なになに怖い怖いきもい
古本の匂いは、粘膜を乾かすような感じがした。スイーツショップとか、あとは病院とか? 何かに特化した施設ってそれ特有の匂いを持っている気がする。
注意されたわけでもないのに自然と声が小さくなってしまう。足音すら気になってしまうのは、もはや条件反射と言っていい。
小学生ぶりに訪れた図書館は、記憶のそれよりもずっと奇麗になっていた。なんでも、あたしがボーっと生きている間に改修工事があったらしい。さっき初めて知った。
とはいえ、こんな普通の場所だっただろうか、と思う。ただ本がいっぱいあるだけの公民館じゃん。昔来たときはもっとこう。堅苦しいというかなんか、異世界みたいに見えていたような覚えがある。
これが成長したってことなのかな。身長は大して伸びてないけど。黙れ。誰にキレてんだと自問する。
「あれ、意外と空いてない?」
「勉強するなら二階ですよ」
「あ、そうなの?」
「ホントに来たこと無いんですね」
思ったよりも利用者の少ない館内を見回して疑問を発すると、そんな答えが
返ってきた。ホントに来たことないが。悪いか。
一応真白ちゃんにも視線を向けると、無言で頷かれる。図書館の作法なんて分からないので、ただ黙って二人についていくことにした。
一階は主に読書スペースで、児童向けの本がメインらしい。
ここの本なら読めるんじゃないかと直に煽られたので蹴りを入れておいた。ちゃんと真白ちゃんからは見えないように。喧嘩売ってんのか、買うぞ。怒りを。
司書に会釈して、入り口から少し進んだ場所にある階段を上がった。
二階はさらに広々としていて、本棚の数もパッと見一階よりはるかに多い。それらの隙間を縫うように設置された長机のほとんどには、すでに誰かしらが座っていた。
矢羽高校の制服が多いが、ちらほらと他校の生徒や大学生っぽい姿もある。うえ、めんどくさ。小声で呟く。
二人の予想したとおりほとんど席は埋まっていて、まとまって座れそうな場所は見当たらない。
これ無理じゃないかなーと思っていると、辺りを見回していた直が何か見つけた様子で手招きしてくる。
座れんの? あたしは真白ちゃんと顔を見合わせてから後に続く。
果たして空いていたのは、二つの高校生グループの中間に生まれた、パーソナルスペースの境界線のような場所だった。
確かに席は三つぶんあるけどさ。空いているというか、空けられてるというか。これを空席と表現するのは、いささか語弊がありそうに思われた。
交わされた暗黙の了解を無視し、直はその隙間に体を捻じ込む。当然いい顔はされない。訝しげな視線を目じりの端っこで受け取って内心詫びる。
ごめん。でも名前とか書いてないし。向こうもそれは分かっているらしく、何も言ってこなかった。
あたしは真っ先に座った直の、すぐ隣に座る。もちろんコイツの隣に座りたかったわけじゃない。真白ちゃんを直の隣に座らせないことが重要だった。
真白ちゃんが最後に座って、思惑通りの席順になる。嫌がらせが成功したので笑ってやったが、直は大して気にした様子もなくテキストの準備を始めていた。
「さて。まずはなにから始めましょうか」
「真白ちゃん、テスト範囲の紙持ってる?」
無視して話を進めようとすると、直が素早くクリアファイルを取り出して。
「おおっと、なんとここに用意してあります。今更範囲を確認しだす時代遅れな人に渡すぶんのコピーまで」
「……なにそのテンション」
きも、と続きかけた言葉を飲み込んで、直に胡乱な視線を向ける。得意げな、下まぶたを弓なりに持ち上げた顔をしていた。目を輝かせている理由が分からない。
直はテスト範囲の書かれた紙をあたしの前に持ってきて、科目を一つずつ指差していく。
「ことりは苦手科目ありますか?」
「うーん、まあ全部まんべんなく苦手だけど。強いて言うなら数学?」
