第3話 献上茶は二杯目から
人生でいちばん長い廊下を、私はいま歩いている。
御茶房の裏口から献上茶の広間まで、たった四十歩しかないはずなのに。
その四十歩を、私は茶盆を顔の前にぴたりと構えたまま進んでいた。
前はまったく見えないけれど、前から見られるよりはずっといい。
「鈴花さま、それ、前見えてます?」
「見えてない。だから袖を引っぱって」
「はい!」
隣を歩く小満が、元気よく私の袖をつかんだ。
こうまでして顔を隠すのは、一昨日の夜、私が陛下に向かって「いい靴ですね」と言ってしまったからだ。しかも「帳簿係のくせに」まで、ご丁寧につけて。
月明かりの下で上から下まで眺められた顔を、陛下はどこまで覚えているだろう?
荷造り係の私、宋鈴花が今日ここにいられるのは、茶道具の箱を運び込む役を自分で引き受けたからだ。
段取りは、二行しかない。
二杯目の口直しの茶を、貴妃・何芙蓉さまのご実家の茶にすり替える。運ぶのは小満。
あとはひとつだけ、陛下にこの顔を見られないこと。
小満に袖を引かれて、私はよろよろと広間の隅へすべりこんだ。
広間には、妃さまが五人と、宦官がずらり。
真ん中では、宰相さまの御用達の茶商、胡が、もみ手をしていた。
もみすぎて、手のひらから煙が出そうな勢いである。
そして正面の一段高い席に、陛下。
茶盆のすきまから、靴の先だけがちらりと見えた。縫い目のそろった、あの黒い靴だ。
……間違いない。帳簿係だ。いや、陛下だ。
◇
一杯目の新茶が、妃さまたちに配られた。
胡が、ここぞとばかりに胸を張る。
「今年いちばんの新茶にございます。香りの高さは、都でも随一でございまして」
陛下のおそばの芙蓉さまが、茶碗の中をのぞきこんだ。
そして、すずしい声でひとこと。
「茶葉の縁が茶色いわ。去年の茶ね」
胡の顔から、血の気がさあっと引いていく。
もみ手が止まった。煙も止まった。
妃さまたちが、そっと茶碗を置く。誰も二口目を飲もうとしない。
私はうつむいたまま、置かれた一杯目の茶碗を盆に下げて回った。
うん、ここまでは、いい滑り出しじゃないか。
さて、ここからが二杯目だ。
広間の奥の戸が開いて、小満が飛び出してきた。
茶盆の上には、湯気の立つ茶碗が七つ。それを持って、全力で走ってくる。
走らないでって、あれほど言ったのに!
右に傾く。左に傾く。宦官の足をひょいとよけて、もう一回、右に傾く。
こぼれるか、こぼれないか。広間じゅうの目が、茶盆の上に吸いよせられていく。
……着いた。一滴も、こぼれていない。
私は茶盆の陰で、こっそりこぶしを握りしめた。
二杯目をひと口飲んだ妃さまたちが、そろってため息をつく。
「まあ……甘い」
「こちらが、新茶ではなくて?」
湯気の向こうで、芙蓉さまが静かに茶碗を持ち上げた。
ひと口含んで、ほんの一瞬だけ、目がうるむ。
城下の三つ目の角の店の、自分の家の茶の味だ。
陛下は、その目をまっすぐ見ていた。
そして、まっすぐ聞いた。
「芙蓉。お前、帰りたいのか」
広間の空気が、音を立てて割れた。
……陛下、それを、いまここで聞きます?
寵妃が「帰りたい」と答えたら、陛下は大勢の前で振られた皇帝になる。「帰りたくない」と答えたら、芙蓉さまはもう出られない。
どちらに転んでも、私の段取りは粉々だ。
芙蓉さまの唇が、小さく開きかける。
だめ、答えさせちゃいけない!
私は茶盆を抱えたまま陛下のほうへ一歩踏み出して、見事につまずいた。
もちろん、わざとである。
盆の上の一杯目の茶が、きれいな弧を描いて、陛下の袖へ飛んでいった。
「申し訳ございません! 胡さまの新茶は、三杯で銀一両もいたしますのに!」
下働きの大声が、広間のすみずみまで響きわたる。
広間が、凍った。
宦官も、妃さまたちも、胡も、ぴくりとも動かない。
聞こえるのは、陛下の袖から茶がしたたる、ぽたり、ぽたりという音だけだ。
濡れた袖の向こうで、陛下の目が、私の手首の荷縄の跡に止まった。
一昨日の夜も、この目はたしかに、まったく同じところで止まったのだ。
……ばれた。これは、完全にばれた。
ところが陛下は、袖をひと振りしただけで、胡のほうへ向き直った。
「胡。お前の茶は、去年の三倍の値だな。帳簿で見た」
胡の膝が、かくんと音がしそうな勢いで折れる。
芙蓉さまと声に出して読み合わせていた、あの夜の帳簿の数字だ。
「二杯目のほうが、うまい」
陛下は、濡れた袖のまま立ち上がった。
「茶は、茶の分かる者に任せる。何芙蓉を、御用茶商の総取締に任じる。宮の外で、茶を見よ」
一拍おいて、広間がざわっと揺れた。
「陛下は、寵妃さまの才を、国のためにお使いになるのね……」
「なんと度量の大きい」
「芙蓉さまも、お幸せなこと」
ささやきが、さざ波みたいに広がっていく。
胡だけが床にへたりこんだまま、もみ手をするのも忘れていた。
私は濡れた茶盆を抱えて、広間から逃げ出した。今日いちばんの全力疾走である。
◇
夕方の北門に、行李が三つ並んだ。
いちばん上には、使いこんだ算盤がひとつのっている。
芙蓉さまの荷は、驚くほど少なかった。簪も絹も、ほとんど置いていくという。
「宮の外で茶を見るのに、簪は要らないもの」
芙蓉さまは、私の手にずしりと重い包みをのせた。
「四十両。相場は退職金の一割、だったわね」
「……覚えていらしたんですか」
「数字は忘れないの」
輿の簾が上がって、私は深く腰を折った。
「ご退宮、おめでとうございます」
芙蓉さまで、八人目。四十八人いた妃さまは、四十七人になった。
そして壺の銀は、二百九十八両。
あと二両。あと、たったの二両!
輿が門を出る直前、簾の奥から、芙蓉さまの声がした。
「陛下の帳簿、桁を間違えたら、あなたが叱ってあげてね」
「えっ。それは、私の仕事では」
返事はなかった。簾がすとんと下りて、輿は城下へ遠ざかっていった。
……いまの、どういう意味ですか、芙蓉さま?
◇
その夜、荷造り部屋で壺の銀を数えていると、戸ががらりと開いた。
戸口に立っていたのは、平服の、背の高い男だった。
今日は帳面を持っていないかわりに、袖に大きな茶のしみをつけている。
「茶をこぼしたのは、お前だな」
「……はい」
「庭で、靴をほめたのも」
「……はい。それも私です」
私は壺を抱きしめて、勢いよく立ち上がった。
「辞めます! 今すぐ辞めて、遠くへ逃げます!」
あと二両くらい、借りてでもなんとかする。行李ひとつで、今夜のうちに北門をくぐってやる。
陛下は戸口にもたれたまま、ひとことだけ言った。
「却下」
……はい?
「お前がいないと、朕は面子を守れぬ」
それだけ言って、陛下は戸を閉めた。
残されたのは、壺を抱えて立ちつくす私と、ほのかな茶の香りだけ。
却下。いま、私の退職が、却下された?
……誰か、私の退職を代行してくれませんか。




