第六話 御淵の名古さま
『地頭野民俗資料集』より――「竜になった男の話」
むかし、江戸の世の初めごろ。神見の里では新田を拓くため、物別川に堰を築くことになった。ところがこの堰、形ができかけるたびに川が荒れ、石も木も根こそぎ押し流してしまう。三度挑んで三度流され、里人は途方に暮れた。
そんな折、里の銀次郎という若者が、上流の白金淵で釣りをしていたところ、腕ほどもある大ウナギがかかった。驚く銀次郎の前で、大ウナギは口を開き、人の言葉でこう告げたという。
「わしは白金淵の竜神さまの使いじゃ。おまんらが造りゆう堰は、上流に寄りすぎて魚が昇れん。川は詰まり、いずれ水は怒りとなって返る。もっと下流へ据えよ、と竜神さまが申されゆう」
銀次郎はこれを神のお告げとして奉行所へ伝えた。だが代官は信じず、かえって怒った。
「お上の治水に口出しとな! ならばお前がその竜神に“逆らうな”と言うてこい!」
そう叫ぶと銀次郎を縛り、あろうことか白金淵へ投げ込んでしまった。銀次郎は深い淵へ沈み、里人が総出で探しても見当たらなかった。
――そして数日後。堰は代官の思惑どおり完成し、河原で祝儀の席が設けられた。
そのさなか、霧がふわりと立ち、川面の向こうが薄い膜をかぶったように白んだ。次いで空がみるみる黒く曇り、雷鳴が山を揺らした。
次の瞬間、上流から川そのものが走り出すような大波が押し寄せ、堰は一息で砕け散った。代官ごと石も木もすべて下流へ押し流され、村人が呆然として波間を見送ると、白金の光がひとすじ揺れた。それは、白金の竜の背にまたがった銀次郎の姿であったという。
竜は川を滑るように進み、砕けた堰の残骸を抱えるようにして、流れの曲がりの“溜まり”へ押し寄せた。木石はそこで折り重なり、水の勢いを受けて自然と形を整え、いつしかひとつの堰になっていった。
「矢間堰は、こうして川自身が選んだ場所に、竜神の力で据えられたのだと語り継がれている」
それから白金淵には戒めが残った。白金淵でウナギを釣ったら、欲で持ち帰ってはならぬ。
ぎんじろ、ぎんじろ、おふちのなごさま。
ぎんじろは、おるろうか。
この子を返す。名を忘れたもうな
これを三度唱えて、必ず水へ返す。銀次郎の名を無下にすれば、霧が立ち、川は荒れ、堰も流される――そう言うて、年寄りは子どもを淵へ近づけさせなんだそうな。
◆
昼前の片桐神社は、夏休みのくせに人影がなく、境内いっぱいに蝉の声だけが張りついていた。
石畳は陽を返して白く、拝殿の屋根はじりじりと焼けて見える。空は高く晴れているのに、社殿の脇に立つ大楠のあたりだけ、空気が妙に重かった。そこで風が止まり、音が沈み、陽ざしの色まで違って見える。
俺は自転車の脇に立ったまま、その裂けた幹を見上げた。前かごのヒエンも前足を縁にかけ、じっと同じものを見ている。
喉の奥が、勝手に狭くなる。
昨日も見た傷だ。見たし、触れもした。雷に裂かれた――そう言ってしまえばそれまでのはずなのに、どうしてもそうは見えない。黒い裂け目の奥が、木の中じゃなく、別の暗がりへ続いているように見える。しかも、その暗がりは向こうにあるだけじゃない。俺のほうを見返してもいる。
昨夜、あの裂け目の前で、自分の名前が一瞬だけ遠くなった。
千早健彦。
そう思ったはずなのに、それが誰の名前だったのか分からなくなりかけた、あの嫌な感覚がまだ喉の奥に残っていた。
「ほら、たっけ、行くよ。白金淵まで三十分はかかるんだから」
背後からレイアの声がした。振り向くと、レイアはもう自転車をこちらへ寄せている。珍しく、ふざけた調子のない声だった。
その荷台には、白いワンピースに麦わら帽子をかぶった少女が横向きに座っている。
見た目だけなら、近所の家から遊びに出てきた子どもにしか見えない。膝の上で指を組み、帽子のつばを押さえる仕草なんか、年相応にしか見えない。けれど、その子がそこにいるだけで、まわりの空気の重なり方が少し変わる。肌に触れる温度の層が増えるみたいに、見えない水の膜が一枚、景色の上にかぶさる。
――オイゲさま。
片桐神社の池と大楠に宿る守神。
