第七話 霧の銀次郎
白い彼岸の淵で、霧の男がゆっくりこちらを振り向く。
銀の目が、まっすぐ俺たちを映した。
そこで世界が、もう一度、深く息を吸った。
男はすぐには何も言わなかった。
ただ立っているだけなのに、こちらが見られているというより、名を確かめられているような感覚があった。視線が肌に触れているわけじゃない。もっと内側――胸の骨の裏とか、喉の奥とか、自分でも形にできないところを、静かな水が探ってくるみたいだった。
ヒエンが俺の踝に身体を寄せる。唸りもしない。ただ、押しつける体温だけが、此岸のものとしてやけにはっきりしていた。
男の足もとで霧が流れる。白い水面を這うその薄靄は、風に動かされているんじゃない。男の呼吸に合わせて寄ったり離れたりしているように見えた。川と霧と人の形が、まだきれいに分かれきっていない。
やがて、胸の奥に染みるような声がした。
「よう来たのう、神母。……それと、人の子が彼岸へ渡るがは久方ぶりよ」
その声には驚きも警戒もなかった。
ずっと昔から、来る者と帰らぬ者の両方を見てきたものの声だった。
オイゲさまが一歩進む。
「久しいの、銀次郎」
男はそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。けれどその表情は、次の瞬間には霧の薄さへ紛れて分からなくなった。
「わしは霧の銀次郎。この淵に名を繋ぎ留められ、忘れられず、川霧そのものとして在るもんじゃ」
人の姿をしている。
しているのに、半分はもう人ではない。
そのことが、見ているだけで分かった。
俺は思わず喉を鳴らした。
このひとは立っているんじゃない。淵がこの姿を借りて、俺たちと話そうとしている。
レイアが半歩だけ前へ出かけて、すぐに止まった。
礼をしそうになったのだと分かる。ラミエも同じことに気づいたらしく、視線だけで制した。ここでは此岸の作法を持ち込まないほうがいい。それを誰も口にはしないけれど、もう身体のほうが覚えはじめていた。
銀次郎の目が、俺へ向く。
その瞬間、喉の奥がきゅっと狭くなった。
見透かされた、と思った。昨夜、大楠の裂け目の前で、自分の名前が一瞬だけどこか遠いものになったあの感覚まで。
「……昨夜、おまんのところで何があった」
歓迎でも拒絶でもない声だった。
ただ、知っている者だけが持つ静かな確信があった。
オイゲさまが俺の少し前へ出る。
「楠が裂けた。境が揺れゆう。わしの側だけでは、今は押さえきれん。この人の子の名も、少しずつ向こうへ寄りゆう」
銀次郎はすぐには返さなかった。
白い淵をひと目見やる。その横顔を見た時、俺はなぜか、このひとの身体には川上から流れてくる水だけじゃなく、もっと古い時間まで通っている気がした。洪水の音も、祈りの声も、淵へ沈んだ石の重みも、この人の奥に沈殿している。
ラミエが深く息を整えた。
「御淵の名古さま。どうか力をお貸しください。お神母さまだけでは、もう境を押さえきれないんです」
銀次郎は責めなかった。
ただ、しばらく黙っていた。
その沈黙は気まずいものじゃない。川が次の一滴を落とすまでの間みたいに、どうしても必要な静けさだった。
「……此岸では、まだわしの話が残っちゅうか」
不意にそう訊かれて、誰もすぐには答えられなかった。
最初に口を開いたのはオイゲさまだった。
「残っちゅう。竜になった男の話としてのう」
銀次郎は目を伏せた。
白い霧が、彼の足もとでひと息ぶんだけ濃くなる。
「そうか。まだ、そう語られちゅうか」
その声音には、嬉しさも、寂しさも、どちらもあった。
けれどどちらか一方には決められない。長く長く呼ばれ続けたものだけが持つ、乾いたあたたかさみたいなものだった。
「この淵には、もともと名もなき竜神さまが坐しちょった。遥か昔から物別の川を、幾度となく溢れさせてきた荒魂じゃ」
銀の目が、ほんのわずかに伏せられた。その奥を、もう誰の声も届かないような深い水の色が過ぎた。
「古人は竜神さまを恐れて、長いあいだ川に手をよう加えなんだ。けんど、徳川の御治世になって堤を造ろうとして……その逆鱗に触れてしもうたがよ」
ラミエが慎重に言葉を継ぐ。
「矢間堰のことも、今でも伝わっています。あなたは、竜神のお告げを代官に告げたけれど信じてもらえず、この淵に沈められた――と」
銀次郎は、すぐには答えなかった。
遠くで滝は落ちつづけているはずなのに、その音さえここには届かない。白い彼岸が、ひとつの大きな耳になって彼の声を待っているようだった。
