第1話 後宮の出口は棺だけ
後宮の出口は、ひとつしかない。
北門から運び出される、白木の棺だ。
……というのが、私が裏の仕事を始めるまでの、この国の常識だった。
「辞めさせて」
夜更けの荷造り部屋に、かすれた声が落ちてきた。
戸口には、空の行李がひとつ置かれている。裏の仕事を頼むときの合図だ。
その横で、頭から布をかぶった女が、肩で息をしていた。
布のすきまから、金の簪がちらりとのぞく。
あれ一本で、私の三年分の給金が飛んでいく。
「……どちらさまで?」
「何芙蓉」
貴妃、何芙蓉。陛下のお渡りがある、この後宮でただひとりの妃。
うそでしょ。ここ、行李と縄しかない物置ですよ。
「陛下の寵愛が重すぎて、身がもたないの」
……うそだ。
声は震えているのに、目はまったく震えていない。
それに、彼女が胸に抱えた包みの角が、やけに四角くて硬い。
恋文の束か、毒の小瓶か、それとも、まったく別の何かか。
私は縄を置いて、頭を下げた。
「承ります。ただし、本当の理由を伺ってからです」
荷造りは、嘘の上にはできませんので。
◇
とはいえ、貴妃さまを行李に座らせるわけにはいかない。
私は物置でいちばんましな腰掛けの埃を袖で払い、欠けていない茶碗を探して、三つめでやっと見つけた。
「どうぞ。安い茶ですが、熱さだけは一級品です」
芙蓉さまは布をかぶったまま茶をすすり、ほんの少しだけ眉を寄せた。
お口に合わなかったらしい。貴妃さまの舌は、ずいぶん正直だ。
私、宋鈴花の表の仕事は、後宮の荷造り係である。
妃が位を上げて広い宮へ移るときは、その荷を詰めて運ぶ。
妃が亡くなって棺で北門を出るときは、残った荷を詰めて、実家へ送り返す。
十歳でここに来てから十一年、詰めた行李はもう数えきれない。
そして詰めながら、ずっと同じことを考えていた。
妃は、位と俸禄をもらって宮仕えをしている。
つまり、職だ。
職なら、辞められる。
……はずなのに、これがちっとも簡単ではない。
妃が辞めるには、陛下のお許しと、誰もが「それなら仕方ない」とうなずく理由が要る。
理由が立たないまま出ていけば、妃の実家は罰を受け、陛下は「妃に逃げられた皇帝」と笑われる。
だから、これまでの出口は棺だけだった。
その横に、私は棺じゃない出口を開けた。
才人の江さまは、「陛下のご長寿を祈るため、山の尼寺にこもる」と言って出ていった。
才人というのは妃の位でいちばん下で、陛下のお顔を入宮の日に遠くから見たきり、という方も多い。
江さまの荷は、行李ひとつだった。
母上の形見の櫛と、扇が一本。後宮に四年いて、増えたのは扇だけだった。
夜明けの北門で輿の簾が少しだけ上がり、江さまは泣きそうな顔で笑った。
私は腰を折って、小さく送った。
「ご退宮、おめでとうございます」
江さまで、七人目。
七人とも、面子の立つ理由をこしらえて、堂々と北門をくぐった。
報酬は、出ていく妃からいただく。
相場は退職金の一割で、我ながら良心的な値段だと思う。
棚の上の壺には、自分で自分を身請けするための銀が貯めてある。
目標は三百両で、いまは二百五十八両。
あと、四十二両だ。
◇
「それで、本当の理由は」
私が聞くと、芙蓉さまは茶碗を置いた。
「言わないわ」
即答だった。
「では、どなたか想い人でも?」
「その想像力は、荷造りに使いなさい」
ぴしゃりと戸を閉められた気分だ。この方、強い。
「条件だけ言うから、覚えてちょうだい。三日後の献上茶の日までに、わたくしをここから出して。それと、陛下には絶対に知られないで」
……条件が、ひとつめから無茶だ。
献上茶の日というのは、御用達の茶商が、新茶を陛下に献じる日だ。
陛下のおそばには、もちろん寵妃が控える。
そんな日に、後宮でいちばん目立つ妃をいなくさせろと言うのだ。どうやって?
私は返事のかわりに、芙蓉さまの手を見た。
茶碗を持つ右手の、親指と人差し指の先だけが、妙に硬くなっている。
琴か、筆か、それとも別の何かか。
「……何を見ているの」
「手荒れの具合です。冬に向けて、軟膏を荷に入れるかどうか考えておりました」
半分は本当だ。
芙蓉さまは立ち上がって布を深くかぶり直し、戸口でふと思い出したように振り返った。
「そうそう。荷は、城下の三つ目の角の店に送ってちょうだい」
城下の、三つ目の角の店。
貴妃さまの荷が、どうして実家ではなく、城下の店に?
「それから、献上茶の日に出る新茶は、飲まないほうがいいわよ。あの茶商の新茶、去年の値の三倍なの。中身は古いのに」
それだけ言い残して、芙蓉さまは夜の中へ消えていった。
貴妃さまが、茶の値段に詳しすぎる。
◇
私は戸を閉めて、空になった茶碗を見下ろした。
指を折って、数える。
依頼人は、陛下のお渡りがある、ただひとりの妃。
期限は、三日。
陛下には、知られてはいけない。
しかも、本当の理由は教えてもらえない。
……無理では?
もう一度、指を折り直す。
やっぱり無理だ。どう数えても、無理が四つ並んでいる。
陛下に知られずに? 寵妃を? 三日で?
部屋の隅で、宮女見習いの小満が、行李を枕に寝返りを打った。
「……鈴花さま、おかわり……」
この子は、夢の中でも何か食べている。
私は棚の壺を見上げた。
あと、四十二両。
「……とりあえず、いちばん大きい行李を出しておこう」




