78-3
「どげんしたと? 志藤さん」
「へ⁉ えっと……」
俺は、床に落ちている黒髪を、恐る恐る指さした。
宇佐森さんの顔から、血の気が引いていく。
「こ、ここっ、これは違うばい!」
「ちょっと! 一旦包丁を置いてください!」
慌てふためく宇佐森さんから、包丁を取り上げる。
目がギョロギョロと泳ぐほど動揺している宇佐森さんを見て、冷静になってきた。
「かー! 気ばつけとったとにやらかしたぁ!」
宇佐森さんは、豪快に髪を掻きむしる。
その姿には、もはや小動物らしい可愛らしさは感じられなかった。
「……こうなったら、腹ば切るしかなか」
宇佐森さんの視線が、俺の持つ包丁へと向く。
俺はとっさに、包丁を背中に隠した。
「貸しぇ! そん包丁で腹ば切る!」
「何言ってんだ⁉」
跳びかかってくる宇佐森さんをかわし、包丁を隠しながらリビングへと逃げる。
「がるるる……」
宇佐森さんは、唸り声を上げながらジリジリと迫ってくる。
もはや、飢えた獣にしか見えない。
「うちを事件現場にするつもりかよ……!」
「年上ん言うことは聞くもんばい……腹ば切らしぇろ!」
「うおわぁ⁉」
再び跳びかかってきた宇佐森さんを、寸前でかわす。
この女、さっきから動きのキレが半端じゃない。跳びかかることに慣れているとしか思えない。
「がぁ!」
宇佐森さんが掴みかかってくる。
――――やむを得ない。
俺は宇佐森さんの腕を掴み、一本背負いを決める。
ソファーに落とされた宇佐森さんは、何が起きたか分からないといった顔で、俺を見上げていた。
「ましゃか、こんアタシが投げらるーとは……」
ソファーで胡坐をかいている宇佐森さんは、深くため息をついた。
タイトスカートを穿いているせいで、さっきから目のやり場に困っている。ただ、それを指摘すると、すぐにでも噛みつかれてしまいそうでなかなか言い出せない。
「あんた、なかなかやりなんな」
「ど、どうも」
「アタシ、地元じゃ負けなしやったんやぞ。もっと喜べや」
「いや、そう言われても。てか、その口調って……宇佐森さん、福岡出身ですか?」
「そうばい。博多のデンジャラスラビットとは、アタシんことばい」
宇佐森さんは、そう言って胸を張った。
――――なんとも言えない異名だな……。
「てか、気が抜けて方言で話してたわ。できるだけ標準語で喋らんとな」
「助かります」
聞き取れないほどではないが、聞いてから理解するのにラグが生まれてしまうのだ。
「で、その頭は?」
「あー、今年の頭に上京したんだけど、地元で黒染めするのを忘れちまってな。こっちで染めよう思うたら、どこの美容院もバッカ高くて……。セルフでやるにも、ほらアタシって不器用だろ? 仕方なく、カツラ被って誤魔化してんだ」
「……なるほど」
「まさか、こんなに早くバレるとは……いつもは猫被ってんだ。こんな態度じゃ、周りを怖がらせるだけだからな」
バツの悪そうな顔をして、宇佐森さんは頭を掻いた。
「そうだ、あんたもアタシに敬語使わなくていいよ」
「いや、そういうわけにはいかないですよ」
「負けたんだから、アタシにはあんたの下につく義務があんの。分かる?」
思考回路がヤンキーすぎる。
タメ口なんて、どうにもしっくりこないが、こっちが折れなければまた跳びかかってくるかもしれない。
「……分かった」
「よし、じゃあこれからアタシは、あんたを兄貴って呼ぶ」
「それはやめてもらえる?」
そんなふうに呼ばせていることが玲たちにバレたら、俺が説教を食らってしまう。
「大丈夫だって! お嬢たちと一緒のときは、ちゃんと社会人モードでいるからよ!」
宇佐森さんがニッと笑うと、やけに尖った犬歯がチラリと見えた。
この人、素で笑うとかなり愛嬌があるな。
「……てか、あいつらのこと、お嬢って呼んでんのかよ」
「おうよ! そう呼んだほうがしっくりくるんだ! たまに本人たちにも言いそうになって、けっこー焦るぜ……」
