第6話:放課後の秘密と、ちいさな同盟
「徹くん、おはよ!」
翌朝の路線バス。ステップを駆け上がった俺に、小百合は昨日までとは打って変わって、弾むような声で挨拶をしてきた。
車内の何人かが驚いたようにこちらを見る。昨日まで不登校のクソガキだった俺と、学級委員長の小百合が親しげに話しているのだから当然だ。俺は少し照れくささを覚えながらも、「おはよう」と返して彼女の隣に腰を下ろした。
「あのね、昨日からずっと気になってたの。あの子、大丈夫だった?」
小百合は声を潜め、身を乗り出すようにして聞いてくる。
「ああ。最初は先住猫のコテツに威嚇されて焦ったけど、なんとかお袋の許しも出たよ。体も綺麗に洗って、温かいミルクもよく飲んでくれた」
「本当!? よかったぁ……!」
小百合は胸に手を当てて、心底ほっとしたように細い肩をなでおろした。
「今日の放課後、約束通り見に行ってもいい?」
「おう、お袋にも許可は取ってある。鍵は開いてるから、学校が終わったら一緒にうちに来いよ」
その日の授業は、昨日よりもさらに早く過ぎ去っていくように感じられた。
相変わらずクラスメイトたちとは「なんとなくの距離」があったが、今の俺にはそんな周囲の視線よりも、早く家に帰ってあの子猫の様子を見たいという気持ちの方が勝っていた。ノートを取る手も、自然といつもより早くなる。隣の席の男子が「お前、今日なんかやる気満々だな」と不思議そうに呟いたが、俺は適当に笑ってごまかした。
――そして、待ちに待った放課後。
俺と小百合は、昨日の雨が嘘のように晴れ渡った秋空の下、あの長い坂道を今度は足早に登っていった。
「待ってよ、徹くん早い!」
「急がないと、子猫が腹を空かせて待ってるかもしれないだろ」
昨日はあんなに苦しかった坂道が、不思議と今日は少しだけ短く感じられた。
「ただいまー」
ガラガラと古い引き戸を開け、小百合を玄関に招き入れる。
お袋はまだパートに出ていて留守だった。静まり返った我が家の一角、リビングの陽だまりの中に、それはあった。
「あ……! 動いてる!」
小百合が小さく歓声をあげる。
昨日まで泥まみれで震えていた子猫は、お袋が用意してくれた古い段ボールのベッドの中で、小さな手足をバタバタと動かしていた。すっかり乾いた毛並みは、綺麗な薄いサバトラ模様。まだ青みがかった小さな瞳が、俺たちを見上げて「みゃあ」と頼りなく鳴いた。
「すごい、昨日と全然違う。ふわふわだね……」
小百合はランドセルを床に置くと、吸い寄せられるように段ボールの横にしゃがみ込み、壊れ物を触るような手つきで、そっと子猫の背中を指先で撫でた。
「小百合、こいつにミルクをやるの、手伝ってくれるか?」
「うん! 私、何すればいい?」
「お袋が哺乳瓶と人肌に温めたミルクを用意してくれてるんだ。俺が子猫を支えるから、小百合がゆっくり口元に持っていってやって」
「わかった」
小百合は真剣な表情で頷き、緊張で少し手を震わせながら、小さな哺乳瓶を子猫の口元へと運んだ。
最初は戸惑っていた子猫だったが、ミルクの匂いを嗅ぎつけると、小さな前足で哺乳瓶をがっしりと掴み、ちゅうちゅうと勢いよく飲み始めた。
「あはは、すごい勢い! お腹空いてたんだね」
「よかった。これなら安心だな」
一生懸命に生きようとする小さな命の温もりが、俺たちの間にじんわりと広がっていく。
ミルクを夢中で飲む子猫の体を、俺がそっと両手で支え、小百合が哺乳瓶の角度を絶妙に調節する。お互いの顔が自然と近づき、真剣な目で見守るその空気の中で、小百合はふと動きを止め、自分の手元と俺の顔を交互に見つめた。
「……ねえ、徹くん」
「ん? なんだ?」
「なんか、こうして2人で一生懸命お世話してるとさ……」
小百合はちょっと照れくさそうに微笑み、それから顔をほんのり赤くして視線を落とした。
「……なんだか、私たちの子供みたいだね」
「ぶっ……!」
不意打ちの言葉に、中身が40歳のおっさんである俺の心臓が、不覚にも派手に跳ね上がった。10歳の少年の純情な肉体は嘘をつけず、一気に顔がカッと熱くなる。
小百合は自分の言った言葉の気恥ずかしさに気づいたのか、「あ、違うの! なんか、お父さんとお母さんみたいっていうか、その……!」と慌てて手をバタバタと振って言い訳を始めた。
「ふにゃあ」
その時、リビングの襖の隙間から、のっそりと巨大な影が現れた。
先住猫のコテツだ。相変わらず不機嫌そうな顔で、新参者たちの様子を品定めするように見つめている。
「ひゃっ……! で、デカい……」
小百合は救われたように話を切り替え、思わず身をすくめた。
「大丈夫だよ。こいつは我が家の王様のコテツ。こう見えて、昨日の夜は子猫の毛繕いをしてやってたんだ。なぁ、コテツ?」
俺がそう言ってコテツの顎の下を撫でてやると、コテツはゴロゴロと喉を鳴らし、そのまま子猫の段ボールのすぐ横にゴロリと寝転がった。まるで「俺の目の届くところでやれ」とでも言うかのような、不器用な優しさだった。
「ふふ、コテツくんっていうんだ。ちょっと怖いけど、優しいお兄ちゃんだね」
小百合は緊張が解けたように笑い、コテツの頭もそっと撫でた。コテツは少しだけ鬱陶しそうな顔をしたが、逃げ出そうとはしなかった。
「ねえ、徹くん。この子の名前、もう決めたの?」
ミルクを飲み終え、満足そうに丸くなって眠り始めた子猫を見つめながら、小百合が尋ねてきた。
「いや、まだなんだ。お前と一緒に決めようと思ってさ。何かいいアイデアあるか?」
「えっ、私と一緒に……?」
小百合は少し驚いたように瞬きをして、それから嬉しそうに視線を落とした。
「うーん、そうだなぁ……。雨上がりに見つけたから、お天気にちなんだ名前がいいな。……『小春こはる』なんてどう? 今日みたいに、ぽかぽかした温かい子になってほしいから」
「小春、か。……いい名前だな。すごくぴったりだ」
俺が真っ直ぐに彼女の目を見て微笑むと、小百合はまた少し耳の端を赤くして、「もう、徹くんが素直すぎて調子狂うなぁ」と小さく笑った。
1996年の秋の放課後。
窓から差し込む柔らかな夕日の中で、俺と小百合、そして二匹の猫たちの、小さくて特別な時間が静かに流れていた。
かつてのクソガキだった俺の日常は、確かに、少しずつ心地よい方向へと変わり始めていた。
(第7話へ続く)