やがて銀次郎の口もとが、ごくわずかに動いた。
笑ったというより、昔そういう顔をする人だったことを思い出した、というような動きだった。
「そんな代官なぞ、最初からおらん」
ラミエが小さく息を呑む。
「……違うんですか」
「違うとも言い切れん。そういう話にしたほうが、人は眠りやすいきのう」
静かな声だった。
静かすぎて、逆に耳をそらせない。
「川は荒れた。堰は流れた。魚は遡れん、水は荒ぶる、田は乾く。村は困った。……それで、わしが選ばれた」
白い彼岸の空気が、そこで一段冷たくなった気がした。
「惣の寄合での。人身御供じゃ。荒魂の名もなき竜神さまへ“人の名”をやるために、わしはこの淵へ沈められた」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
俺は自分の胸元を掴んでいた。
名をやる。
名を与える。
そうして荒ぶるものを、人の世に留める。
理屈は分かる。分かってしまう。今の俺は、それがただの昔話じゃないと知ってしまっている。
「泣いた者もおったろう。止めようとした者も、おったかもしれん。“人の銀次郎”でのうなったわしにはもはや思い出せん。――けんど結局、皆で差し出した。川を鎮めるために」
その言い方に恨みはなかった。
だからこそ余計に、冷たかった。
「淵でウナギを返す時に“銀次郎”と三度呼ぶがは、わしを悼むためやない。竜神さまがもう一度、名無しの荒ぶる神へ戻らんよう、名を繋ぎ留めるためじゃ」
レイアの指がぴくりと動いた。
白い髪紐を握る手に、見て分かるほど力が入る。
「……繋ぎ留めんと、駄目なんだ」
小さな声だった。
誰に向けたともつかないその呟きへ、銀次郎はすぐには返さなかった。ただ一度だけレイアを見た。その目は責めるでも慰めるでもなく、同じことを知っている者の目だった。
ラミエが、少し硬い声で問う。
「名で繋ぐ、というのは……神を人の側へ縛る、ということですか」
「縛る、で合う時もある。守る、で合う時もある」
銀次郎は言った。
「名を与えるがは、形を与えることじゃ。呼ばれつづければ、そこへ在りつづける。呼ばれなんだら、ほどける。神も、人も、さほど変わらん」
俺は思わず口を開いた。
「俺も……そうなるのか」
三人の視線がいっせいにこちらへ向く。
でも、止められなかった。
「名前が薄くなるって、そういうことなのか。誰にも呼ばれなくなって、自分でも自分を掴めなくなって、どこかへほどけていくみたいな――」
最後まで言えなかった。
喉の奥が、昨夜と同じようにざらつく。
銀次郎はじっと俺を見た。
その目は淵の銀で、同時に人の目の色でもあった。
「おまん、昨夜、名が揺れたろう」
俺はゆっくり頷く。
「……自分が、自分の外側へ滑るみたいで」
「そうじゃろうの」
責めるでも、憐れむでもない声だった。
「名を忘れられるがは、死ぬよりもしんどい」
その言葉は叫びみたいに強くはなかった。
なのに胸の真ん中へ、冷たい針みたいに深く沈んだ。
レイアがそっと俺の袖を掴み直す。
そこにいるかを確かめて、固定するみたいな掴み方だった。
オイゲさまが頭を下げる。
「銀次郎。健彦の名を、水際へ落ちんよう支える綱を貸してほしい」
長い沈黙が落ちた。
白い水面は揺れず、霧も流れない。
彼岸そのものが答えを待っているみたいだった。頼む、とは言えない。礼も、願いも、この場では下手に口にしないほうがいい。それを頭ではなく、身体のほうが知っていた。
やがて銀次郎はごく小さく頷いた。
「……えいろう。わしは“名護”の銀次郎。人の子ひとり、繋ぐぐらいは出来る」
そう言って右手を上げる。
指先から細い霧が伸びた。糸のように細いのに、銀の光を含んで消えない。その一本が、俺の胸元へ寄ってきて、触れる寸前で止まる。
思わず身を引きそうになるのを、レイアの指先が袖口で止めた。
ラミエも息を殺して見ている。
「ただし、これは借りもんじゃ」
銀次郎の声が少しだけ低くなる。
「結び直すまでは、夜ごと名を確かめえ。怠れば、細うなって切れる」
「結び直すって、どうやって」
俺が訊くと、銀次郎は川上のほうへ顔を向けた。
霧の向こう、白い崖のさらに奥。見えないはずの気配が、そこだけ黒く沈んでいた。白い彼岸の中で、その暗がりだけが光を受けつけない。
「辺土ヶ森」
その名を口にしただけで、ヒエンが低く喉を鳴らした。
