第10話 出た二人と残った一人
「一つ、二つ。……あら、二つ?」
夕方の荷造り部屋で、何芙蓉さまが、棚の茶碗を指さして数えている。
あの夜は布をかぶってここへ来た貴妃さまが、今日は商人の袖をきりりとからげて、正面から入ってきた。
御用茶商の総取締として、後宮へ冬の新茶を届けに来たのだ。
茶の箱を運ぶのは人足の仕事なのに、芙蓉さまは「自分の目で検めるわ」と、箱と一緒に荷造り部屋まで来てしまった。
元貴妃さまを止められる門番なんて、北門には一人もいない。
「ねえ。ここ、物置よね?」
「物置です。行李と縄しかない、立派な物置です」
「その物置に、どうして欠けていない茶碗が、二つも並んでいるのかしら」
この部屋の茶碗は、だいたいどこかが欠けている。
無事なのは、私の茶碗と、陛下がある晩「これで飲む」と持ってきた、青い茶碗だけだ。
芙蓉さまは青い茶碗を手に取って、底をのぞきこんだ。
「御用窯の青磁ね。それに、この茶渋」
「茶渋、ですか?」
「ひと晩やふた晩じゃ、こんな色はつかないわよ」
荷を見て本当のことを読むのは、私の仕事なんですけど!
それを、よりによって私の茶碗でやります?
「陛下が、段取りを見にいらっしゃるんです。出す前に見せろ、というお約束なので」
「毎晩、段取りを?」
「……毎晩、段取りがあるわけでは、ないですけど」
芙蓉さまは、ふふっと笑って茶碗を棚に戻し、それから声を落とした。
「笑えない話も、一つあるの。茶商の胡が、城下で言いふらしているのよ。後宮には、妃を逃がす荷造り係がいるって」
献上茶の日に、古い茶を去年の三倍の値で売りつけようとした、あの胡だ。
「しかも胡は、このところ、宰相さまのお屋敷に毎日のように出入りしてるの。宰相さまの耳に入ったら、あなたの裏の仕事はおしまい。見逃してきた陛下まで、笑い者よ」
私は、ほどきかけの荷縄を、思わず握りしめていた。
「それと、これ。山の村で、預かってきたの」
茶を仕入れに山を回る芙蓉さまの荷車は、余岳さまの村も通るのだという。
ほどいた包みから出てきた薬草の束は、私の背丈ほどもあって、鼻の奥がつんとするほど苦い匂いがする。
山の薬草を送るとは言っていたけれど、量までは言っていなかった。
束のまん中には、私のこぶしほどもある灰色の毛のひと房が、紐でくくりつけてある。
……饅頭、これ、また大きくなったな。
「お店は、いかがですか」
「弟の賭け事の銭を、一枚残らず帳簿に戻させたわ。いまは黒字よ」
弟さん、ご愁傷さまです。
「鈴花さまー! 大変ですー!」
戸を突き破る勢いで、小満が飛びこんできた。
「陛下の新しいお渡り先は、荷造り係の物置らしいって、後宮じゅうのうわさです!」
芙蓉さまの目が、ゆっくりと棚の青い茶碗に向かう。
あの目つき、帳簿の桁の間違いを見つけたときのものだ。
「……小満。それ、どこで聞いたの」
「洗い場のおばさんです! おばさんは厨房の子から聞いて、厨房の子は、呉さまのお引っ越しを手伝った子から聞いて、その子は、廊下で、行李の中から大声で……」
小満の声が、だんだん小さくなっていく。
「……行李の中から、大声で?」
「……小満でした!」
まさかの火元、本人!
「で、でも小満は、身請けはお嫁さんのことですって言っただけです! お渡りのところは、誰かが勝手に足しました!」
「足したほうも足したほうだけど、元を作ったのは、あなたでしょ!」
「それに、陛下が毎晩来るのは、ほんとですし!」
芙蓉さまが、袖で口もとを隠した。
肩が、小刻みに揺れている。
総取締どのは、笑いをこらえるのが、ずいぶんお下手でいらっしゃる。
「あっ、それと、もう一つ! 西の回廊に、夜な夜な、刃の影が出るそうです!」
「それも、あなたが足したんじゃないでしょうね?」
「これは本当です! 見た子がいます!」
その「見た子」も、どうせ洗い場のおばさんの、そのまた誰かよね。
芙蓉さまは笑いをおさめて、新茶の小さな缶を、青い茶碗の隣に置いた。
「お渡り先なら、物置にも、いいお茶を置いておきなさい」
◇
日暮れの北門を、空の茶箱を積んだ芙蓉さまの荷車が、からからと出ていった。
見送りながら、私は指を折る。
芙蓉さまが布をかぶって来たあの夜から、この門を出ていった妃さまが、二人。
芙蓉さまと、余岳さま。
出ないと言って残った妃さまが、一人。
文英さま。
……それから、もう一本。
三百両を棚に置いたまま、出そこねた荷造り係が、一人。
最後の一本は、そっと伸ばしておいた。
番小屋の前には、去年までこの門に三十年立っていた、元門番の老陳がいた。
老陳は黙って、紙の包みをひとつ差し出す。
包みには、「薬草」と書いてある。
「尚宮さまに」
それだけ言って、老陳は門の外へ帰っていった。
三十年ぶんの無口は、門番をやめても、まだ抜けないのね。
受け取った包みから、乾いた花の匂いがする。
余岳さまの薬草の束は、鼻が曲がるほど苦い匂いだったのに。
◇
その夜も、陛下は来た。
いつもの行李に腰を下ろし、いつもの青い茶碗で、芙蓉さまの新茶を一口飲む。
「陛下。うわさになってます。物置に通う皇帝って」
陛下は茶碗を置いて、少しだけ首をかしげた。
「物置ではない」
でしょうね。皇帝の物置通いなんて、聞こえが悪すぎるもの。
「お前のところだ」
……お前のところ?
私は、さっそく、その言葉の裏を探しにかかった。
荷造り係の仕事場、という意味? それなら「荷造り部屋」と言えば済む。
段取りを見に来る所、という意味? 今夜は、段取りの話を一つもしていない。
……裏が、一個も出てこない。
陛下は何も足さずに、茶をすすっている。
私は手の中の茶碗を持ち上げて、顔の前に立てた。
茶碗の向こうから、陛下の声がする。
「その茶碗は、空だ」
「ぞ、存じております! これは、茶碗の底の検めです!」
陛下は黙って急須を取り、私の茶碗に、新茶をなみなみと注いだ。
「検めるなら、入れてからにしろ」
なみなみと注がれた茶碗は、もう顔の前に立てられない。
しかたがないので、私はうつむいて、熱い新茶にふうふうと息をかけ続けた。
◇
陛下が帰ろうと立ち上がって、戸を開けた。
戸の外は、月明かりの西の回廊だ。
その白い壁を、細長い影が、すっと走った。
刃の形をしていた。
考えるより先に、私は陛下の袖をつかんで、部屋の中へ引き戻していた。
もう一度、壁を見る。
影は、どこにもない。
「……今のは」
陛下の声が、低い。
足もとに、柿の葉が一枚、ひらりと落ちてきた。
まんなかから、すっぱりと二つに切れている。