ついこの前までなら、そんな呼び名は年寄りの言う昔話の中にしかなかった。水神だの、祟りだの、向こう側だの、そういうものは“信じる信じない”の外側にあると思っていた。けれど今は、その“外側”が当たり前みたいな顔で、俺たちと一緒に山道へ行こうとしている。
ラミエも自転車を止め、長い布袋を肩から降ろした。中には御幣や榊、注連縄、紙包み――見るからに神社の道具一式が入っている。
「タケ、行こう。少しずつ“名”が薄くなりゆう。立ち止まってる時間はないよ」
それを言うラミエの顔はいつもどおり整っていたけれど、目の奥だけが全然いつもどおりじゃなかった。冷静に見えるのに、そこだけ妙に張り詰めている。
「……なあ」
俺はもう一度、大楠の裂け目を見た。
「本当に、あそこまで行けば何とかなるのか」
「何とかするしかないよ」
レイアが短く言った。
「お神母さまだけじゃ今は押さえきれん。御淵の名古さまに、境の封が緩んだことを知らせる。たっけの名も、水際へ落ちんよう支えてもらう」
「それを、白金淵の……水神さまが?」
「うむ」
オイゲさまがあっさり頷く。
「白金淵は物別の境の要じゃ。わしの側だけでは今は力が薄い。あやつの力を借りる」
そう言って、帽子の影からじっと俺を見上げてくる。
子どもの顔だ。なのに、その目だけは池の底みたいに深い。
「健彦、まだ名の縁を強う持っちゅう。じゃが、一度向こうに掠られた。放っておいたら、次は掴まれる」
胸のあたりが冷たくなる。掴まれる、という言い方が、あまりにも感触を伴っていた。
ヒエンが低く鼻を鳴らした。
俺はそれ以上何も言えず、自転車にまたがった。
砂利を噛む音を立てて、三台がいっせいに境内を出る。
背後で蝉がわっと鳴き立ち、その音に押されるみたいに坂を下った。
◆
神社から出てしばらくは、いつもの見慣れた道だった。
民家の庭先に干された洗濯物。畑のきゅうりの棚。道端に積まれた肥料袋。自販機の前でだらける猫。夏休みらしい、少しだらけた昼前の景色。なのに、そのどれもが妙に薄い膜越しみたいに見える。昨夜からずっと、世界の手触りが一段ずれていた。
坂を上りきると、物別川沿いの土手に出た。陽を弾く川が山あいを縫い、両岸の緑は深い。吹き上げてくる風だけが、川水に触れてきたみたいに少しひんやりしていた。
「――なあ、レイアとラミエは、なんでそんなに平気なんだ?」
前を走る二人の背へ向かって訊くと、自分の声が思ったより掠れていて、少し驚いた。
レイアが前を向いたまま答えた。
「平気なわけないき、急ぎゆう」
その声も固かった。
「早うせんと、たっけが――」
「レイア」
ラミエが静かに遮り、それから少しだけ速度を落として俺の横へ寄った。
「この世界と神話の世界は、両方が重なってる。片方が見えてないだけ。こっちが此岸界、向こうが彼岸界。母さんが言ってたでしょ」
倉谷姉弟の母親――ヘルガさんは、アイスランド出身の研究者だ。神話とか宗教とか民俗とか、そんな話をいつもさらっと持ち出しては、どうしてか妙に分かりやすく説明する。
「僕らは小さい時から彼岸界を感じてた。神母の大楠も、神母池も、ただの木や水じゃなかったから。たから昨日、境の内からオイゲさまの声が聞こえた時も、驚きよりは腑に落ちたって感じかな」
「名前を知ってるからって、怖くなくなるわけじゃないだろ」
「ならないよ」
今度はレイアが答えた。
「でも、何が来るか分からんまま呑まれるよりは、まし」
風が吹いた。
川の匂いがした、と思った次の瞬間、その底に昨夜の裂け目と同じ湿った暗さが混じる。胸の奥がざわつく。
オイゲさまが荷台で帽子を押さえながら、川上のほうを見ていた。
「白金淵は、川の名と霧の名が寄り合う場所じゃ。人が名を失いかけた時、水はよう覚えちゅう」
「……どういう意味」
「水は流れるきのう。流れゆくものは、どこを通ったかよう知っちゅう」
分かるような分からないような返事だったが、その言い方だけは妙に胸に残った。
やがて道は細くなり、川に沿って山の影へ入りこんでいった。蝉の声は相変わらずうるさいはずなのに、耳に届く音だけが薄い。陽ざしは強いままなのに、肌に触れる空気だけが水底みたいに冷たくなっていく。
前かごのヒエンが、落ち着かない様子で何度も空気を嗅いだ。