尾は下がったまま、背の毛がわずかに逆立つ。
「境が緩んで黄昏の影が、あの森で騒ぎだした。名と光を啄むもんらが、森の縫い目をつつきよる。楠が裂けた今、次に薄うなるがはあの森じゃ」
俺はその森を見ていないはずなのに、喉の奥で黒い羽音みたいなものを想像してしまった。
何かが、木々のあいだからこちらを見ている。顔はない。ただ、目だけがたくさんあるような、そんな嫌な気配。
「森へ入るなら、加多奈切をむやみに振るうな」
銀次郎が続ける。
「あれは境を分ける。じゃが、縫い目の上で振るえば、開かんでえい門まで起こす」
手の中の木刀を見る。
ついさっきまで、これさえあれば何とかなる気が、ほんの少しだけしていた。けれど今は違う。力があるものほど、使い方を誤れば穴を広げる。そういう道具なのだと分かる。
銀次郎の指先から伸びた霧の糸が、俺の胸へ触れた。
冷たい。
冷たいのに痛くはなくて、ただ水をひと口飲み込んだみたいな感覚が胸の内側へひろがっていく。鎖骨の下から胸骨の裏を通って、心臓のあたりへ細い銀の線が一本だけ張られる。
その瞬間、忘れかけていたものがいくつか戻ってきた。
夏の陽に焼けた石段の熱。
家の台所で母さんが味噌汁を温める匂い。
子どもの頃、物別川で足を滑らせて、慌てて水から這い上がった時の泥の冷たさ。
そして、自分の名前。
千早健彦。
今度は、すぐ思い出せた。
呼べばちゃんと内側で返ってくる。遠い井戸の底じゃなく、今ここにある声として。
けれどそれは、完全に自分のものへ戻った感じじゃなかった。
胸の中に一本、借り物の糸が通っている。その糸に寄りかかって、どうにか輪郭を保っている。助かった、というより、猶予をもらっただけだと分かる。
思わず顔を上げると、銀次郎がわずかに首を振った。
「礼はいらん。彼岸で人が神に礼を言うたら、縛られる」
口をつぐむ。
本当に、この場は此岸の作法が通じない。
銀次郎の輪郭が、もう霧にほどけはじめていた。
肩の線が薄くなり、腕が水面の靄と混じっていく。それでも目だけは最後まで人のものだった。
「人の子らよ。川を渡る時は、自分の名を忘れるな。名を持つがは、此岸へ帰るためじゃ」
オイゲさまが一歩退き、帰り道のほうを振り返る。
ラミエが、ほどいて通した門の筋を目で確かめる。
「帰ろう、たっけ」
レイアの声が、遠くから引っ張るみたいに届く。
俺は頷き、もう一度加多奈切を握った。
帰りの一太刀は、行きより軽かった。軽いのに、背中の向こうで森みたいな暗がりが一瞬だけこちらを向いた気がした。視線というほどはっきりしていない。ただ、何かが“こっちを知った”感じだけが残る。
霧の幕を抜けたとたん、真夏の蝉時雨が一気に耳へなだれ込んだ。
熱い。
眩しい。
滝の音がうるさい。
白金淵の川面は銀に光り、崖の緑は濃く、さっきまで薄くなっていた世界の輪郭が一気に此岸の手触りへ戻ってくる。
けれど、完全に戻ったわけじゃない。
胸の内側の糸が、時々ひやりと震える。そのたび、彼岸の白さがまだどこかでこちらへ触れていると分かる。
膝が少し笑った。
ヒエンもようやく一度だけ小さく吠え、それから俺の足元へまとわりついた。
ラミエは草の上に膝をつき、深く息を整える。
レイアがすぐに白い髪紐をほどき、門のあったあたりへ結ぶように手を払った。
白き緒にて結び鎮める。
結びて閉じよ、道を鎮めよ。
ひらきし門は今ここに伏し、
漏れし気配は川霧の底へ沈めよ。
借りし名は散らさず、ほどかず、
水は水へ、人は人へ、
此岸の子を此岸へ返し給え。
白い霧は、何事もなかったみたいに水面へ沈んだ。
それでもヒエンだけはじっと、川向こうの西の方角を見ていた。辺土ヶ森のある方角だ。耳を伏せ、尻尾を下げ、喉の奥だけで小さく唸っている。
風が止まる。
その一瞬だけ、蝉の声が森の手前で切れた。
誰も何も言わなかった。
言わなくても分かる、という顔だった。
俺は胸に手を当てた。
名は、まだある。銀次郎が貸してくれた冷たい糸が、たしかに内側に通っている。
なのに、辺土ヶ森のほうを見た瞬間、その糸の先がもっと黒い何かに触れそうな気がした。
名を守るだけじゃ足りない。あそこへ行かなければ、いずれまた掠め取られる。
オイゲさまが麦わら帽子のつばを押さえ、森の方を見たまま言う。
「黄昏は、もう近いの」
白金淵の水面が、眩しいほど白く光っていた。
その白さの向こうで、森だけが、まだ何も返してこない暗がりのまま黙っていた。




