2話 婚約の夜に
結局、フィオリアとエルシオンは正式に婚約することとなった。
フィオリアがまだグランヴェル帝国の成人の18歳に満たない17歳のため、婚約という形になったのだ。
婚約の儀の日。
衣装を着せられたフィオリアは、鏡の前で自分の顔を見つめた。
金のふんわりとした髪。蒼い瞳。美しい桃色のドレス。まるで絵本の姫君みたいだった。
けれど、鏡の中の自分は幸せそうではなかった。
頬は少しこけ、瞳には光がない。
式場には、グランヴェル中の貴族たちが集まっていた。
好奇の目。
侮りの目。
値踏みする目。
祝福のためではない。
亡国の姫が、どのように敵国の王太子の隣に立つのかを見物しに来たのだ。
(絶対泣いてやるもんですか。
滅ぼされたとしても、私はエルファードの王女なんだから)
祭壇の前で、エルシオンが待っていた。
銀色の絹のような長い髪は後ろで束ねられ、金の瞳は冷たく、感情の読めない表情。
ただ、軍服ではなく礼装をまとった彼は、やはり美しかった。
フィオリアはその美しさが憎かった。
(悪いようにしないって言ったくせに、婚約の儀まで結局直接会話すらできなかったんだから)
「亡国の姫にしては、綺麗じゃないか」
「エルファードの精霊の末裔なんでしょう? 変な子供が生まれないか心配だわ」
「どうしてエルシオン様は、あんな小さな国の姫を妻にしようとしているのかしら?」
民衆のそんな言葉を聞き、ますます心が冷たくなる。
フィオリアは唇の内側を噛んだ。
エルファード王国は、もう国ではない。
グランヴェル帝国エルファード領。
そう決まったらしい。
攻め入られたエルファードを守ってくれたことは確からしいが、結局は吸収されてしまったのだ。
けれど、その決定にフィオリアが関わることは一度もなかった。
(あの人が本当のことを言ってるのか嘘を言ってるのかわからないけれどーー。
絶対に機会は来る。
それまで折れちゃダメ、フィオリア。
あなたは国がなくなったって、エルファードの唯一の姫なんだから)
祭壇の段を上りながら、ひそかに決意を固めるフィオリアだった。
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婚約の儀の夜。
フィオリアは寝室に通された。
広い寝台。薄い灯り。白い花の挿された花瓶。
フィオリアは寝台の端に座り、両手を握りしめていた。
(まだ婚約だけれど、グランヴェルでは婚前交渉も当たり前と聞くわ。
……彼はその手の欲は薄そうな方に見えるけど、わからないわ)
王族の娘として、覚悟はしていた。
怖くない。
そう自分に言い聞かせる。
その時、静かにきしむ音をたてて、扉が開いた。
エルシオンが入ってきた。
フィオリアは思わず肩を強張らせた。
彼はそれに気づいたのか、扉の近くで立ち止まった。
「怯える必要はありません」
「……怯えてなどいません」
「そうですか」
エルシオンはそれ以上近づいてこなかった。
フィオリアは怪訝に思った。
「……こちらへ来ないのですか?」
「安心なさい、あなたが望まないことは何もしない」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
エルシオンは淡々と言った。
「今夜、あなたに何かを強いるつもりはありません」
フィオリアは言葉を失った。
敵国の王子。
愛のない夫。
自分を政治的に必要だと言った男。
その男が、まるで自分を気遣うように距離を取っている。
「しばらく会話ができず、不安な思いをさせてしまいました。
申し訳ありません」
その声色は、静かだが、優しげだった。
入り口側のソファにそっと腰掛け、穏やかな目線をフィオリアに向けている。
氷の王子と呼ばれる冷酷な彼の印象とは大きく異なるその姿に、フィオリアは少し驚く。
「一番お気になさっているだろうことですが、あなたのお父上は生きています」
「え……お父様が?」
その言葉を聞いた瞬間、フィオリアは頬のこわばりが解けたような気がした。
「お父様……生きていらっしゃったのですか、今どこにいらっしゃるのですか?」
「今は行方不明ということにしています。ですが、安全な場所へ逃がしました」