そのうち、ふいに鳴きやんだ。
耳の片方だけがぴんと立ち、鼻先が上流を向く。
散歩の時の顔じゃない。
「……来たね。名古さまの御淵」
ラミエが小さく言う。
◆
道が大きく折れ、崖が迫った先で視界がひらけた。
白金淵は、断崖の影に抱え込まれるように、そこだけ川幅が深く落ちこんでいた。水は澄んでいるはずなのに底が見えず、真昼の陽を受けた川面だけが刃物の腹みたいな白銀を返している。崖の上から落ちる細い滝が絶え間なくその面を打っているのに、淵そのものは不気味なほど静かだった。
流れているはずなのに、そこだけ時間が薄く止まっているみたいに見える。
風が吹くたび、川霧が水際からするりと立った。真夏だというのに、その霧は朝の名残みたいに冷たく、白く、どこか人の息に似ていた。
俺は自転車を降りた。足をついた瞬間、地面が思ったより冷たくて、少しぞっとした。濡れた草の匂いと、石の匂いと、水の奥の匂いが混じっている。
ヒエンが低く唸る。 オイゲさまは荷台からひらりと降り、白金淵をまっすぐ見た。
「ここが境じゃ」
その一言だけで、景色がさらに静かになった気がした。
ラミエが布袋を地面に置き、濡れた草の上に膝をついた。中から榊と御幣、細い注連縄、それに白い紙包みを取り出す。塩だ。どれも慣れた手つきなのに、今日はさすがに少し早い。指先に力が入りすぎているのが見ていて分かる。
「入るのは淵そのものじゃない」
祭具を並べながらラミエが言う。
「門を叩く。水を渡るんじゃなくて、水際に寄せてもらう」
「同じじゃないの、それ」
「違うよ」
ラミエは顔を上げずに答えた。
「境っていうのは、神様の縄張りみたいなもん。それぞれに禁忌っていうのがある。白金淵は“入水”が禁忌。勝手に入れば、向こうから見ればこっちが礼を欠く。今日はお神母さまが案内を請う。僕らは、その後ろを通らせてもらうだけ」
その言い方が妙に生々しくて、俺は思わず水面を見た。
銀色の反射の下に、なにか大きなものが眠っているような気がした。
レイアは俺の横に立ち、白い髪紐を指に巻きつけながら、淵を睨んでいた。
「たっけ。絶対、勝手に前へ出んとってよ。呼ばれても、返事は一回。名前は、自分で三回、心の中で言うこと。忘れたらうちが引っ張るき」
その言い方は軽口みたいなのに、声は全然軽くなかった。
オイゲさまが滝の飛沫の届くぎりぎりまで歩み出た。麦わら帽子のつばの下で、あの子どもっぽい顔だけが妙に静かだ。
「ラミエ。まずは、解け」
ラミエが頷き、御幣をつけた榊を両手に持って、淵に向かって低く祭文を唱えはじめる。
白金淵の名古さま、白金淵の名古さま、
霧を御衣、水を御座として坐す御主。
上の水は上より降り、
中の水は淵に留まり、
下の水は川となりて
山は山へ、川は川へ、名あるものはその名へ。
境は破らず、ただ道のみをお貸し給へ。
此岸は此岸のまま、彼岸は彼岸のまま、
そのあわいに一条の道を垂れ給え。
――風が止んだ。
蝉の声はしている。しているはずなのに、急に遠い。耳の奥に薄い膜がかかったみたいに、世界が一枚、向こうへずれた。
霧が、水面からではなく、淵の底そのものから湧き上がる。
白いものがすうっと立ち、滝のしぶきとも靄ともつかない形で、俺たちと水面の間に細く垂れた。
「タケ」
ラミエに呼ばれて、俺は肩に掛けていた細長い袋へ手を伸ばした。
中にある木刀――加多奈切は、持つたびに変な感じがする。 軽い。木のはずなのに、手の中で重さの居場所が定まらない。握ったところから、掌の奥へ細い根が一本だけ潜るみたいだ。
オイゲさまは言っていた。
これは斬るためのものじゃない。分けるためのものだと。
人と人ならざるもの。此岸と彼岸。
重なりかけたもののあいだに、これ以上混ざるなと線を引く。
建依別が持つ“依り別ける力”を、ほんの少しだけ借りた刃。
斬るのは肉でも骨でもない。
名を呑みにくる暗がりの縁――片名だ。
「見えるかえ?」
オイゲさまが訊く。
俺は息を呑んだ。
霧の向こう、水面の真上に、細長い黒ずみがあった。最初は滝の影かと思った。けれど違う。あれは影じゃない。紙を爪で裂いた時みたいな、線とも隙間ともつかない暗いものが、空中に縫い傷みたいに浮いている。
