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第7話 三百両と代わりの子

夜明けの北門で、九人目の妃を見送った。


余(よ)岳(がく)さまは饅頭(まんとう)の籠を抱えて、門を出るまで「ありがとー!」と叫びつづけ、門番が三人そろって耳をふさいでいる。


「ご退宮、おめでとうございます」


私の声は、たぶん一つも届いていない。


その足で、尚宮さまの部屋に呼び出された。


「三百両そろったそうですね」


戸を開けるなり、筆を動かしたまま顔も上げずに、それである。


「な、なぜそれを!?」

「知っています」


答えになっていない。壺は棚の奥で、ふたには布までかけてあるのに!


「代わりは育ちましたか」

「……育ち盛りでは、あります」

「では、見せなさい。今日の昼に、嬪(ひん)の呉(ご)さまの引っ越しがあります」


嬪というのは妃の位の三番めで、呉さまはこのたび位が一つ上がって、広い宮へ移るのだ。


辞める妃もいれば上がる妃もいて、どちらの荷を詰めるのも荷造り係の仕事だ。


そして今日、その荷を詰めるのは私ではなく、弟子の小満(しょうまん)だ。


  ◇


「お任せください、鈴花(りんか)さま!」


昼の呉さまの宮に、小満の声が響きわたった。


引っ越しの宮女が十人ほどと、尚宮さまと私が見守るなか、小満が袖をまくる。


まずは、急須から。


紙を斜めに置いて、角から折って、ぴしっと紐をかける手つきは、悪くない。


ただ、その包み、湯気が立っていませんか?


「小満、それ、中にまだお茶が……」

「温かいほうが、向こうですぐ飲めます!」


包みの底から、茶がぽたぽたとしたたりはじめた。


次に小満は、窓辺の毛皮の敷物をくるくると巻いて、手早く包んだ。


その包みが、「にゃあ」と鳴いた。


「……小満」

「はい!」

「呉さまの猫、どこ?」


小満の目がゆっくりとそちらへ向かうと、包みがもう一度、にゃあと鳴いた。


宮女たちが、こらえきれずに吹き出す。


「い、いま出します!」


小満は包みに飛びついて、紐を引っぱって、引っぱって、もっと引っぱった。


ほどけない。


小満の結び目は固くてきれいで、結んだ本人にさえほどけないのだ。


宮女たちも代わるがわる挑んだけれど、爪が欠けるばかりで、猫は包みの中でにゃあにゃあと文句を言いつづけている。


「鋏(はさみ)! 鋏はどこですか!」

「さっき、あなたが包んだでしょう」


宮女の一人が指さしたのは、部屋のいちばん奥の、深い行李だった。


小満は頭から行李に飛びこみ、中身をかき分けて、かき分けて……そのまま、腰まではまった。


「ぬ、抜けませーん! 暗いですー! お腹すきましたー!」


行李の口から、ばたばたと突き出た小満の足が二本。


宮女たちは床を叩いて笑い、猫は包みの中で鳴き、急須の包みは床に茶の池を作っていく。


その真ん中で、尚宮さまは眉一つ動かさずに言った。


「まだです」


……ですよね!


