第4話 砦か檻か
閉まった戸が、三つ数えるより先に、もう一度開いた。
私は壺を抱えたまま、その場でかちんと固まった。
「座るところは、ないのか」
戻ってきた陛下は物置をぐるりと見回して、いちばん大きな行李に腰を下ろした。
みしっ。
行李が、十一年つきあってきた私も聞いたことのない声で鳴く。
「陛下、その行李、貴妃さまの荷を運んだばかりの古強者です。もう腰が限界です」
陛下は「そうか」とうなずいただけで、座ったままだった。
みしみしみしっと、行李が本気で泣きはじめる。
……罰しに来たのなら、行李のためにも、早く言ってほしい。
「罰しに来たのではない」
心を読まれたのかと思った。
「帳簿に、おかしな行がある。この一年で、俸禄の止まった妃が七人。なのに、棺の代金は一つも払っていない」
ひえっと、のどから変な声が出た。
帳簿というのは、荷物よりも正直で、ずっとこわいものらしい。
「七人とも、お前が出したのだな」
「……はい」
「どこへ出した。話せ」
陛下の目は、責めるというより、本気で知りたがっていた。
だから私は、七人の出口をひとつずつ話した。
江さまは山の尼寺で、いまでは寺の帳場を仕切り、住職さまより偉くなっている。
漁村に帰った妃さまからは、毎年、干した魚がどっさり北門に届く。
「七人とも、元気です。ちゃんと、生きています」
陛下は行李の上で腕を組んで、しばらく黙っていた。
「後宮は、女を守る砦だ」
ぽつりと落ちた声は、さっきまでより少し低い。
「外のほうが、危ないこともある。朕は、それをよく知っている」
「砦か檻かは、中にいる妃さまが決めます」
言ってから、自分の声の強さに、自分で驚いた。
十歳で借金のかたに連れてこられた私には、この門は最初から檻だったのだ。
陛下は私の顔をじっと見て、それから、壺を抱える私の手首へ、すっと目を落とした。
そして、あっさり言った。
「では、出す前に朕に見せろ。外のほうが危ないなら、出さぬ」
「えっ」
「危なくないなら、出せばいい」
罰でも許しでもなく、これは見張り……いや、監督というやつだ。
「お待ちください。陛下が口を出すと、面子が……」
「面子は、お前が守れ」
陛下は、ひと呼吸も置かずに答える。
守る面子の持ち主は、陛下ご本人なんですけど?
さっきの「朕は面子を守れぬ」は、どうやら「守る気がない」という意味だったらしい。
こうなったら、こちらも一つだけ譲れないものを出す。
「では、私からも一つ。お見せするのは段取りだけです。妃さまの本当の理由は、ご本人のお許しが出た分しか、お話ししません」
本当の理由は、荷物の持ち主のものだ。皇帝にだって渡せない。
陛下は少しだけ眉を上げて、「よかろう」とうなずいた。
……言ってみるものである。
陛下が立ち上がると、行李が、ほうっと長い息をついた。私もついた。
戸口まで行ったところで、陛下がふいに振り返る。
「庭からずっと、お前の手を見ていた」
……は?
ずっと? 庭から? 私の手を?
「ずっと見ていた」で始まる恋文なら、妃さまたちの荷から何通も出してきた。つまり、これは口説き文句というものでは? 皇帝が、荷造り係を?
いや待って、逃がさないぞという見張りの宣言かもしれない。どっちなのか、さっぱり分からない!
