第9話:夕暮れのちゃぶ台、小さな変化
「あ、そこはね、先に引き算をやるんだよ」
我が家の和室。夕日が畳をオレンジ色に染める中、俺は小百合のノートを指差しながら静かに教えた。
算数のドリル。40歳の頭脳を持つ俺からすれば、ただの単純な四則演算だ。けれど、今の俺はかつての口の減らないクソガキではない。工場のライン作業で新人に接してきた時のように、小百合がどこで躓いているのかをじっくり見極め、大人の忍耐強さで分かりやすく、丁寧に言葉を噛み砕いて説明していた。
「……あ、本当だ。そっか、カッコの中を先に計算するんだ」
小百合はハッとしたように顔を上げ、シャーペンを動かしてサラサラと答えを書き込んでいく。
その横では、真由美が小春を自分の膝の上に乗せたまま、コテツの背中を「おーよしよし」と熱心に撫で回していた。コテツは完全に骨抜きにされたように、畳の上でゴロゴロと重低音を響かせている。
「ねえ、本当に思うんだけどさ」
真由美がコテツを撫でる手を止め、ちゃぶ台を挟んで俺と小百合の顔を交互に見つめた。
「徹って、本当にあの『仮病の徹』? なんだか最近、喋り方も落ち着いてるし、勉強もすっごい分かりやすいし……。小百合の言う通り、別の人みたい」
「えっ!? ま、真由美、私そんなこと……!」
小百合が突然、弾まれたように顔を真っ赤にして大声を上げた。持っていたシャーペンが手元から滑り落ち、コロコロと畳の上を転がっていく。
「言ってたじゃん。『最近の徹くん、なんだかすごく大人っぽくて格好いいんだよ』って」
「な、真由美ーっ!!」
小百合はさらに顔を真っ赤に染め上げ、真由美の口を塞ぐように慌てて身を乗り出した。その様子を、膝の上の小春が「みゃあ?」と不思議そうに見上げている。
中身が40歳のおっさんである俺は、その光景を「やれやれ、小学生は賑やかでいいな」と、どこか微笑ましく眺めていた。これくらいの子供のからかい合いで動揺するほど、酸いも甘いも噛み分けてきた大人のメンタルはヤワじゃない。
転がったシャーペンを拾い上げ、小百合の前にそっと置いてやる。
「俺、今までは自分のことしか考えてなくて、お袋にも、クラスのみんなにも迷惑ばっかりかけてたからな。少しはまともになりたいって思って、それだけだよ」
俺がブレずに、大人の落ち着きのまま淡々とそう言うと、小百合は塞いでいた真由美の口からそっと手を離し、小さく息を呑んだ。
かつての俺は、ただ目立ちたくて、小百合の気を引きたくて、わざと悪態をついたり不登校を繰り返したりする最悪のガキだった。
だけど、今の俺は違う。泥を跳ね上げながら坂道を歩き、冷たい側溝から小さな命を一緒に救い上げ、こうして真面目に宿題に向き合っている。その、からかいにも動じない「大人の余裕」と「一歩ずつやり直そうとする泥臭い姿勢」が、小百合の目には、クラスのどの男子よりも圧倒的に大人びて、頼もしく映っていた。
小百合は赤くなった顔を隠すように俯き、拾い上げたシャーペンをぎゅっと握りしめた。
「……ううん。今の徹くん、すごく、素敵だと思う」
消え入りそうな、でもはっきりとした声だった。
ツインテールの隙間から見える横顔は、夕日の赤さのせいだけではなく、完全に色づいていた。それは、同級生に向けるものとは明らかに違う、初めての恋心の芽生えだった。
おっさんの冷静な態度が、期せずして10歳の少女の心をさらに強く揺さぶっていく。
不登校のクソガキと、しっかり者の学級委員長。
一匹の子猫と、変わり始めた俺の行動によって、二人の関係は新しい局面を迎えようとしていた。
(第10話へ続く)




