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第8話 灯りの漏れる空き部屋

「鈴花(りんか)さま、銀の箱を抱いて寝るのは、やめたほうがいいと思います」


朝、目を開けたら、小満(しょうまん)の顔が真上にあった。


ゆうべ家令の汪(おう)どのが置いていった手付けの銀は、なくしたら私が一生働いても返せない額なのだ。


抱いて寝るしかないでしょう?


起きたついでに、箱を詰め直すことにした。


この箱、銀が片寄って、隙間に丸めた紙が押しこんであるだけなのだ。


荷造り係として、見過ごせるはずがない。


銀を全部出して、底の敷き紙を引き抜く。


紅(あか)い。


上の紙はただの白い紙なのに、底の一枚だけが、金の粉を散らした紅い紙だった。


嫁入りの荷の、いちばん下に敷く祝いの紙である。妃が入宮する日の荷で、毎年のように見ている。


病の娘を家に連れ帰る銀の下に、どうして嫁入りの紙?


「鈴花さまー、文英(ぶんえい)さまの宮の桃(とう)さんが来てますー」


戸口では、眠そうな宮女が、あくびをかみ殺していた。


書き損じの紙の束をひとつと、灯りの油の壺をひとつ。いつもの受け取りだ。


どちらも、この荷造り部屋の物置から出している品だ。


壺を渡す前に、私は帳面をめくった。


文英さまの宮が持っていく灯りの油は、三月前まで、ひと月に壺ひとつだった。


それが今は、三日にひとつ。


「文英さまは、ご病気で臥(ふ)せっておいでなのよね?」

「は、はい!」

「それで、毎晩こんなに灯りを?」

「よ、夜が怖いそうで!」

「紙は?」

「は、鼻をかみます!」


桃さんの指先は、墨で真っ黒だった。


その指で鼻をかんだら、顔まで真っ黒になるわよ?


桃さんは荷を抱えて、逃げるように帰っていった。


私は、冬の炭と米の荷車をどの刻に北門へ着けるか、割り振りの続きに戻った。


  ◇


その夜、私は文英さまの宮へ向かった。


ご本人の口から伺う、と言ったのは私だ。昼の宮女があの眠たさなら、あの宮が起きているのは夜のほうだろう。


物置の並ぶ裏道に入ったところで、雷みたいな声が、夜を割った。


「はい、そこ! その字は『荷』!」


……口もきけぬほどの、ご病気では?


空き部屋のはずの戸の隙間から、灯りが漏れている。


そっと戸を引いた瞬間、何かが私の額に、こんと当たった。


「遅刻! 空いてる所に座りなさい!」


足元に転がったのは、白い土を棒に固めた白墨(はくぼく)だった。


逆らう間もなく、私はいちばん後ろの行李に座らされる。


右隣では、桃さんが両手で顔を隠していた。


左隣には、平服の新入りが一人。後宮で平服を着ているのは、たいてい宦官だ。灯りの届かない席で、やけに背筋をのばしている。


部屋を見回して、私は悲鳴を飲みこんだ。


机は、物置から消えた古い行李で、隅で燃えているのは、うちの油だ。


前に立つ妃は、黒く塗った板に、白墨で大きな字を書いている。


字が、ものすごく下手だ。


「げほっ、ごほっ」


咳をするたびに、袖から白い粉がぶわっと舞う。


入宮の日の荷を底まで白くしていた粉は、これだったのか。


あれが、孟(もう)文英さまだ。


臥せっているはずの嬪が、夜の空き部屋で、宮女に字を教えているのだ。


「では次! これは何と読む!」


文英さまが掲げたのは、荷造り部屋の荷札だった。


「はい!」


いちばん前で、見覚えのありすぎる手が挙がる。


……小満!?


「『ねこ、いれるな』!」

「惜しい! 『割れ物』!」


惜しくないし、昨日のことを、まだ引きずってるのね。


「荷札が読めたら、もう猫を包まなくてすみます!」


小満は胸を張って座った。


右隣では、桃さんが膝の上で、墨の指を動かしている。『割れ物』を、なぞっているらしい。


そういえば、荷札を読むのは、いつも私の役だった。


代わりを育てるつもりで、字を教えるのを忘れてたの、私!?