「縄の跡だ。荷造りの手だ」
陛下はそれだけ言って、出ていった。今度こそ、戸は開かなかった。
……縄の跡。
私は袖を少しまくって、自分の手首を見下ろした。
荷縄のこすれた跡が、細く、何本も重なっている。十一年ぶんの行李の数だけ。
壺を棚に戻すのも忘れて、私はしばらく、手首をさすっていた。
◇
辞めるのを却下されたのなら、正式に身請けすればいい。
陛下の「却下」は、きっと口だけの掛け合いだ。女官の身請けを決めるのは、宮女と女官の長である尚宮さまのほうなのだから。
というわけで翌朝、私は尚宮さまの部屋の前に立っていた。
尚宮の厳玉蘭さまは五十八歳で、辞めたいと言いに来た女官を、なぜかみんな泣きながら持ち場に戻してしまう。
ついたあだ名が、「引き止めの鬼」。
それでも、あと二両で三百両なのだ。今日こそ聞きに行く。
「失礼いたします」
部屋の中は、墨と、なにか乾いたものの匂いがする。
机の上に、「薬草」と書かれた紙の包みがひとつ。
……薬草って、こんな匂いだったかな。もっとこう、苦い感じの。
「宋鈴花。用件は」
尚宮さまは筆を止めず、顔も上げずに言った。
「身請けのことで伺いました。銀のほかに、何がいるのでしょうか」
書きかけの筆が、紙の上でぴたりと止まる。
「銀だけでは受け取りません」
「えっ」
「代わりを育てなさい」
尚宮さまが、そこでようやく顔を上げる。
「荷造り係が抜けたら、明日から誰が荷を詰めるのです。辞めるなら、引き継いでから。規定です」
「では、銀を上乗せします。三百二十両でも」
「銀の話はしていません」
二両足りない私が、何を口走っているのだろう。
引き止めの鬼は、正論の鬼でもあった。
代わり。十一年かけて覚えたこの手を、誰かに渡せと?
私は頭を下げて、部屋を出ようとした。
戸に手をかけたところで、背中に声が飛んできた。
「ところで」
「はい」
「最近、北門から出ていく妃が多いようですね」
背中を、冷たい汗がつうっと流れていく。
振り返る勇気なんて、どこにもない。
「……さようでございますか」
◇
荷造り部屋に戻ると、小満が先回りして正座していた。
手には雑巾。尚宮さまの部屋の前の廊下を、ずいぶん念入りに拭いていたらしい。
「鈴花さま! 代わりなら、私がやります!」
棚の茶碗が、かたかたと震えるほどの声だった。
「……聞いてたの?」
「廊下が、とても汚れていたので!」
答えになっていないし、その雑巾、からからに乾いてるからね。
「荷造り係になったら、北門に届くお菓子を、いちばんに見られますよね?」
「動機が不純すぎる」
でも、その目は本気だったし、声も本気で大きかった。
私は少し考えてから、棚の茶碗を四つ下ろした。
この部屋の茶碗は、だいたいどこかが欠けている。練習には、ちょうどいい。
まず一つ、手本に包んでみせる。紙を斜めに置いて、角から折って、最後に紐を十字にかける。
「最初の課題。残りの三つを、これと同じに、割れないように包んで」
「はい!」
小満は袖をまくり、元気よく紙を広げて、元気よく茶碗をつかんだ。
がしゃん。
元気がよすぎるのよ。
二つ目は、ちゃんと包んで紐までかけたのに、持ち上げた拍子につるりと落ちた。
三つ目を抱えて立ち上がった小満は、私の手本の包みに、見事につまずいた。
がしゃん、がしゃん。
……手本ごと、四つとも割れた。欠けているどころの話ではなくなった。
小満が、破片の山を前にして、しゅんと私を見上げる。
「鈴花さま、お腹がすくと、手が滑るんです」
「いま、朝ご飯を食べたばっかりでしょ!」
私は割れた包みを拾い上げて、ふと手を止めた。
紐の結び目が、私の結んだものより固くて、きれいだったのだ。
包み方は、教えれば覚えられる。でも、ほどけない結び目を結べる手は、そうそう見つからない。
「……合格」
「えっ! 三つとも割れましたけど!」
「だから明日から、毎朝十個ずつ包むの」
小満の悲鳴で、棚の茶碗が、またかたかたと鳴った。
銀は、あと二両。代わりの子は、一人。無事な茶碗は、ゼロ。
それから、北門のほうを見ている目が、少なくとも二組。