なら、止めればいいのに。宇佐森さんが言うと、裏社会感が強すぎる。
「あ、そういやまだニンニク切ってねぇ」
スッと立ち上がった宇佐森さんを、俺は手で制した。
「あとは俺がやっとくから、座っててくれ」
「えー⁉ アタシにやらせてよぉ、兄貴ぃ」
「兄貴言うな。あんたの持ち方じゃ絶対ケガするから、今日は見学してくれ」
「……まあ、兄貴がそう言うなら」
宇佐森さんは、不満そうに頬を膨らませた。
精神的な疲労を感じながらも、さっさとペペロンチーノを仕上げていく。
「お~!」
その様子をカウンターの向こうから眺めていた宇佐森さんが、目を見開きながら歓声を上げた。おまけに拍手まで。
「ほんっとに手際いいな!」
「毎日やってるからな」
「すごかねぇ~……アタシなんて、こっち来てから毎日コンビニだわ」
「コンビニだって悪くないけど、栄養バランスは気をつけたほうがいいぞ。肝心なときに力が出ないから」
「大丈夫だって! 体は小せぇけど、頑丈さには自信があるからよ」
そう言って、宇佐森さんは胸を叩く。
ひどく華奢に見えるが、あの身体能力を見たあとだと、その言葉も信じられる。
「でも……あんたの飯を食べてるから、お嬢たちもあんなに動けんのかな。なんか、勝てる気しねぇんだよなぁ」
宇佐森さんが首を傾げる。
何をどう勝つ気なのか気になるところだが、宇佐森さんには、玲たちは自分よりも強い存在と認識されているらしい。
「食ってみりゃ分かるかもな」
完成したペペロンチーノを一瞥し、俺は小さく笑った。
「ん〜! ばり美味かぁ~!」
多めによそったペペロンチーノが、瞬く間に消えていく。
「ニンニクのガツンとした感じと、唐辛子のピリッとした辛さがたまらん!」
「気に入ってもらえてよかったよ」
「おう! 毎日食べたいくらいだ!」
さっき、栄養バランスについて指摘したばかりなのに。
それにしても、気持ちのいい食べっぷりに、思わず頬が緩む。
シンプルが故に、ペペロンチーノは奥が深い。素材の味がそのまま出るから、ニンニクやオリーブオイルの種類を変えるだけで、また違った味わいになる。
今日に至るまで、俺は色々なパターンを試してきた。その努力が報われた瞬間というのは、やはり嬉しいものだ。
その後、皿が綺麗になるまで、宇佐森さんの手が止まることはなかった。
「はー! ごちそうしゃまやった」
「お粗末様」
宇佐森さんは、空になった皿を見つめ続けている。
「もしかして、足りなかったか?」
「いや、腹はいっぱいだけど……お嬢たちは、毎日こんな美味い飯が食えるのかと思ってな」
「……さっきから褒めすぎだ」
宇佐森さんから目を逸らす。相変わらず、ストレートな言葉に弱いのだ。
「何言ってんだ、褒め足りねぇくらいだよ。兄貴の飯は、なんかこう……力が湧いてくる感じがする」
宇佐森さんは、ギュッと拳を握りしめる。
言葉の真意が分からず、俺はその顔を覗き込んだ。
「なんだよ、ガンつけてきて」
そんなつもりはないと、慌てて首を横に振る。
喧嘩腰になると、いちいち言動が怖いな、この人。
「はぁ……でも、確かに兄貴の言う通りだな。飯はちゃんと食わねぇと力が出ねぇってわけだ」
突然膝をついた宇佐森さんは、両手を床につけ、深く頭を下げた。
いわゆる土下座だが、やけに様になっていて、すごく怖い。
「アタシはまだまだ未熟者だ。だから、兄貴の背中を追わせてもらいやす」
「あ、ああ、よろしく……」
言葉選びがどうしてもマネージャーのものとは思えないが、人一倍やる気があるのは間違いなさそうだ。
ならば、こちらもできる限り応えるべきだろう。そうすれば、玲たちの仕事の助けにもなるはずだ。
「よし、兄貴! 次は何をする? なんでも手伝うぜ!」
「……じゃあ、皿洗いを頼む」
「うっす!」
宇佐森さんが、皿を重ねて運んでいく。
その後、何度も皿を落としそうになったため、代わりに俺が洗うことにした。
この人、本当に不器用だな。