そう言って、エルシオンは小さな手紙を差し出した。
封蝋を見た瞬間、フィオリアの指先が震える。
エルファード王家の紋章。
そして、中の筆跡は紛れもなく父のものだった。
生きている。
その事実だけで、張り詰めていたものが崩れそうになる。
「……お父様」
堪えていた涙が頬を伝った。
エルシオンは、泣くフィオリアを静かに見守っていた。
「国王が生きていることは、当面の間、私達だけの秘密にしてください。
いつか必ず会えるように手配をします。
エルファードのことも、領とはなりましたが、当面はこれまでと同じ体制を維持する予定ですし、物資も送る予定ですから、あまり心配なさらないでください」
「……なぜ? どうしてそこまで考えてくださるのに、私達の国を滅ぼしたのですかーー?」
フィオリアが問うと、エルシオンは少しだけ視線を落とした。
「それはそうですね。
ーーー私はエルファードという国が好きです。
けれど、近年のエルファードは、国として残しておくには限界がありました」
その重い言葉に、フィオリアは目を見開く。
「精霊魔法を求め、多くの国があなた達を狙っていたことはご存じでしょう。
今回ドラグニグに侵攻されたことで、それが表面化してしまいました」
静かな声だった。
「このまま国として残せば、また同じことが起きるでしょう。
だから私は、グランヴェルの庇護下に置くことを選びました。
ーー支配ではなく、守るためです」
迷いのない声だった。
「エルファードは、唯一の精霊国家ーー踏みにじって使い潰すには惜しい国だ。
私は、あの国をそんな形で終わらせたくなかった」
エルシオンの声色が少し落ちた。
「……それに、私の大事な人が、エルファードの人間でした」
思いがけない言葉に、フィオリアは息を呑む。
「私は、その人が愛した国が無意味に滅ぶのを見たくなかった。
そしてその人との約束を果たすためにもーー」
フィオリアは、じっとエルシオンを見つめた。
金色の瞳は静かだった。
そこに愛情はない。
けれど、嘘も感じなかった。
悔しい。
けれど、エルシオンの言葉がすべて間違っているとは思えなかった。
(この方の名前に、大精霊を表す「エル」が入っているのも、何かの因果なのかもしれないわーー。)
「愛のない結婚になったことは申し訳なく思っています。
ですが約束しましょう」
エルシオンはまっすぐフィオリアを見る。
「私は、エルファードを守ります。
そしていつかあなたをエルファードにお返しいたします。
私は形だけの王となり、あなたは真に愛する人を見つけてもいい。
ーーいずれにしても、我が国と、あなたの祖国、双方にとって正しい形にしてみせます。
だからそれまで、私と共にいてください」
胸の奥で、何かがほどけた。
その瞬間。
テーブルの花瓶で、白い花がぱっと開いた。
「……っ」
フィオリアは慌てて息を呑む。
(いけない!
感情が漏れてしまったわ)
エルファード王族に時折現れる、精霊との共鳴。
強い感情が自然へ影響してしまう力ーー喜びは花を咲かせ、怒りは雷を落とすーーそんな力が、フィオリアにはあるのだ。
エルシオンは咲いた花を見つめ、少しだけ目を細めた。
「花が好きなのですか」
「……え?」
「嬉しそうに咲いたので」
フィオリアは顔が熱くなるのを感じた。
「白い花が好きです。母の髪色ーー銀色に似ているので」
そう答えると、エルシオンはわずかに笑った。
「では近いうちに、あなたへ花を贈りましょう」
どうしてこの人は、こんな風に心へ入り込んでくるのだろう。
敵国の王子なのに。
愛のない婚約者なのに。
フィオリアは咲いた花を見つめる。
悲しみも、怒りも消えていない。
国を取り戻したいという思いも変わらない。
それでも。
少しだけ、この人の隣にいてもいいのかもしれない。
そう思ってしまった自分に、フィオリアは戸惑った。
「おやすみなさい、フィオリア」
初めて名前を呼ばれた。
ただそれだけなのに、また白い花がほころぶ。
見られていませんように。
そう願いながら、フィオリアはそっと顔を背けた。
絶望しかないはずだった夜。
フィオリアは初めて、敵国の王子の優しさを知ったのだった。




