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離れ難きは恋敵  作者: *非文症
とっておきの嫌がらせ
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反抗期のない子

 ドアノブに鍵を差し込む。控えめな金属音が鳴って、扉が開いた。


 電気はついていない。街灯があるぶん、夜でも外の方がいくぶん明るかった。


 みっちゃんさっちゃんの歌声がまだ耳の奥に残っている。家の静寂が余計にそれをあからさまにした。あたしは脱いだ靴を揃えてリビングに向かう。


 どうせ誰もいないから、ただいまの必要はない。リビングの電気を点け、手を洗って、制服のままソファに腰を下ろした。反発で体が一瞬宙に浮く。


「はぁ……」


 あたしは天井を仰ぐ。正円のシーリングライトが、ひとりだけの部屋を薄ぼんやりと照らしていた。


 クラスの友達と遊ぶのは、楽しい。だけど同時に、全力でグラウンドを走り回ったあとのような疲労感もある。


 楽しいだけならそれもいい。疲れるだけなら、断ればいい。


 どっちかなら楽なのになあ。どっちもあるせいで「楽しかったー!」と胸を張って言えない。体力不足なのか、もしかして。


「皆勤賞、逃がしちゃったな」


 誰にともなく呟く。当然、反応が返ってくることもない。水の中に一滴の泥水が入ったように、ひとかけらの罪悪感が心をささくれ立たせている。


 勉強会への不参加を連絡したところ、大体予想通りの返信が返ってきた。


 真白ちゃんは『分かった』と淡白に。直はメッセにリアクションスタンプを付けただけ。仲良しグループの姿か? これが……。 心配になってきた。


 ないがしろにした――わけではないと思っている。みっちゃんさっちゃんも真白ちゃんも、大切な友達に変わりはない。直はいいや。


 けれど、それでも。保身のためじゃない、とも言い切れない。


 あのとき、遊びの誘いを断っていたらどうなっていただろう。


 あっさり流された気もするし、二度と誘われなくなっていた気もする。自分でも理解できない強迫観念めいた何かが、あたしの選択を歪めたように思えてならない。


 結果、勉強会を断った罪悪感を残しつつ、カラオケもそこそこにしか楽しめないというどっちつかずで終わってしまった。感じる疲労も、不器用さの代償だと思えばすんなり受け入れられる。


「勉強……。どうしようかな」


 足元に転がるバッグを見やる。なんとなく言葉にしただけでやる気は起きない。しかし、なまじ一週間続けていただけになにもしないのも気持ち悪かった。


 のそりと体を起こしてバッグを拾い上げようとしたとき、玄関から扉の開く音が聞こえた。


 しまった、と思った。わずかにしかめた顔を取り繕って、何でもないふうを装う。ほとんど反射だった。


「……ただいまー」

「おかえり。お母さん」


 幽鬼のような足取りでリビングに姿を現したのは、お母さんだった。ウェーブがかった長髪をだらりと下げているので、なおさら幽霊じみている。


 お母さんが手にしていたレジ袋をテーブルに置くと、アルミ缶同士のぶつかる音に混じって内容物の揺れる音がした。脱ぎ捨てたカーディガンの下から、シワの入ったワイシャツが顔を出す。


