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第6話 天狼が鳴いた夜

「この階段、去年より長くなっておらんか?」

「去年と同じ、四百八段です、博士」


夕暮れの観星台(かんせいだい)の階段を、私は星図の箱を三つ背負って登っている。


前を行くのは、星を読む老博士の司馬(しば)さまだ。白いひげが、一段ごとに息で揺れている。


星読みの道具を上まで運ぶのも、荷造り係の仕事のうちである。


「ところで、そなたは誰じゃったかのう」

「荷造り係の鈴花(りんか)です。三年前、博士の眼鏡を見つけました」

「おお、返した行李の底から出てきた、あの眼鏡じゃ!」


博士はうれしそうに、鼻の上のそれを指でつついた。それです、それ。


今夜は冬の星読みで、一年でいちばん明るい天狼星(てんろうせい)が昇る。


博士は毎年この夜、空を見上げて同じことを言う。


「天狼が明るい夜は、獣が騒ぐ……かもしれんのう」


ほら、今年も言った。


「して、今年は何と読めばよいかのう」

「それは博士のお仕事です」


読みの文句には、一言も口を出さない。私が運ぶのは、荷だけだ。


ただ、今夜は荷がひとつ多い。


大掃除まで、あと二日。どうせ見つかるなら、見つかる場と時を、こちらで選べばいい。


天狼星が昇る刻(こく)に、観星台のてっぺんへ。覆(おお)いをかけた檻(おり)のそばに、余(よ)岳(がく)さまが立つ。


博士には「荷をひとつ、上に置かせてください」とだけ頼んで、「よいよい」と二つ返事をもらってある。何の荷かは、たぶんもう忘れている。


昨日、余岳さまの物置でこの段取りを見せると、陛下は「それだけか」と言った。


それだけです。陛下は、うなずくだけで結構です。


ついでに言うと、饅頭(まんとう)を檻に移すのは一瞬だった。余岳さまが首の笛を短く吹いたら、自分から入ってきたのだ。


荷造り係としては、毎回これでお願いしたい。


  ◇


日が落ちると、観星台のてっぺんは人でいっぱいになった。


妃たちの衣のすそ、宦官の提灯、ずらりと並ぶ星の道具。いちばん奥には陛下が座り、そのそばに尚宮さまが立っている。


隅には、布をかけた檻と、首から笛を下げた余岳さま。


顔は真っ青で、唇をぎゅっと結んでいる。


博士が空を仰ぎ、読みを始めた。ゆっくり、ゆっくり。


目当ての星が屋根の端から顔を出すまで、あと少し。


そのとき、尚宮さまがすっと手を上げた。


「あの覆いの中は何です。届けのない荷は、先に改めなさい」


宦官が飛んでいって、布をつかみ、ぐいっと引いた。


待って、そんな引き方をしたら、布が戸の留め金に——


かちん。


ひっかかった布ごと、檻の戸が開いた。


私は飛びついて戸を押さえたけれど、手のひらが鉄にざりっと擦れただけで、灰色の毛玉はもう外にいた。


「きゃああああ!」


妃たちの悲鳴。宦官が提灯を放り出し、博士の眼鏡が宙を舞う。


三年前に私が見つけた眼鏡が、またどこかへ飛んでいく!


誰かに蹴られた星図の箱まで、階段を転がり落ちていった。四百八段、全部いくつもりなの?


饅頭は人の足のあいだをすり抜け、まっすぐ尚宮さまのほうへ走っていく。


尚宮さまは一歩も動かない。肝が太いのか、腰が抜けたのか、どっちなの?


そこへ、奥から陛下が飛び出した。


一歩で尚宮さまの前に入り、饅頭の正面に膝をつく。


目は合わせず、手のひらを低く差し出したまま、じっと待っている。


陛下、うなずくだけって言いましたよね?


饅頭は陛下の手の匂いをかぎ、それから袖の匂いをかいで、ぴたりと止まった。三日前に、はむはむとかじった袖の主だと気づいたらしい。


「陛下、山の人みたい!」


余岳さまの大声が、ここで戻ってきた。


それが、いけなかった。


びくっと跳ねた饅頭は陛下の脇をすり抜け、人のいない端まで走って、細い欄干(らんかん)に飛び乗った。


その向こうは、真っ暗な御苑まで、何もない。


あそこから落ちたら、山へ返すどころの話じゃない。


  ◇


誰も、息をしなかった。


宦官が網を探して走り、妃の誰かが「落ちる」とつぶやく。


余岳さまは手を伸ばしたまま固まり、首の笛だけが提灯の明かりで揺れている。


笛。昨日の物置で、ひと吹きで檻に入ってきた毛玉。


「岳さま、笛!」


自分でも驚くほど、大きな声が出た。


余岳さまがはっと首もとに手をやり、思いきり吹く。


ぴいいいいっ。


欄干の上で、饅頭の耳がぴんと立った。


それから、ちょうど昇ってきた天狼星に向かって、小さな喉をいっぱいに反らす。


あおおおおん。


遠吠えが、夜の後宮じゅうに響きわたった。


そして饅頭はくるりと向きを変えて欄干から飛び降り、人のあいだを一直線に駆け抜けて、余岳さまの腕の中へ飛びこんだ。


観星台が、しんと静まり返る。


博士の眼鏡は、また私が拾って返した。三年ぶり、二度目である。


それをななめにかけ直した博士が、空と狼を見比べて、ぽつりと言った。


「……天が、答えた……かもしれんのう」


誰も、笑えなかった。


かわりに、ざわめきが勝手に広がっていく。


「天狼の夜に、狼が主のもとへ……」

「あの獣、才人さまにしか従わないのね」

「山の獣を山へお返しする役目だなんて、名誉なこと」


余岳さまが、饅頭を抱えたまま立ち上がった。


「あたしが! この子を、山へ返します!」


たぶん今夜も、宮を二つ越えて聞こえた。


陛下は、ただ一度だけうなずいた。


うなずくだけの約束は、最後の最後にだけ守られたことになる。途中の膝は……まあ、格好よかったから許すわ。


  ◇


片づけの途中で、余岳さまが私の手に、何かをぎゅっと握らせた。


「お礼! 才人の退職金は二十両だから、一割で二両! 明日の朝、北門から出るね! 山の薬草も、あとで送るね!」


九人目の退宮は、明日の夜明けに決まった。


そして手の中には、二両。壺の中身は、二百九十八両。


足して、三百両。


十歳で後宮に来てから十一年、ついに三百両だ!


叫びたいのを、ぐっとこらえる。ここは観星台のてっぺんで、すぐ横には陛下がいるのだ。心の中では、もう三回くらい跳ねているけどね。


その陛下が、黙って私の手を取った。


手のひらに、さっき鉄で擦った赤い筋が走っている。自分でも、今の今まで忘れていた。


陛下は自分の袖の紐をほどいて、私の手にくるりと巻き、最後にきゅっと結んだ。


十一年、縄を結んできたけれど、こんな結び目は見たことがない。


手を引っこめるのを、すっかり忘れていた。


陛下の肩越しに、尚宮さまの姿が見えた。


床に落ちた何かを、そっと拾い上げている。


灰色の毛が、一本。


尚宮さまはそれを提灯にかざし、袖の中へていねいにしまった。一度も、こちらを見ずに。


証拠集め? それとも、まさかの毛玉好き?


……三百両がそろった夜に、尚宮さまの袖に狼の毛なんて、聞いてないんですけど!

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