第10話:過去の記憶と、未来の分岐点
「小春、そっちはダメだってば!」
夕暮れの和室に、小百合の明るい声が響く。ちゃぶ台の下に潜り込もうとする小春の小さなお尻を、彼女は楽しそうに追いかけていた。その屈託のない笑顔を見つめながら、中身が40歳のおっさんである俺の脳裏に、ふと前世の記憶の一部が蘇ってきた。
(……そういえば、小百合って中学の時、テニス部のイケメンと付き合ってたっけな)
それは、工場勤務の退屈な日々のなか、同窓会の風の噂か何かで耳にした古い記憶だった。
地元の中学校に進学した小百合は、相変わらずマスコットのように可愛らしくて、当然のようにモテた。そして中学2年の頃、他校からもファンが来るようなテニス部の超イケメンの先輩から告白され、付き合っていたはずだ。当時の俺は、不登校からは脱したものの、相変わらずパッとしないひねくれた学生生活を送っていて、その噂を聞いた時は部屋で枕を殴りつけて悔しがったものだ。
現在の小百合は、俺の顔を盗み見ては耳を赤くしている。40歳のおっさんメンタルからすれば、10歳の女の子が寄せてくれる好意は純粋に微笑ましいし、可愛いと思う。
だが同時に、俺は冷静に『未来のタイムライン』を計算していた。
今の俺の目的は、口の減らないクソガキを卒業し、お袋に親孝行をして、まっとうな大人の男になることだ。小百合の人生を狂わせたり、無理に自分に縛り付けたりするつもりはない。
何より、彼女には数年後、あの少女漫画から飛び出してきたようなテニス部のイケメン彼氏との、華やかな青春が待っているのだ。今の俺が少し大人びているからといって、その未来の邪魔をするのは大人の男としていささか無粋というものだろう。
「――徹くん? どうしたの、急にぼんやりして」
小春を両手で抱き上げた小百合が、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。大きな瞳が、真っ直ぐに俺を映している。
「いや、なんでもないよ。小春、すっかり小百合に懐いたなと思ってさ」
俺はいつもの工場の後輩に接するような、サバサバとした、でも温かいトーンで返した。
意識して、同級生の男子というよりは『頼れる近所のお兄さん』のような、一歩引いたポジションに自分の立ち位置を置く。彼女の淡い恋心を否定して傷つけるような野暮な真似はしないが、過度に期待を持たせるようなこともしない。それが大人の処世術だ。
「……うん。小春、本当に可愛い」
小百合は俺の少しあっさりとした態度に、ほんの少しだけ物足りなそうな、寂しそうな表情を浮かべた。けれど、すぐにまた小春の頭を優しく撫で始める。
隣でコテツのお腹を揉んでいた真由美が、そんな俺たちの空気を敏感に察したのか、ニヤニヤしながらちゃぶ台に肘をついた。
「ふーん? 徹、なんか急にカッコつけちゃってさ。まぁいいわ、宿題も終わったし、そろそろ小春のご飯の時間じゃない?」
「あ、そうだな。お袋が冷蔵庫に小分けしたパウチを入れてくれてるから、準備するよ」
俺はすっと立ち上がり、台所へと向かった。
中学時代のイケメン彼氏か。上等じゃないか。
彼女には最高の青春を送ってもらいたいし、俺は俺で、お袋の笑顔を取り戻すために泥臭く這い上がっていくだけだ。
動き出した1996年の世界。俺の知識と落ち着きは、知らず知らずのうちに、周囲の未来の歯車をも少しずつ変えようとしていた。
(第11話へ続く)