 パート終わりにそのままコンビニに寄って帰ってくるのが母のルーティンだった。買うものも缶酎ハイが二本と相場が決まっている。


 あたしはなるべく自然な動作で立ち上がって、ソファの側方にある座椅子型のクッションに移動する。席を譲ったんじゃなく、少しでも距離を離したかった。


「今日はちょっと早かったね」

「たまたまね。明日はまた遅くなる」


 お母さんは日中は事務員として働き、夕方から夜にかけてファミレスで働いていた。お父さんも仕事の関係上、家に戻るのは深夜になる。団らんとは縁が切れて久しい。


「お母さん、疲れたよ」

「うん。お疲れ様」

「昼夜働いて体おかしくなっちゃう。自分の時間が全然ない」


 お母さんがため息交じりに呟く。疲れた。自分が体感したわけではないのに、他人の口からその言葉を聞くと、同じだけのエネルギーを消費した気分になる。


 大人は大変そうだ。そう漠然と信じていた。高々学生でしかない自分の「疲れた」なんかよりも、ずっと実感がこもっている。


 だからあたしが同じ言葉を口にするのは、どうしても憚られた。


「今日ね、新しく入って来た高校生がね」

「うん」


 ソファに座るが早いか、お母さんは口を開いた。


 捕まっちゃったなあ。部屋に戻ってればよかったんだけど、今日は色々と噛み合ってしまった。


「洗い場を任せようと思って指示出したら、『ヤダ』とか言い出すんだよ? 信じられない。高校生にもなって敬語が使えないだなんて」

「そうだね」


 これもまた要素ごとの否定にあたるのだろうか、自分に言われている事のように感じた。言葉の裏に「あなたはそんなことしないでしょう」と続くのが分かる。


 自分の時間、というのもそうだ。まるで、お前のせいで時間が奪われていて、この疲労はお前のせいだと。そう言われているみたいで。


 母の感じた悪感情と、言われた側の悪感情。二つぶん苦しい。


「お父さんは本当に何にもしてくれないし。洗濯も片付けも、全部そのまま。自分のことで精一杯なのに、なんで他人の世話までしないといけないの?」


 あたしが部屋にいれば、呼びつけてまで愚痴ることはないから。今からでも逃げ込んでしまえたら良かったけど。それはやっぱり、家族として。


 相手になってあげないと可哀想だなと思う。逃げる自分を、無性に冷たい人間に感じてしまう。


「男の人って本当にだらしない人ばかりなのはなんでなんだろうね? 朝起きて、台所に使いかけの食器が残ってたりすると本当にがっかりする。最近はことりが片づけてくれて、助かってる」

「お弁当のついでだから。気にしないで」


 あたしはにこやかに首を振る。ほんの少しの我慢で、あたしたちの関係は維持されるから。


 この家庭の調整役で、母の相談役で、緩衝材。自分が父母の絆をかろうじて繋いでいる楔。そう自覚するほどに、この役割に背くことへの恐怖は増していく。


「ことりは大丈夫? まさか目上の人にタメ口なんて使ってないよね?」

「うん。大丈夫だよ」

「そう。反抗期のない子でよかった」


 一度、遠回しに伝えたことがあった。同僚が愚痴ばかりで疲れると訴えた母に、「お母さんもあたしに同じくらい話してるよ」と。


 それを聞いたお母さんの、裏切り者を見るような目が。網膜に今もなお焼き付いている。


 以来、話を遮るのはやめた。遠回しに伝えた日の翌日には、ほとんど同じ内容の愚痴を聞かされた。


「――ことりはいい子だもんね。そんなこと、しないもんね」


 なぜみっちゃんの誘いを断れなかったのか、なぜ関係が壊れてしまうとまで思ったのか。その理由がなんとなく理解できた。


 それが、相手の求める役割から背く行動だったからだ。


 明るくて、抜けていて、遊びに誘えばついてきてくれる。あたしがそうあることをみっちゃんたちは求めている。


 あたしはお母さんの相談役としてこの家にいる。あたしがその役割を果たせなくなれば、家庭は容易に瓦解しうる。


 疲労の押し売りで植え付けられた無力感と、無力感のなかで与えられた、役割という名の存在価値。それに縋っている。


 そして、役割に縋っているあたしにとってそれを全うできないことは居場所を――存在価値を失うことと同義だったんだ。


 だから、求められる役割を果たそうと、本心じゃない選択をしてしまった。


「はぁ……。お母さん、お風呂入ってくるね。出たらすぐ入って」

「はーい」


 緩慢な動作で立ち上がるお母さんに間延びした返事を返して、その背中を見送る。シーリングライトの光がわずかに点滅した。


 ここはもう、空気が淀んでいるように感じる。あたしは重くなった頭を持ち上げて、自室のある二階へ向かった。

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