ変わった。
「上の水は上へ返り、
中の水は淵へ還り、
下の水は川となりて流れよ。
此岸は此岸のまま、彼岸は彼岸のまま、
留まるべからざるものは、行くべき処へ帰れ――!」
オイゲさまが片手を上げる。
足もとの苔、葉裏の露、名古の銀次郎に借りた水の理が、最後のひと押しのように名求院の前へ寄せられる。
空気が、すとん、と落ちた。
押し寄せていた彼岸の薄闇が引く。
蝉の声が戻る。
夏の熱がじわりと肌へ帰ってくる。
目の前に残っていたのは、傾いた二つ鳥居と、藤に呑まれた廃社だけだった。
梢には、ただの烏が何羽か荒く息をするみたいに羽を震わせている。赤い目はもうない。
俺はその場へ膝をついた。
手の中の加多奈切は、またただの木刀の重さに戻っていた。
胸の綱はまだ消えていない。けれど、さっきまでのきしみは止まっている。
ヒエンが戻ってきて、俺の膝へ鼻面を押しつけた。
荒い息が熱い。耳の先に、黒い羽根が一本だけ絡んでいた。
「……終わった?」
息の上がった声で、俺が訊く。
ラミエはすぐには頷かなかった。
御幣を下ろし、二つ鳥居と社を見比べ、それからようやく言う。
「閉じた。少なくとも、これ以上広がる形じゃない」
レイアは紐を握ったまま、しゃがみ込む。
俺の顔を覗き込み、何かを確かめるみたいにしばらく黙った。
それから、堪えきれなかったみたいに、小さく言った。
「……たっけ」
その呼び方が、今度は痛くなかった。
柔らかいまま、ちゃんと此岸の声として届いた。
俺はゆっくりそちらを見る。
「うん」
レイアの目が、一瞬だけ濡れた。
でも泣きはしなかった。代わりに俺の手首の紐をもう一度だけ確かめて、乱暴なくらいの手つきで結び目を締め直した。
オイゲさまは、廃社の奥をまだ見ていた。
「黄昏は押し戻した」
ぽつりと言う。
「けんど、夜が尽きたわけやない。あれは眷属、封じ直しただけじゃ」
俺も社を見る。
藤棚の奥は、ただ暗かった。
けれど、もうさっきみたいに名を吸われる感じはしない。
それでも胸の綱が残っている以上、完全に元へ戻ったわけでもないのだろう。
ラミエが低く息を吐いた。
「タケの名は戻ってきた。……これで終わりだといいけど」
その言葉に、誰も軽々しく頷けなかった。
夏の蝉時雨が、ようやく森の上へ戻ってきていた。
さっきまでの静けさが嘘みたいにうるさい。
なのにその喧しさの底で、俺はまだ、あの白く欠けた嘴の像だけをはっきり覚えていた。
名を啄んできた痕。
あれは消えていない。
ただ、今は向こうへ押し戻されただけだ。
俺は胸に手を当てる。
千早健彦。タケ。
今度は、ちゃんと自分の声として返ってきた。
そのことだけが、その時はひどくありがたかった。