まだです、ということは、私の退職もまだです、ということでもある。


  ◇


宮女たちに小満の足を任せて、私は猫の包みを抱えて廊下に出る。


荷造り十一年の指で、結び目の端を探す。


……どこから結んでどこで終わっているのか、端がさっぱり見つからない。


「段取りを見に来たのだが」


背中から、聞き覚えのある声がした。


「陛下……。今日の段取りは、見ないでいただけると助かります」


部屋の中から、小満の声が飛んでくる。


「鈴花さまは三百両たまったから、もうすぐ辞めちゃうんですー! だから私が、早く代わりにならなきゃいけないんですー!」


行李の底からでも、よく通る声だ。


陛下は何も言わずに、私の手から猫ごと取り上げた。


結び目をくるりと裏返し、紐の輪の一つに指をかける。


「山の結び方だ。ここを引けば、全部ほどける」


すっと引く。


結び目が魔法みたいにばらばらになって、三毛の猫が廊下へ飛び出していった。


「結んだ者は、筋がいい」


その結び目は、私の手にまだ巻かれたままの、ゆうべ陛下が結んだ紐と、どこか形が似ている。


陛下は猫を見送ってから、こちらに向き直った。


「三百両そろったそうだな」

「……聞こえておりましたか」

「宮を二つ越えても聞こえるだろう、あれは」


おっしゃるとおりです。


「三百両なら、朕が払う」

「……はい?」

「借金が消えれば、居たいだけ居られる。辞めるのは、却下だ」


陛下が、私の身請けの銀を?


皇帝が、女官を、身請け?


「お待ちください! 陛下に身請けされたら、それはもう、別の意味になります!」

「別の意味とは何だ」


本当に分かっていない、真顔だった。


説明しようとして口を開け、それから閉じる。どう言えばいいの、これ?


「はい! 私が説明します!」


部屋の中の行李から、元気いっぱいの声がした。


「町で身請けっていったら、お金を払ってお嫁さんにもらうことですー! だから陛下が鈴花さまを身請けしたら、鈴花さまは陛下のお嫁さんになっちゃいますー!」


廊下がしんとなって、部屋の中の笑い声まで、ぴたりと止んだ。


「……そうか」


陛下はそれだけ言って、くるりと背を向けた。


歩き去るその耳が、後ろから見ても分かるほど、赤い。


私は手に巻かれた紐を、意味もなく、ぎゅっと握りしめていた。


「鈴花さまー! 合ってましたかー!?」


合ってるから困るのよ!


  ◇


夕方、私あてに荷が届いていると、北門の番小屋から呼び出しが来た。


行ってみると、門の外に立派な荷車が止まっていて、ひげの立派な男が、両手を大きく広げた。


「これはこれは! 後宮に名高い荷造り係どのでいらっしゃいますな! わたくし、孟(もう)家の家令(かれい)をつとめます汪(おう)と申します。本日は当主の名代(みょうだい)として、はるばる……」


口上が長くて、このままでは日が沈みきりそうなので、私はそっと口をはさむ。


「ご用件は」


汪どのが荷車から下ろした箱のふたを開けると、銀がぎっしり詰まっている。


「嬪の孟文英(ぶんえい)さまを、辞めさせていただきたい。病弱にて、とても務まらぬゆえ」


そう言いながら、汪どのはしきりに額の汗をぬぐっている。


辞めたい本人ではなく、実家から依頼が来たのは、これが初めてだ。


「どこで、私のことを」

「茶商の胡(こ)どのが、教えてくださいましてな。後宮には、妃を無事に家へ帰す荷造り係がいる、と」


献上茶の日に御用を失った、あの茶商の胡だ。


裏の仕事のうわさが門の外を歩きまわっていると思うと、背中がひやりとした。


「それから」


汪どのが声をひそめて、にんまり笑った。


「この件でお手をわずらわせるあいだ、荷造りの人手も足りなくなりましょう。代わりの者を、こちらでご用意いたします。腕の確かな者を、なんなら、そのまま後宮に置いていただいても」


……代わり。


銀ならもうあって、足りないのは、今朝も尚宮さまに念を押された「代わり」だけなのだ。


それが、銀の箱と一緒に、目の前に積まれている。


頭のすみで、行李から突き出た小満の足が、まだばたばたしていた。


「お受けするかどうかは、ご本人の口から伺ってからです」

「なんと。ご本人は病で、口もきけぬほどでして……」

「では、なおさら伺いに参ります」


汪どのは眉を下げ、手付けだと言って、それでも銀の箱を置いて帰っていった。


私は箱の銀を数えて、数え直して、もう一度数えた。


病弱な娘を家に帰すだけの礼にしては、桁が一つ多い。


それに、私は孟文英さまの入宮の日の荷を覚えている。


行李の底まで白い粉まみれで、薬の包みは、ひとつも入っていなかった。


病で、口もきけない?


……家令どの、その「病弱」、いったいどこで仕入れてきたんですか!

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