第7話:波紋と、小さな秘密の目撃者
「小春、ほら、こっちだよー」
我が家の和室。ちゃぶ台の上に広げたノートの横で、小百合が毛糸の玉を優しく揺らしていた。
すっかり我が家に馴染んだ小春は、短い手足を一生懸命に伸ばしてそれを追いかけている。その様子を、少し離れた畳の上でコテツが「やれやれ」といった風に大きなあくびをしながら見守っていた。
あの日から、放課後に小百合が我が家へ立ち寄るのが、ごく自然な日課になっていた。
最初の頃こそ「小春の様子が心配だから」という理由だったが、今では2人で並んで宿題を済ませ、お袋がパートから帰ってくるまでの時間を一緒に過ごすのが、2人の暗黙の約束のようになっていた。
40歳の頭脳を持つ俺にとって、小学4年生の算数や国語は瞬きをする間に終わる。俺がスラスラとノートを埋めるたびに、小百合は「徹くん、やっぱり頭打っておかしくなったんじゃない?」と驚き、俺が分かりやすく解き方を教えると、「……教えるの上手だね」と少し悔しそうに、でも嬉しそうに微笑むのだった。
そんな、穏やかで少し甘酸っぱい時間がずっと続くものだと思っていた。
けれど、田舎町の狭い小学校だ。クラスの学級委員長と、つい先日まで不登校だったクソガキが毎日一緒に下校しているという事実は、すぐに小さな波紋を呼び起こす。
――それは、あるよく晴れた放課後のことだった。
いつも通り、最終バスをわざと見送って、2人で並んで歩いて長い坂道を登っていた時のことだ。
「――やっぱり、噂は本当だったんだ」
背後から、少し低くて、どこか刺さるような声が響いた。
振り返ると、そこに仁王立ちしていたのは、クラスの女子のリーダー格であり、小百合の幼稚園時代からの親友である真由美だった。
ショートカットに、ボーイッシュな大きめのリュック。普段からハキハキと物を言うタイプで、40歳の記憶の中でも、彼女は後に地元を飛び出して都会でバリバリ働くキャリアウーマンになっていたはずだ。
「ま、真由美……!? なんでここに……」
小百合が目に見えてうろたえ、持っていた通学バッグをぎゅっと握りしめた。
「なんでって、最近小百合が放課後の集まりにも来ないし、いつも急いで帰るから怪しいと思って。……まさか、こんな口の減らないサボり魔と一緒にいたなんてね」
真由美は腕を組み、冷ややかな視線を俺に向けてきた。
かつてのクソガキだった俺なら、ここで「うるせえな、関係ねえだろ!」と屁理屈をこねて怒鳴り返し、事態を最悪な方向にこじらせていただろう。
だが、中身がおっさんの俺は、彼女の言葉の裏にある「親友を心配する純粋な気持ち」を敏感に察知していた。不登校だった問題児が、大切な親友を騙して連れ回しているのではないか、と警戒しているのだ。
「真由美、違うの! 徹くんは……!」
小百合が必死に弁解しようと言葉を詰まらせる。2人の「秘密の猫の同盟」をどう説明すべきか、パニックになっているようだった。
俺は一歩前に出た。そして、真由美の目を真っ直ぐに見つめ、大人の落ち着きを持って静かに頭を下げた。
「真由美、小百合を連れ回して悪かったな。心配させるようなことをしたのは事実だ。ごめん」
「え……?」
いつもならすぐに噛みついてくるはずの俺が、妙にハキハキと、大人のように理路整然と謝罪したため、真由美は完全に毒気を抜かれたように目を丸くした。
「ただ、小百合が寄り道してるのには、ちょっとわけがあるんだ。もしよかったら……真由美も、これから俺の家に来ないか? 隠し事をするつもりはないし、見てもらえば納得してもらえると思う」
「徹くん……?」
小百合が驚いて俺の顔を見る。
真由美はしばらく呆然としていたが、やがてフンと鼻を鳴らし、腕組みを解いた。
「いいでしょう。小百合が変なことに巻き込まれてないか、この私が直々に確かめてあげるわ。もし怪しいことしてたら、明日先生に全部言うからね!」
そう言って、真由美はツカツカと俺たちの横に並んだ。
図らずも、小春とコテツが待つ我が家へ、3人目の来訪者を迎えることになってしまった。動き出した1996年の日常は、少しずつ、でも確実に周囲を巻き込みながら加速していく。
(第8話へ続く)