「じゃあ数学からですね。分からないところがあれば教えてあげましょうか?」
顔を覗き込むようにして確認してくる。まん丸な目が、逆に何かを企んでいそうな雰囲気を醸し出していた。善良すぎるキャラが裏切者っぽく見えるあれだ。
「なに、急に優しくなって」
「私はいつも優しいじゃないですか」
「道徳苦手科目だったりする?」
「心のノートにはちゃんとマーカー引いて、付箋も貼ってましたよ」
「いねーよ書き込むやつ」
「暗記科目ですし」
「怖いって」
優しいの基準がちょっとズレてるのかもしれない。少なくとも今あたしは恐怖を覚えている。
「無事にテストを乗り切って、三人で遊びに行くんでしょう? 友達を仲間外れなんてできません! どうか協力させてください!」
「なになに怖い怖いきもい」
直があたしの手を取って、ぐいと顔を近づけてくる。あっなにやめろきもいひっつくな。先ほど飲み込んだはずの言葉が思わず喉からまろびでた。
下がった眉尻が懇願めいた哀愁を感じさせるが、騙されてはいけない。きっと腹の中ではなにかろくでもないことを考えているに違いないのだ。
いったいどういう風の吹き回しだろうかと、白黒させながら固く握りしめられた手のひらと直の顔を交互に見る。細さの割に存外握力が強い。
あたしが赤点を取れば、彼女は真白ちゃんと二人きりで遊びに行けるはずで、妨害こそすれ協力するメリットなど無い。はずだ。こうして恐怖を与えることそれ自体が目的なら大成功と言えるだろうけど。
「教えてもらったら? 直ちゃん教えるのも上手だよ」
「うーん……」
真白ちゃんの言葉に曖昧に頷く。
実際慣れてはいそうに思う。クラスメイトに頼まれて、勉強を教えている姿を見たこともあった。
自力でやって赤点を回避できるかと言われるとちょっと……だいぶ自信ない。
周回遅れどころか、人生もう一周したって怪しいレベル。そんな調子だから、優秀なヤツを頼るのが一番現実的な選択肢なんだろう。
でもなあ。直に頼るのはなんか癪に障る。ちっぽけなプライドが、「じゃあお願い」の一言を邪魔していた。
しかし、遊びに行く約束がおしゃかになるのはもっと嫌だ。脳内でシーソーが揺れ動く。比べるまでもなく、シーソーは遊びの側に振り切れたのだった。
「じゃあ、お願いします……」
「よし任されました!」
ぎぎぎ、と。背骨の軋みが聞こえるくらいのぎこちなさで頭を下げる。このあたしが! 勇者に敗北する魔王みたいなテンション。待って、なんであたしが魔王役なんだ?
直は(図書館基準で)声を張り上げて、威勢よく返事をする。まるで待ちわびていたかのようなリアクションがやけに不自然だった。
「ああ、言い忘れていました」
「ん?」
「私の指導は少しスパルタなので、覚悟しておいてくださいね?」
人差し指を立て、不敵に笑う直。その瞬間、あたしの脳内でスパークが弾けた。点と点が線でつながる。
(……そうか、コイツ――!)
やけに協力的な姿勢も、待ってましたと言わんばかりのリアクションも、そう考えれば説明がついた。
コイツは、狙っていたのだ。自分が圧倒的優位な立場で、かつ合法的に嫌がらせできるこの状況を。ここに来てようやく、この勉強会が仕組まれたものだということに気付いた。
しかし、気づいた時にはもう手遅れで。直はあたしを捕食せんばかりに悪意をたぎらせている。
「三人で遊びに行くために仕方なく。仕方なく、愛の鞭を振るいましょうとも」
「ハメやがったな……!?」
おののいた拍子に椅子が傾く。ひっくり返りそうになった。
くそう。立場を利用して権力を振るおうなんて、許されてなるものか。パワハラだ職権濫用だ、スタンフォード監獄実験だ。最近厳しいんだぞそういうの。
「……静かにして。見られてるから」
恥ずかしそうにあたりを見回して。おかしなテンションになっているあたしたちを尻目に、真白ちゃんだけが冷静に呟いた。