見ていると、喉の奥がざらつく。
あの暗がりの向こうに、昨夜、俺の名前を掠めていったものと同じ匂いがした。
「そこじゃ。門を開いて彼岸へ行く」
オイゲさまの声と同時に、ヒエンが低く唸った。
片耳だけ立て、自転車のかごから跳び降りる。
俺は加多奈切を両手で握った。乾いた木肌のはずなのに、指の間だけ冷たい。
足を踏み込む。水際の石がぬるりと滑りそうになる。心臓が痛いほど鳴る。
振るう。
木刀は空気を切っただけだった。音もほとんどしない。なのに、一太刀のあと、黒ずみの周りだけがぴしりと白く割れた。
次の瞬間、世界がひとつ深く息を吸った気がした。
水面が鏡みたいに平らになり、その奥に、もう一枚の淵が見えた。
白い。
こちらよりも白く、静かで、底なしの鏡を伏せたような光。
霧が左右へ裂け、細い路ができる。
レイアが俺の袖を掴んだ。
引き止めるようでいて、確かめるみたいな力だった。
「たっけ。自分の名前、言って」
喉が乾く。
俺は心の中で、ゆっくり唱えた。
千早健彦。
千早、健彦。
千早、 健彦。
それでも、三度目だけ少し遠い。 その遠さに気づいた瞬間、胸の奥がぞわりとした。
オイゲさまが振り返る。
麦わら帽子の陰で、その顔だけがやけに澄んで見えた。
「行くよ。彼岸界に」
そう言って、先に一歩を踏み出す。
白い霧の路は、水の上にあるのに濡れていなかった。
踏めば沈みそうなのに、ちゃんと足を受ける。
おかしい。おかしいのに、どこがおかしいのか言葉にならない。
俺たちはその後ろに続いた。
霧の幕をくぐったとたん、肌に触れていた夏の熱が消えた。冷たい、というより、熱のありかが分からなくなる。
蝉は鳴いていない。滝の音も、川の流れも、全部一枚向こうで鳴っているみたいで、足音だけがやけにはっきりした。
彼岸の白金淵は、此岸と同じ形をしていて、まるで別物だった。
水は白銀ではなく、白い息の集まりみたいに見える。
崖も木もあるのに輪郭が薄く、近いものと遠いものの距離が狂っていた。踏みしめている地面さえ、濡れているのか乾いているのか分からない。
ヒエンは吠えなかった。唸りもせず、ただ尾を下げ、俺の踝に身体を寄せてくる。
霧が、ゆっくり集まりはじめた。
淵の中央だ。
白いものが渦を巻き、その芯に銀の筋が走る。
一本。二本。三本。
細い光が鱗みたいに連なり、やがて長い胴を描いた。
俺は思わず息を止めた。
角はない。けれど頭をもたげた瞬間、それがただの蛇でも魚でもないのが分かった。川そのものが身を起こしたみたいな、巨大な気配。白い彼岸の底から、古い水の記憶だけでできた何かが浮かび上がってくる。
銀の竜だった。
その瞳だけが、人を見る色をしていた。
レイアの指が、俺の袖を掴む力を少しだけ強める。
ラミエが息を呑む音が、妙にはっきり聞こえた。
オイゲさまだけが、まっすぐその銀の姿を見上げている。
竜が、ひと息つく。
すると霧がこちらへ流れてきた。
冷たいのに、濡れない。
頬に触れた霧の中で、人の声に似たものが囁いた気がした。
ぎんじろ。
ぎんじろ。
おぶちのなごさま。
どこかで聞いた文句が、子守歌みたいに遠く揺れる。
次の瞬間、銀の竜の輪郭が崩れた。
鱗がばらばらの霧粒になって宙へほどけ、その中心に、人影が立つ。
二十代くらいに見える男だった。
痩せているのに頼りなくはなく、濡れたような黒髪のあいだから、目だけが水底の銀を含んでいる。着物とも霧ともつかない白いものをまとい、足もとには川霧が纏わりついていた。
人の形をしている。
しているのに、人だけではないと分かる。
男はまだ、こちらを見てはいなかった。
淵の白い水面を背に立ったまま、どこか遠いものへ耳を澄ますみたいに静かだった。
その横顔を見た瞬間、胸の奥を冷たいものが貫いた。
このひとは、ずっと誰かに呼ばれている。
呼ばれつづけて、ここにいる。
名を忘れられないように。
忘れてしまわないように。
オイゲさまが一歩、前へ出た。
「――久しいの」
白い彼岸の淵で、霧の男がゆっくりこちらを振り向く。
銀の目が、まっすぐ俺たちを映した。
そこで世界が、もう一度、深く息を吸った。




