第11話 干し柿と荷網
昼の西の回廊で、私は柿の葉を一枚、日にかざした。
まんなかから、すっぱりと二つ。
切り口には、ぎざぎざが一つもない。
足もとには、同じように切れた葉が、あと十七枚も落ちている。
……幽霊に、こんなにきれいな切り方ができる?
「見てくる」
あの夜、陛下はそれだけ言って、一人で回廊へ出ていこうとした。
刃物の影を、皇帝が自分で追いかけてどうするんですか!
私は袖をつかんだまま離さず、夜回りの提灯が来るまで、戸口で踏んばった。
それから、正体が分かるまで物置には来ないでください、と頼んだ。
陛下はずいぶん長いこと黙ってから、「分かった」とだけ言った。
それで、もう三晩、物置に陛下がいない。
ゆうべ、私は茶碗を二つ出しかけて、一つを棚に戻した。
「鈴花さま、やっぱり幽霊ですよー」
回廊の入り口から一歩も入ってこない小満が、遠くから声をかけてくる。
「昔、この回廊で亡くなった妃さまが、夜になると刀を持って歩くんですって。厨房の子が言ってました!」
「刀を持って?」
「だって、人の手で、そんなにきれいに切れます?」
それは、たしかにそうなのだ。
「でも、夜回りの宦官さんは、刃物を持った男の人が、夜な夜な誰かとこっそり会ってるんだって言ってました」
小満は入り口の柱の陰で、自分の言った話に自分で震えている。
私はしゃがんで、床の砂を見た。
足あとが残っていた。
女の靴にしては、ずいぶん大きい。
……こっちは、男の人の話に一票。
ところがその足あとは、どこへも行かずに、柱と柱のあいだの四角の中ばかりを、何十回も踏んでいた。
幽霊も、逢い引きの殿方も、同じ所をそんなにぐるぐる歩くもの?
四角を出た足あとは、回廊の先の、才人たちの小さな宮のほうへ消えていた。
◇
才人というのは、妃の位でいちばん下だ。
その宮の前を通りかかって、私は春の荷のことを思い出した。
才人の班菫さまの荷を、この宮まで運んだのは私だ。
その荷の中に、琴の箱が一つあった。
琴にしては重すぎて、担ぐたびに、中でかちゃりと金物の音がしたのだ。
そういえば、この半年、あの宮から琴の音を一度も聞いたことがない。
……確かめるには、本人に出てきてもらうしかない。
◇
荷造り部屋の軒下には、毎年、冬のあいだ干し柿を吊るしてある。
西の塀の柿の木から、私がもいでくるものだ。
その夜、私は干し柿を一つ残らずはずして、回廊の梁から紐でずらりと吊るした。
毎晩、柿の葉を斬っているのなら、吊るした柿も、きっと斬らずにいられない。
床には、荷を縛る荷網を広げて、砂をかけておく。
網の縄の端は、荷造り部屋の格子窓の内側まで引いてきた。
あとは、部屋の灯りを消して、待つだけだ。
すぱん。
夜も更けたころ、回廊のほうで、短い音がした。
すぱん、すぱん。
干し柿が一つずつ、床に落ちていく音だ。
格子窓の向こうの白い壁を、細長い影が、一度だけすっと横切った。
小満が私の袖をつかんで、蚊の鳴くような声で言った。
「……鈴花さま。いま、いますよね」
私は答えずに、縄を握り直した。
指先が、いつのまにか冷えきっていた。
すぱん、と音がして、影が一歩、網の上へ踏みこんだ。
今!
私が縄を力いっぱい引くと、回廊で、どさっと重いものの倒れる音がした。
それきり、何の音もしなくなった。
暗い部屋の中で、小満と顔を見合わせる。
「……見に行きます?」
「……朝にしよう」
◇
朝の回廊で、荷網の中に、若い娘が一人入っていた。
色が白くて、手首が細くて、まつげが長い。
後宮の妃を全部並べたら、いちばん先に倒れそうな、儚げな顔だ。
その儚げな娘が、細身の剣を抱いて、干し柿を一つくわえたまま、すうすうと眠っている。
「鈴花さま……幽霊が、干し柿食べてます……」
小満の声で、娘のまつげがぱちりと上がった。
娘は網の中で膝をそろえて座り直し、干し柿を口から外して、きちんと頭を下げる。
「おはようございます。才人の、班菫です」
網の中で、礼儀正しい。
「あの夜、戸口にどなたかいらしたのは見えました。驚かせてしまって、申し訳ありません」
陛下の背中に刃の影が走ったのは、この方の稽古の剣が、月明かりで壁に映っただけだったのだ。
聞けば、班菫さまは武家の三女で、剣のほかに取り柄がないという。
才人は剣を持てないから、琴の箱に隠して入宮した。
昼は人目があるので、稽古は夜しかできない。
足あとが大きかったのは、稽古のときだけ履く、兄のお下がりの靴のせいだった。
干し柿は、吊るされていたので、斬らずにはいられなかったらしい。
……でしょうね。そのために吊るしたので。
「辞めたいです。外で、人を守る仕事がしたい」
班菫さまはそう言ってから、網の目ごしに私をじっと見た。
「荷造り係どの。……あなたが、妃を逃がすという、うわさの?」
うわさ、後宮の中まで来てる!
私は咳ばらいを一つして、いつもの手順を踏んだ。
「お受けするかどうかは、本当の理由を伺ってからです。なぜ、人を守る仕事を?」
班菫さまは少しだけ黙ってから、短く言った。
「八つのとき、山道で、荷車を守ってくれた女の護衛がいました。……あれに、なりたいのです」
班菫さまは、それを言うあいだ、一度も私から目をそらさなかった。
「承ります」
◇
その朝のうちに、私は尚宮さまに呼ばれた。
尚宮さまは今日も、筆を止めず、顔も上げない。
「年が明けたら、北門には宰相府の役人が立ちます。出ていく荷と人は、一つずつ改められます」
「……宰相府が、後宮の門を?」
「胡という茶商が、後宮には妃を逃がす者がいると、方々で言っているそうです。宰相さまが、それを朝議に出されました」
背中が、すっと冷たくなった。
「陛下は、お止めには」
「止めれば、陛下がその者をかばったことになります」
尚宮さまはそこで筆を置き、ようやく顔を上げた。
「荷造り係の仕事が、ずいぶん減りそうですね」
年越しまで、四十日あまり。
元日からは、こしらえた理由が、もう一つも門を通らない。
班菫さまを出すなら、その前だ。
才人が辞めるのにいちばん通りやすい理由は、病で療養することだと、昔から決まっている。
……つまり私は、後宮でいちばん儚げで、いちばん元気な才人を、四十日のうちに「病人」にしなければならない。




