第2話 夜のお渡りの正体
「城下の店に、男がいるんですよ。絶対!」
「違うわよ。毒よ、毒。毒見役の子が先月、急に宮を下がったんだから」
貴妃さまの宮の衣装部屋で、小満と侍女が言い合っている。
声が大きい。二人とも、ここが貴妃さまの宮だということを、きれいさっぱり忘れていないか。
私、宋鈴花は、冬物の入れ替えという名目でここに来ていた。
貴妃・何芙蓉さまの衣を、夏の薄物から冬の綿入れへ替える仕事だ。
表の仕事のついでに、堂々と裏の調べものができるのが、荷造り係のいちばんの役得である。
献上茶の日まで、あと二日。調べものに使えるのは、今日と明日しかない。
「男なら、こう、恋文の束とか出てくるはずです」
「出てこないから毒なのよ」
「毒なら、こう、紫色の小瓶とか」
二人とも、町の貸本屋の読み物に毒されすぎじゃないかな。
私は言い合いを背中で聞きながら、部屋の隅の包みをほどいた。
芙蓉さまが「城下の三つ目の角の店へ」と、もうまとめてあった荷だ。
まず出てきたのは、小さな紙の包みだ。
開ける前からにおいで分かってしまう、年寄りの咳に効く苦い煎じ薬。
亡くなった妃の荷を何十と詰めてきたので、薬のにおいには詳しい。
その下に、男物の綿入れが一枚。
肩幅に腕を当てて測ると、私の腕一本と半分。これは十六、七の男の子の寸法だ。
お二人さん、恋文も紫の小瓶も、この荷には一つも入っていないからね。
「ねえ。宮を下がった毒見役の子って、どこから来た子?」
「城下から来た子よ。芙蓉さまのご実家のお店から、奉公に上がってたの」
答えた侍女と小満は、また言い合いに戻っていった。
……二人とも、まだ気づいていない。
年寄りの薬。男の子の綿入れ。実家の店から来て、急に帰った娘。
男でも毒でもない。困っているのは、城下の店のほうだ。
◇
芙蓉さまが戻ってきたのは、昼過ぎだった。
私は煎じ薬と綿入れを、卓の上にきちんと並べて待っていた。
芙蓉さまはそれを見て、ため息をひとつ。
「……荷造り係って、みんなこうなの?」
「私だけです。たぶん」
芙蓉さまは観念したように腰を下ろして、あっさりと認めた。
城下の三つ目の角の店は、芙蓉さまの実家の茶舗だという。
父君が春に倒れて、店は十六の弟が継いだ。その弟が、店の銀を賭場で溶かしている。
毒見役の娘は、それを知らせるために宮を下がったのだ。
「継げるのは、わたくししかいないの。だから辞めたいのよ」
これで本当の理由がひとつ出たけれど、まだ半分でしかない。
「では、お渡りの夜は、何を」
「それは、言えない」
芙蓉さまは、そこだけはきっぱりと首を振った。
「陛下に頼られているから、言えないの」
頼られている。寵愛されている、ではなく。
何を頼られているのか分からなければ、陛下の面子の守り方も分からない。
そして今夜こそ、ちょうど五日にいちどの、お渡りの夜である。
◇
夜の裏庭は、綿入れをあと二枚着てくればよかったと思うくらい寒い。
私は生け垣の陰にしゃがみこんで、芙蓉さまの宮の裏口を見張っていた。
陛下がお渡りになるときは、先触れの宦官が鈴を鳴らし、正面の門から入って、一刻ほどの儀式がある。
その正面の門のあたりは、まだしんと静まりかえっている。
がさり、と隣の生け垣が鳴った。
「誰だ」
「そちらこそ」
暗がりから出てきたのは、背の高い男だった。
平服に、帳面の束を抱えて、火の入っていない提灯を提げている。
「こんな夜更けに、貴妃さまの宮の裏で何を」
「お前こそ、何をしている」
「荷造り係です。冬物の確かめに」
「夜中にか」
「夜中にです」
男は私を上から下まで眺めたので、私も負けずに、下から上まで眺め返してやった。
日に焼けて節の太い手が、角のすり切れた帳面を抱えている。
「どこの係ですか。帳簿係?」
「……そんなところだ」
なのに、足もとだけが妙に立派だった。月明かりでも分かる、縫い目のそろった黒い靴。
「帳簿係のくせに、いい靴ですね」
言ってから、しまったと思ったけれど、もう遅い。
男は自分の靴を見下ろして、首をかしげる。
「……そうか?」
本気で分かっていない顔だ。靴に興味がないのか、いい靴しか履いたことがないのか。
私は陛下のお顔を知らない。陛下は十五で都に来られてから、長く奥の宮に匿われていたと聞く。下働きの荷造り係が拝める機会など、一度もなかった。
それに陛下なら、正面から、鈴と儀式つきでお渡りになる。
「では、なぜ裏から?」
「正面から入ると一刻かかる。面倒だ」
男はそれだけ言って、私の手もとに目を落とした。
視線が、手首のところで止まる。荷縄の跡がある場所だ。
何か言われるかと身構えたけれど、男は何も言わずに背を向けた。
そのまま、芙蓉さまの宮の裏口へ。こん、こん、と短く二度叩いて、中へ消えた。
……待って。
お渡りの夜に、帳面を抱えた男が、貴妃さまの宮へ、裏口から。
小満の言っていた「男」は、城下の店ではなく、こっちだったのでは?
◇
私は足音を殺して、窓の下へ回りこんだ。
格子窓に張った紙に、灯りに揺れる影が二つ映っている。
「……もっと、ゆっくり」
芙蓉さまの声だ。
心臓が口から跳ねて出るかと思った。陛下のお渡りの夜に、裏口から来た男と?
それはもう退職代行ではなく、私の首が飛ぶ案件では?
「三千二百……いや、三千二百五十」
……ん?
ぱちぱちと、算盤の珠をはじく音がする。
「絹が四十反、炭が百二十俵。今月も、炭だけ去年の倍ね」
「御用達の仕入れか」
「ええ。茶も同じよ」
色っぽいと思った私の三十秒を、返してほしい。
窓の向こうでしているのは、後宮の出納の帳簿の読み合わせだった。どこにいくら払ったかを、一行ずつ声に出して確かめている。
芙蓉さまの指先の硬さは、珠をはじく指。胸に抱えていた四角い包みは、帳面。
夜のお渡りの正体は、算盤の音だったのだ。
ほっとしたとたん膝から力が抜けて、私は壁に背中をあずけた。
窓の向こうで、芙蓉さまがぴしりと言う。
「陛下、桁が違います」
……陛下?
いま、陛下と言った?
部屋の中にいるのは、さっきの男だけのはずだ。
帳面を抱えて、生け垣の陰を進んできた、背の高い男。
正面から入ると一刻かかるから面倒だと言った、あの男。
私は袖を口に押し当てて、悲鳴を飲みこんだ。
帳簿係のくせに、いい靴ですね。
私はさっき、陛下に向かって、そう言ったのだ。




