第7話:世界最強の聖女、温泉で牛乳を飲んだだけで「転生してよかった」と思う
月曜日の夜。
都心から電車で数時間離れた。
寂れた温泉街。
素泊まり一泊三千九百円。
入湯税込。
そんな格安温泉旅館にて。
ステラ――中身は三十八歳社畜おっさんの橘健太郎は。
フロントで鍵を受け取ると同時に。
スマートフォンを取り出した。
「よし」
側面ボタンを。
長押し。
カチッ。
画面が。
静かに暗転する。
「…………」
ステラは。
真っ暗になったスマホを見つめた。
【休み中のスマホ電源オフ】
それは。
前職のブラック企業時代。
どれほど夢見ても叶わなかった。
究極の贅沢である。
休日だろうと。
電話は鳴る。
深夜だろうと。
障害通知は飛んでくる。
『橘さん、ちょっとだけ確認いいですか?』
その。
『ちょっとだけ』
が。
三時間だったことも。
一度や二度ではない。
「ふふ……」
ステラの口元が。
ゆっくり緩む。
「もう鳴らねえ……!」
感動していた。
世界を救った時より。
よほど。
嬉しそうだった。
◇
翌朝。
三連休。
一日目。
「あ゛~~~~~~……」
湯気の立ち込める。
露天風呂。
その中央で。
白髪赤眼の絶世の美少女が。
お湯に顎まで浸かりながら。
居酒屋のオヤジのような唸り声を上げていた。
頭の上には。
雑にまとめた白髪。
額には。
旅館備え付けの白いフェイスタオル。
両腕を。
湯船の縁へ。
だらり。
赤い瞳は。
半分閉じている。
「これだよ……」
ずぶずぶ。
さらに沈む。
「俺が転生に求めてたの……」
一拍。
「こういうのだよ……」
世界最強。
聖女。
定時を司る神。
そんな大層な肩書きは。
ぬるま湯の中で。
完全に。
虚無へと溶けていた。
平日の朝から。
温泉に浸かる。
誰にも呼ばれない。
進捗も聞かれない。
障害通知も来ない。
「…………」
ステラは。
天井を見上げた。
「これが……」
一拍。
「人権……」
白髪の美少女は。
しみじみと呟いた。
◇
風呂上がり。
脱衣所前の休憩スペース。
ステラは。
旅館備え付けの浴衣に着替えていた。
薄い紺色の。
何の変哲もない。
安宿の浴衣。
だが。
着ている人間が。
悪かった。
湯上がりで。
ほんのり赤く染まった頬。
まだ少し。
湿り気を残した長い白髪。
浴衣の襟元から覗く。
透き通るように白い首筋。
そして。
風呂上がりで。
少し潤んだ赤い瞳。
「…………」
廊下を歩いていた女性客が。
ステラの横を通り過ぎた。
三歩。
止まる。
振り返る。
「…………え?」
もう一度。
見る。
隣を歩いていた友人の肩を叩く。
「ちょ、ちょっと……」
「なに?」
「あの子……」
友人も見る。
「…………うわ」
二人そろって。
もう一度見る。
三度見である。
「なに、あの子……」
「モデル……?」
「いや待って」
一拍。
「あれ……ステラ様じゃない?」
「えっ!?」
小さな。
どよめき。
だが。
当の本人は。
そんな視線など。
一ミリも気づいていなかった。
なぜなら。
自動販売機の前で。
完全に。
停止していたからである。
【普通の牛乳:160円】
【コーヒー牛乳:200円】
「…………」
ステラの赤い瞳が。
細くなる。
「四十円差……」
世界滅亡級のS級ボスと対峙した時より。
遥かに。
険しい目だった。
「コーヒー成分に……」
腕を組む。
「四十円の価値があるか……?」
三十秒。
熟考。
「いや」
首を振る。
「四十円を笑う奴は固定費に泣くんだよ」
真剣だった。
「この四十円があれば、帰りのスーパーで買う発泡酒代の足しになる……」
そして。
選ばれたのは。
普通の牛乳。
百六十円。
ガチャン。
「よし」
ステラは。
満足そうに瓶を取り出した。
そして。
「…………」
動きを。
止めた。
牛乳瓶を見る。
腰を見る。
もう一度。
牛乳瓶を見る。
「…………そういや」
ふと。
前世の記憶が蘇った。
橘健太郎。
三十八歳。
大学卒業後。
ブラックIT企業一筋。
テレビでは見た。
漫画でも見た。
温泉旅館のCMでも。
何度も見た。
湯上がり。
瓶牛乳。
腰に手。
そして。
グイッと。
一気飲み。
「…………俺」
ステラの赤い瞳が。
ゆっくり。
見開かれる。
「社会人になってから……」
一拍。
「一回もこれやったことねえ……」
そもそも。
温泉旅行へ行く余裕がなかった。
連休が取れない。
取れても。
疲れ果てて寝る。
旅行を予約しようとした週に限って。
障害が起きる。
休日に会社携帯を切るなど。
当時の自分には。
考えられなかった。
風呂上がりに牛乳を飲んでいる場合ではない。
だが。
今は。
スマホの電源は。
切れている。
仕事もない。
目の前には。
瓶牛乳。
そして。
浴衣。
「…………」
ステラは。
静かに。
牛乳瓶を握り締めた。
「やるか」
決戦を前にした。
戦士のような顔だった。
少し離れた場所で。
様子を見ていた宿泊客たちが。
息を呑む。
「……見て」
「何かする……?」
「あの表情……」
一拍。
「神聖な儀式……?」
違う。
ただの。
牛乳である。
ステラは。
瓶の蓋を剥がした。
そして。
左手を。
ゆっくり。
腰へ。
「…………」
姿勢を整える。
「これだ」
胸を張る。
瓶牛乳を。
口へ。
運ぶ。
グビグビグビグビッ!!
「くぅ~~~~~~!!」
一気飲み。
「これだよ!!」
ステラの目が。
今日一番。
輝いた。
「これ一回やってみたかったんだよ!!」
完全に。
風呂上がりの。
銭湯のおっさんだった。
だが。
周囲には。
まるで違う光景として映っていた。
「…………綺麗」
女性客が。
ぽつりと呟いた。
「牛乳飲んでるだけなのに……なんであんなに絵になるの……?」
「腰に手を当ててるのに……品がある……」
「さすがステラ様……」
一拍。
「湯上がりの聖女……」
違う。
本人は今。
三十八年間叶わなかった。
『風呂上がりに腰へ手を当てて瓶牛乳を飲む』
という。
極めて。
しょうもない夢を。
達成しているだけだった。
「…………」
ステラは。
空になった瓶を見つめる。
そして。
満足げに。
頷いた。
「転生して……」
一拍。
「よかったかもしれん」
世界最強の力を手に入れた時ですら。
出なかった感想だった。
だが。
三秒後。
「あ」
ステラは。
自動販売機を見る。
【普通の牛乳:160円】
【コーヒー牛乳:200円】
「…………」
計算。
そして。
さらに。
満足そうに頷いた。
「しかも」
一拍。
「四十円浮いたし」
本日。
ステラ最大の戦果。
前世からの夢。
一つ達成。
そして。
四十円。
◇
その頃――世界では。
複数地域のダンジョンにて。
突如として。
広域の《接続異常》が発生していた。
そして。
その異常を知らせる通知は――。
ステラには。
一件も届かなかった。
スマートフォンの電源は。
切れていた。
(第7話・了)




