第12話 後宮でいちばん元気な病人
「おかわりを、お願いします」
朝の部屋で、才人の班菫さまが、三杯目の粥の椀を差し出した。
昼には、宮医さまの診立てがある。
それまでに、この方を病人に見せなければならない。
見た目だけなら、文句なしに合格だ。
色白で、細くて、伏し目がちで、寝台に横になれば、今にも消えてしまいそうに見える。
……見た目だけなら。
「班菫さま、脈を拝見しても?」
手首に指を当てると、どん、どん、と太鼓みたいな脈が、私の指を押し返してきた。
これは病人の脈じゃない。祭りの日の脈だ。
戸口で見張りをしていた小満が、ふと寝台の下をのぞきこむ。
「鈴花さまー、寝台の下、ほこりがすごいですよー」
寝台に横になっていた班菫さまが、すっと起き上がった。
「どうぞ、掃いてください」
班菫さまは寝台の端を片手でつかんで、ひょいと持ち上げた。
寝台が、宙に浮いている。
病人のすることなの、それ?
「班菫さま、それ、宮医さまの前では絶対にやらないでくださいね」
「はい」
返事のきれいさだけは、後宮でいちばんかもしれない。
「それと、宮医さまに『どこがお悪い』と聞かれたら、『胸が苦しい』とお答えください」
「胸は、苦しくありません」
「……ですから、そうお答えいただければ」
「嘘は、言えません」
班菫さまは、申し訳なさそうに目を伏せた。
伏し目は、本当に病人みたいなのに。
◇
「陛下の、お見舞いにございます」
表の戸の外から、宦官の先触れの声がした。
供を二人連れて、昼の光の中を、陛下が正面から入ってくる。
才人の部屋に、皇帝のお見舞い。
明日には、後宮じゅうのうわさになっているはずだ。
「物置に来るなと言われたからな。表から来た」
そういう意味で言ったんじゃないんですけど!
「三晩、段取りを見ていない。入れろ」
段取りに、入れろ?
陛下は寝台の脇の腰掛けに座って、私の顔をまっすぐ見た。
私は声を落として、段取りを二行で話した。
昼の診立てで病と決めてもらい、療養の名目で、年越しの前に門を出す。
「年越しまでに出せばいいのだな」
「……はい」
陛下は班菫さまの顔を眺めて、懐から、土のついたごつごつした根っこを取り出した。
「山の生姜だ。かじれば、顔が赤くなって汗が出る。熱があるように見える」
山の村では、風邪のふりをして畑仕事を休むときに使うのだという。
皇帝が、そんな知恵を知っていていいの? 懐に生姜を入れて歩く皇帝って、どうなの?
班菫さまは根っこを受け取り、礼儀正しく一礼して、がりっとかじった。
儚げな顔が、みるみるうちに、ゆでた海老の色に変わっていく。
額に、玉の汗。
すごい、ちゃんと病人っぽいよ!
「……体が、ぽかぽかしてきました」
班菫さまは、すっと立ち上がった。
「素振りがしたいです」
「座ってください!」
山の生姜は、顔を赤くするのと一緒に、元気まで足してくれるらしい。
◇
昼。
宮医さまは白いひげをしごきながら、もったいぶった足どりで入ってきた。
寝台には、赤い顔で汗をかいた班菫さま。
部屋の隅には、なぜか陛下。
宮医さまは陛下に深々と礼をしてから、班菫さまの顔をのぞきこんだ。
「ふむ。これは、熱がおありのようですな」
よし、よし、そのまま!
宮医さまが手首に指を当てて、眉を寄せる。
太鼓の脈に、困っている。
「して、才人さま。どこがお悪いのですかな」
班菫さまが、背筋をしゃんと伸ばした。
「悪い所は、ございません! 今朝は、お粥を三杯いただきました!」
戸口の小満の前髪が、その声でふわりと揺れた。
宮医さまの指が、ひげの途中に引っかかったまま動かなくなる。
小満が、戸口で両手で口をふさいでいる。
この方、嘘がつけないんだった!
段取りが、音を立てて崩れていく。
いや、まだだ。
「はい、宮医さま。悪い所が一つもなくて、お粥を三杯召し上がるのでございます」
私は、一歩前に出た。
「それこそが、この方の病でございます。元気が余って、体の中で燃えているのです。ほら、このお顔の色。この汗」
宮医さまは班菫さまの赤い顔を見て、汗を見て、それから陛下の顔を見た。
宮医さまの目が、きらりと光る。
誰も見抜けなかった珍しい病を見抜く、というのは、宮医さまのいちばんの好物なのだ。
陛下は黙っている。
宮医さまは、こほん、と咳をした。
「……ふむ。たしかに、気が内に余って身を焼く病というのは、古い書にもございますな」
あるのね。
「冷ますには、山の冷たい風に当てるのが、よろしいでしょう」
宮医さまが、ひげをしごく手を再開した。
そこで、陛下が口を開いた。
「山の風なら、何芙蓉の茶の荷車が、ちょうど山を回っている。それに乗せて、療養させよ」
それ、私がこのあと言うつもりだったのに!
芙蓉さまには、茶の荷車の護衛を一人増やしてほしいと、ゆうべのうちに頼んである。
でも、陛下の口から出た「療養させよ」は、宮医さまの診立てよりずっと重い。
これで、班菫さまは誰にも文句を言われずに門を出られる。
部屋を出たところで、陛下が足を止めた。
「三晩、茶がまずかった」
……城の茶のほうが、ずっと上等でしょうに。
そう言い返そうとしたのに、喉の奥で言葉がつかえた。
「……では、今夜から、また段取りを見にいらしてください」
陛下は、ああ、とだけ言って、表の戸から帰っていった。
◇
その日の夕方、北門の前に、芙蓉さまの茶の荷車が並んだ。
茶を仕入れに山を回る荷車で、山道には山賊も出るので、護衛はいくらいても足りないのだという。
班菫さまは琴の箱を背負い、療養の身とは思えない足どりで荷車のあいだを歩いてくる。
荷車の上から、芙蓉さまが班菫さまを見下ろした。
「病人にしては、荷の担ぎ方がいいわね」
「療養中です」
班菫さまは真顔で答えた。
「荷造り係どの。お礼は、銀ではお払いできません」
班菫さまは琴の箱を背負い直して、私に向き直った。
「そのかわり、困ったときは、どこへでも駆けつけます」
できれば、銀でいただけるほうが、何倍も助かります!
そう言いかけたけれど、声にはしなかった。
門番が、出ていく荷車と人の数を、番小屋の帳面に書きつけていく。
荷車が動きだす。
班菫さまは門をくぐる前に一度だけ振り返って、琴の箱ごと、深く頭を下げた。
棺じゃない出口から出た妃は、これで十人目。
年越しの門が閉まる前に、まず一人だ。
荷車の列が坂の向こうへ消えたとき、門の脇の番小屋で、誰かが北門の帳面をめくっているのが見えた。
もみ手の茶商、胡だ。
御用を失った茶商が、どうして北門の帳面を?
その隣に、見慣れない紺の役人服の男が一人。
あの服、どこの役所の?
胡は私に気づくと、にこりと笑って、帳面を閉じた。
門番が、声をひそめて寄ってくる。
「荷造り係さん。明日、宰相さまが、名家のお嬢さまがたを連れて、後宮を見て回られるそうですよ」
明日?
……私も明日、急に寝込めないかな。




