いつか手が出る普通にグー
全く、どんな公開処刑だよ。
半分呪文みたいな数学の授業を聞き流して、手の中のペンを回転させる。これで何百回転目だろう。数える気もない。
入学してわずか一か月。先生の言っていることが、早くも未知の言語に感じるようになってきた。
最初は日本語を話していたはずなのになあ。いつの間に置いて行かれてしまったのか。
一時間は永遠に感じるのに、一か月は一瞬で過ぎる。ネオ相対性理論と名付けよう。
こんなのいつ使うんだよと思ってしまうのは、それこそ理解が足りないからなのかなあ、と。
考えて、やっぱり何に使うか分からなくてシャットダウン。当たり前か。
おじいちゃん先生の、ざらついて間延びした声は通信不良のラジオにちょっと似ていて。
ブラウンノイズと春の陽気がまぶたを重くする。そんな一時間目、あたしは昨日のことを思い出していた。
(真白ちゃんがあんなこと言い出すなんて、思ってもみなかった)
ペンを上唇に乗せて、脳裏に浮かぶのは例の『約束』。
今度五十鈴……、じゃない、直。と喧嘩したら、二人もろとも絶交されてしまうという悪魔じみた契約。
(まあでも、確かに気が滅入るよね)
あたしもお父さんとお母さんが喧嘩してるのとか、見たくないし。考え直してみれば、当然の感覚だと思う。
喧嘩は、するのも見るのも嫌いだ。直は……向こうが突っかかってくるから、仕方なく。
身近な人間が喧嘩していると、悪口を言う側と言われる側、その両方の苦痛を感じる気がする。
叱られるのを見ている人も、叱られている本人と同じくらいストレスがかかるらしい。
って、真白ちゃんが言ってた。半分も理解できなかったけど。
それに、真白ちゃんからしてみれば、自分が火種になっている喧嘩とも言える。ストレスもそのぶん大きいはずだ。
「私のために争わないで!」なんてヒロインは言うけど、実際渦中にいたら相当気まずいと思う。あたしだったら愛想笑いしながらフクロウみたいに体を細くして気配を消す。
気を使わせちゃってたかな、と脳内で一人反省会開催中。自分の中の天使も「そうだそうだ」と追従をかましてくる。いや、アンタは慰めてよ。
(直だって、絶交はされたくないはず)
恋敵だから。同じ感情を抱いているから。直の心を読むまでもなく、自分に聞けば分かる。
好意を寄せる相手に見限られたくない気持ちは十二分に理解できた。その点においてあたしは、直をある種信頼していると言ってもいい。
だから、表面上は友好的になる、んじゃないかな。
少なくとも真白ちゃんの目の前で堂々と喧嘩を吹っ掛けてくることは減る……と思うが。
直は口を開けば煽りの飛び出すようなヤツだ。家系図見せろ。多分どっかにイギリスの血が混じっている。
ちょっとした悪口くらいなら真白ちゃんもじゃれ合いとして見過ごしてくれるだろう。
それこそ冗談のひとつやふたつ、友達なら普通のコミュニケーションだし。
しかし、これこそあたしにとって唯一最大の懸念事項。
(相手はナチュラルボーン煽り厨の直。あの調子が続くようなら、いつか手が出る。普通にグー)
いけ好かない、人を小馬鹿にした笑みがフラッシュバックする。デフォルメの直を頭の中でぶっ飛ばす。内側にまで入ってくるな。
喧嘩したら、とは言うものの。真白ちゃんは良くも悪くも中立だ。
仮にどちらかが一方的にグーパンを繰り出した日には、流石にもう一方の味方に付くと思う。流石に。
そして、どちらが先に限界を迎えそうかと聞かれれば、間違いなくあたしの方だ。確信を持って言える。
というか、さっきの想像でちょっとイラついているくらいだもん、本物を前にしたらどうなるかなんて分かり切っている。
そこであたしは、発想を逆転させることにした。
(そうなる前に、向こうを限界に追い込んでやる……!)
くふふふふ。思わず怪しい笑い声が漏れる。視界の端で、隣の席の男子生徒がドン引きの視線を向けているのが見えたが気にしない。
攻撃は最大の防御。こっちが我慢の限界を迎えるより先に、直をキレさせてやろう。
(今に見てろ、はちゃめちゃに嫌がらせしたるからな……!)
意味わかんない数字の羅列を押し付けられ霞がかっていた頭が急に冴えてきて、計画が練りあがっていく。
効果音を付けるとすれば、かたかたかた。がしゃん、ぴこーん。だろうか。
その思考リソースを少しでも勉強に向ければいいのにと冷静な部分がささやく。それを黙殺する。
そして、直の嫌がるもの。短い付き合いながら、確実にそれだと断言できるものを、あたしはひとつ知っている。
(嫌いなやつ――つまり、あたし。あたしが直にまとわりつかれて嫌だったみたいに、あたしも同じことをしてやればいい)
直の心を読むまでもなく、自分に聞けば分かる。昨日直と話していて感じた怖気を思い出せば、方法は自然とすぐに思いついた。
自分が嫌がることこそ、相手にとっても嫌なことで。向こうもまた、友達のフリをすることを嫌がっていることは間違いない。
自分が嫌われている、と高らか言い切れるのがいいことなのかはともかく。作戦が諸刃の剣であることもともかく。
相手の弱点を知るためにも、一度接近してみるのはいい選択かもしれない。
そうしてあたしの脳が、最適解を導き出す。我ながら完璧な作戦であると自画自賛していた。
「ふふふふふ……」
「百瀬お前、……大丈夫か?」
耐え切れなかったのか、隣の男子が心配そうに。
きっとあたしが、世界征服を企む悪の女幹部のように見えたんだろう。実際、悪だくみに違いないんだけど。




