第5話 その出口は不採用です
眠れない夜は、羊のかわりに出口を数えるにかぎる。
ひとつめは北門だけれど、今はそこに尚宮さまの目が光っている。
「最近、北門から出ていく妃が多いようですね」と言われてから、今夜で三晩、私はまともに眠れていない。
おまけにこの三晩、陛下は「段取りを見せろ」と言って夜の荷造り部屋に来ては、安い茶を二杯ずつ飲んで帰っていった。
見せるものなんて、まだひとつもないのに。
ふたつめは東の水門で、こちらは冬のあいだ氷で閉じている。
みっつめは、西の塀の、柿の木の陰。
瓦が三枚ゆるんでいて、二年前に見つけてから誰にも言わずに取ってある、私だけの非常口だ。
使うつもりはない。まだ使えるかどうか、確かめておくだけである。
今夜の陛下の茶が終わるのを待ってから、私は寝床を抜け出し、月の細い庭を柿の木まで忍び足で進んだ。
そして、その場で固まった。
先客がいる。
大きな包みを背負った誰かが、私の非常口を、よいしょよいしょとよじ登っている。
頭の上で、かたかたと嫌な音がする。やめて、そこはそっと登るところなの!
気づいたときには、私はその足首をつかんでいた。
「その出口は不採用です」
「だれっ!?」
振り返った声が、夜の後宮じゅうに響きわたった。
声が、とんでもなく大きいな!
次の瞬間、つかんだ足首ごと、私の体がぐいっと持ち上がった。
引きずりおろすつもりが、こちらが引きずり上げられている。
あれ、と思ったときには、私は塀とその娘のあいだに、干し柿みたいにぺたりと貼りついていた。
「……あの、苦しいです」
「あっ、ごめん! 鹿かと思った!」
夜の後宮のどこに、鹿がいるっていうの?
私を下ろしてくれたのは、日に焼けた大柄な娘で、首から小さな笛を下げている。
才人の余岳さまだ。妃の位でいちばん下の方で、ご実家は山の猟師だという。
お顔はうろ覚えでも、荷物なら覚えている。入宮の日、この方の行李から弓が四本も出てきて、宦官が腰を抜かしたのだ。
◇
「実家に帰りたいの! あの子と一緒に、山に帰るの!」
余岳さまは地面にぺたんと座りこむなり、泣きながら叫んだ。
「声、声を落としてください!」
「帰りたいのー!」
落ちない。むしろ上がった。
よく見ると袖が裂けていて、手首にはひっかき傷が何本も走っている。
あの子が誰なのかは、聞かないことにした。本人に聞くより、荷物に聞いたほうが早い。
「その包み、拝見しても?」
「いいよ!」
ほどいてみて、私は目を丸くした。
干し肉。干し肉。干し肉。
着替えも簪も路銀もなく、山へ帰る支度のはずが、中身は肉ばかりだ。
しかも、どれも端がぎざぎざに噛みちぎられている。
人の歯の跡にしては細くて、とがっていて、数が多い。
残りは、小さな口でも食べやすいように、指でていねいに裂いてあった。
そういえば今朝、小満が「厨房の鶏が、また一羽消えたんです! 私じゃないです!」と騒いでいた。
私は裂いた一切れをつまんで、余岳さまの目の前に掲げた。
「……その子、四本足ですね」
余岳さまの涙が、ぴたりと止まった。口だけが、ぱくぱく動いている。
やっぱり、荷物は嘘をつかない。
「御苑で、拾ったの」
ようやく出てきた声は、さっきの十分の一くらいだった。
「三月前。まるくて、ほかほかで、饅頭みたいだったから、饅頭って呼んでる。でも、もう物置に隠しきれないくらい大きくなっちゃって。だから今夜、先に荷物だけ塀の外に出して、それから籠ごと……」
荷物を先に出して、中身をあとから運ぶ段取りは、たいてい中身のほうが置いていかれる。荷造り十一年の勘が、そう言っている。
本当の理由をお話しするのは、ご本人のお許しが出た分だけ。陛下とは、そう約束したばかりだ。
ただ、ご本人の口から全部、この大声で出てしまった場合のことは、決めていなかった。
「鹿が、どうした」
背中のほうから、聞き覚えのある低い声がした。
◇
暗がりから出てきたのは、平服の陛下だった。
「帰り道で、鹿の話が聞こえた。宮を二つ越えて」
余岳さまが、その場でひっくり返るように平伏した。
入宮の日に遠くから拝んだきりの陛下が、目の前にいるのだ。無理もない。
「も、申し訳ございませんっ!」
謝る声まで大きい。
そして余岳さまはばっと顔を上げると、包みを抱えて駆け出した。
「饅頭ー!」
……どう見ても、隠しに行ったよね!
あとに残ったのは、陛下と私と、足もとに落ちた瓦が一枚。さっきの取っ組み合いで外れたらしい。
陛下はそれを拾い上げて、塀の欠けた所と、私の顔を、順に見た。
「お前の出口か」
返事が、出てこなかった。
違いますと言えば、嘘になる。そうですと言ったら、そのあと、どうなるの?
陛下は何も言わずに背伸びをして、瓦を元の場所にはめこんだ。
ずれないように、指で二度、押さえる。
釘も打たず、ゆるいまま、元どおりに。
「行くぞ。あれは、何かを隠している走り方だ」
陛下はもう、余岳さまの宮のほうへ歩き出している。
私は塀を一度だけ振り返ってから、小走りでその背中を追った。
◇
余岳さまの宮の物置では、大きな籠が跳ねていた。
ふたの上に余岳さまが座りこみ、全身で押さえつけている。籠の中からは、きゅうん、と鼻を鳴らす音。
「な、何もいません! 干し肉です!」
干し肉は、鳴かない。
陛下は余岳さまをひょいとどかして、ふたを開けた。
飛び出してきた灰色の毛玉を、空中で、首の後ろをつまんで受け止める。
ぶらんと下がった前足は、私の手のひらより大きい。
「これは犬ではない。狼だ」
物置が、しんと静まった。
狼が、後宮に、三月も?
当の饅頭は暴れもせず、陛下の袖をはむはむと噛みはじめた。
皇帝の袖をおやつにした狼なんて、天下ひろしといえども、この子だけだと思う。
「人の手で育てた狼は、山に戻れぬことが多い」
陛下は袖を噛まれたまま、真顔で饅頭の口をそっと開けて、歯を確かめた。
「……この大きさなら、まだ間に合う」
どうして皇帝が、狼の育ち方なんて知っているのだろう?
「朕が帰してやる。この才人も、この子も、まとめて山へ送ればいい」
余岳さまの顔が、ぱあっと明るくなる。
私は思わず、二人のあいだに割って入っていた。
「お待ちください。それをやると、余家は『陛下に追い出された家』になります」
陛下に帰された才人は、山の村で一生そう呼ばれる。獣を飼った罰で追い出された、と尾ひれまでつくだろう。
「では、どうする」
「狼ごと、私がお出しします。陛下のお手を借りずに」
言ってから、ぞっとした。この子ごと後宮から、どうやって出すつもりなの、私?
陛下は饅頭を籠に戻して、短く言った。
「段取りができたら、見せろ」
見せるのはかまわないけれど、問題は、いつまでに、だ。
五日後は、後宮の大掃除である。物置という物置の荷を、ひとつ残らず庭へ引っぱり出す日だ。
その割り振りを決めたのは、ほかでもない、荷造り係の私である。
隅の籠ひとつ見逃さないよう、我ながら完璧に。
……おとといの私、なんて余計な仕事をしてくれたのよ!




