第5話:我が家の絶対権力者
夕日が傾き、赤く染まった坂道の分岐点で、俺は小百合と別れた。
「徹くん、明日その子の様子見に行ってもいい?」
「ああ、お袋の許しが出たら連絡するよ」
「うん! 絶対だよ、約束ね!」
小百合は何度も振り返りながら、嬉しそうに坂を登っていった。彼女の姿が見えなくなるのを見届けてから、俺は胸に抱えた子猫の重みを感じつつ、自分の家へと続く最後の角を曲がった。
古い木造の一軒家。ガラガラと玄関の引き戸を開けると、懐かしい我が家の匂いと同時に、お袋の声が飛んできた。
「徹!? 遅かったじゃない、バス乗り遅れたの? 連絡もないから心配して……って、あらヤダ、ずぶ濡れじゃないの!」
台所からすっ飛んできたお袋は、俺の濡れた姿を見て目を吊り上げた。かつての俺なら「うるせえな、別にいいだろ」と不貞腐れていたところだ。しかし、今の俺はしっかりと前を向き、腕の中の黄色いタオルを少しだけ開いて見せた。
「ごめん、お母さん。バスに遅れて歩いて帰る途中で、側溝に落ちてたこの子を拾ったんだ。すごく冷たくなってて、放っておけなくて……。うちで、飼わせてほしい」
お袋は一瞬、呆気に取られたように口を開けた。
いつも自分の我が儘ばかりで、他人のことなど1ミリも気にかけなかった息子が、泥まみれになりながら小さな命を必死に守って帰ってきたのだ。その事実に驚いているようだった。
だが、お袋の視線が俺の腕から、さらに下の床へと移った瞬間、その顔が「あ、マズい」という表情に変わった。
「徹、飼うかどうかを私に聞く前に……まずは『先住さん』の許可を取りなさい」
「え……?」
お袋の視線を追って、俺はゆっくりと背後を振り返った。
暗い廊下の奥、リビングの畳へと続く境界線に、それは鎮座していた。
――キジトラの巨漢。我が家の絶対権力者にして、先住猫の「コテツ」だった。
(そうだ……! コテツがいたんだ……!)
40歳の記憶の彼方に追いやられていたが、俺が子供の頃、我が家には丸々と太った不機嫌そうな顔のキジトラ猫がいた。体重はゆうに7キロを超え、近所の野良猫たちをことごとく返り討ちにしてきた地域のボスである。
コテツは、鋭い琥珀色の眼光を爛々と輝かせ、新参者を品定めするようにじっと見つめていた。
その体から放たれる圧倒的な「王者の風格」に、俺の腕の中の子猫が、恐怖でヒウッと小さく声を上げてさらに縮こまる。
コテツは音もなく畳からフローリングへと降りてくると、一歩、また一歩と、威風堂々とした足取りでこちらへ近づいてきた。
「フシュー……ッ!!」
コテツが低く、地響きのような威嚇の声を漏らす。
10歳の俺の肉体が、その迫力に本能的にビクッと強張った。だが、中身は40歳のおっさんだ。工場の頑固なベテラン職人を相手にしてきた経験に比べれば、猫の威嚇など怖くはない――いや、やっぱりちょっと怖い。
俺は姿勢を低くし、コテツの目線に合わせて床に膝をついた。
「コテツ、驚かせて悪かったな。でも、この子、雨の中で死にそうだったんだ。頼む、意地悪しないでやってくれ。お前の飯を奪ったりはさせないから」
俺は子猫を片腕で守りながら、もう片方の手をそっと伸ばし、コテツの顎の下を優しく、的確な力加減で掻いた。前世で40年生きる中で培った、猫が一番喜ぶ「職人の愛撫」だ。
「……るにゃ?」
コテツの喉が、ぴたりと鳴り止んだ。
怪訝そうな顔をしながらも、俺の手の動きに合わせて気持ち良さそうに目を細め始める。どうやら、不登校のクソガキが急に「極上のマッサージ師」に変貌したことに戸惑っているようだ。
そのままゆっくりと、俺は腕の中の子猫をコテツの鼻先に近づけた。
コテツはフンフンと念入りに子猫の匂いを嗅ぎ、それからフッと鼻を鳴らすと、ぷいっと後ろを向いてリビングへと戻っていった。
「……あら。コテツが怒らないなんて珍しい」
一部始終を見ていたお袋が、感心したように声を漏らした。
「一応、見習い期間としての同居は許してくれたみたいだな」
俺がホッとして息をつくと、お袋は優しく微笑み、棚から古いバスタオルを取り出してきた。
「よし、じゃあまずはその子をお風呂で綺麗に洗って、温かいミルクをあげましょ。徹、あなたが責任を持ってやるのよ?」
「うん。ありがとう、お母さん」
懐かしい我が家の温もりの中で、新しい家族を迎える準備が始まった。
(第6話へ続く)