私は、そろそろと手を挙げた。


「先生。ご病気で、お辞めになりたいと伺いましたが」


文英さまの手が、ぴたりと止まる。


「辞めません!」


声だけで、灯りの火が揺れた。


文英さまは、部屋じゅうの宮女をぐるりと指さす。


「私が家に帰ったら、この子たちに字を教える者が、いなくなるでしょう!」


それから、こぶしを握りしめた。


「病なんて、父の作り話よ。本当は縁談! 大金持ちの塩の商人の、四人目の奥方! お断り!」


白墨が、文英さまの指の中で、ぽきんと折れる。


紅い敷き紙が、頭の中でぴたりとはまった。


実家は、病を口実に文英さまを連れ帰って、嫁に出すつもりなのだ。


文英さまは、くるりと板に向き直った。


「はい、次! それから、後ろの三人! この部屋のことは、尚宮さまと陛下にだけは、絶対に内緒よ!」


私の左で、新入りの宦官が重々しくうなずいた。


次の課題は、自分の年季(ねんき)明けを数えることだった。年季が明ければ、宮女は後宮を出て、家に帰れる。


右隣で、桃さんが指を折りはじめる。


墨の指が、一本ずつ曲がっていく。


「……来年の、春」


桃さんは、もう一度はじめから指を折った。


「来年の、春」


それから、小さく笑った。


「ずっと、もっと先だと思ってました」


笑いながら、桃さんは紙の上に、ぽたりと涙を落とした。


前の席から、小満が書き損じを一枚、そっと差し出す。


「桃さん、鼻、かみます?」


今度は本当に、桃さんは鼻をかんだ。


文英さまも盛大に鼻をすすって、声を張り上げた。


「つ、次! 炭が十二俵、米が九俵。合わせて、二十俵!」


左隣の新入りが、すっと手を挙げた。


「先生。一つ足りない」


文英さまが指を折る。十二、十三、十四……二十一。


「……正解! 新入りのくせに、やるじゃない!」


文英さまはずかずかと歩いてきて、新入りの手の甲に、白墨で大きな丸を描いた。


灯りの中に入ったその手は、日に焼けて、硬い。


足元には、宦官が履くはずのない、上等な靴。


……ちょっと待って。


私は、ゆっくりと左を向いた。


陛下が、手の甲に白い丸をもらって、まじめな顔で次の問題を待っていた。


陛下は前を向いたまま、小声で言った。


「前を見ろ。授業中だ」


陛下にだけは内緒の部屋で、その陛下が丸をもらっている。


叫ばなかった私を、誰かほめてほしい。


「そ、その新入り、ちょっとお借りします!」


あの新入りの正体を知ったら、文英さまは、今度こそ本当に寝込むと思う。


  ◇


裏道に出ると、陛下は手の甲の丸を、しばらく眺めていた。


拭く気配は、ない。


「どうして、あそこに?」

「荷造り部屋の帳面を見た。油の減り方が、おかしかった」


勝手に帳面を読まないでください。


それに、私より先に着いて、先に座って、先に丸までもらっているのは、どういうことですか。


「孟から、願いが出ている」


陛下の声が、低くなった。


「大臣を通して、病の娘を家に下がらせたい、と。三日後、孟が自分で迎えに来る。その日に、朕が返事をする」


三日。


陛下は、戸の隙間の灯りを見たまま続けた。


「病の嬪を、親が引き取りたいという願いだ。断る筋が、ない」


中からは、また「はい、そこ!」が聞こえてくる。


妃が後宮を出るとき、その荷を詰めて北門から送り出すのは、荷造り係の私だ。


家令どのの銀は、文英さまの荷を黙って詰めて、三日後の迎えに間に合わせてくれ、という代金なのだ。


受け取れば、尚宮さまに言われた「代わり」まで手に入って、私はこの冬のうちに辞められる。


明日の朝いちばんに、突き返そう。代わりの者ごと、だ。


……私の退職、またひとつ遠のいたんですけど!


三日あれば、宮ひとつぶんの荷を詰めて、北門から出せる。


出さないための荷造りは、まだ一度もやったことがないけれど。


「陛下。その三日で、文英さまを北門から出さない段取りを組みます!」

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