第4話:雨上がりの小さな出会い
「あー、やっと半分か……。マジで、この坂道は凶器だな……」
坂道の途中、俺はガードレールに手をつき、大きく肩を揺らしながら足を止めた。
額からは雨か汗か分からない水滴が容赦なく滴り落ち、地面のアスファルトに小さなシミを作っていく。
10歳の肉体にとって、教科書がぎっしり詰まったランドセルを背負っての山登りは、想像を絶する過酷さだった。40歳の頃の慢性的な腰痛はないものの、純粋に心肺機能と筋力が足りていない。完全に運動不足のクソガキのツケが回ってきている。
「もう、徹くん情けないなぁ。ほら、置いてっちゃうよ?」
数歩前を歩く小百合が、振り返ってクスクスと楽しそうに笑う。
彼女の持つ赤い傘が、薄暗い山道の中でまるで一輪の花のように鮮やかに揺れていた。
当時の俺なら、こんな風に女の子からからかわれたら「うるせえな!」と怒鳴るか、へそを曲げてわざとゆっくり歩く嫌がらせをしていただろう。だけど、40年の人生を経て丸くなった今の俺にとっては、こうして軽口を叩き合いながら一緒に歩く時間が、ひどく新鮮で、どこか心地よかった。
そのときだった。
――みぃ、……ぅ。
アスファルトを叩くしとしととした雨音の向こう側から、かすかな、本当に今にも消え入りそうな鳴き声が聞こえた。
「え? 今、何か聞こえなかった?」
小百合がピタリと足を止め、すっと傘を上げて周囲を見回す。
俺も足を止め、全神経を耳に集中させた。
耳をすますと、坂道の脇にある、山の斜面から水を逃がすための古いコンクリート製の側溝から、もう一度小さな声が響いた。間違いない、生き物の声だ。
「ここだ。ちょっと待ってろ」
俺は駆け寄り、泥の跳ね返りも気にせずに側溝の中を覗き込んだ。
薄暗い底の方、濁った雨水がチョロチョロと流れる脇の、わずかなコンクリートの段差。そこに、人間の手のひらに乗るほどの小さな灰色の塊が、体を縮こまらせて震えていた。
雨に打たれ、泥まみれになり、完全に衰弱しきった子猫だった。
「あ……可哀想! どうしよう、徹くん。このままだと、もっと雨が強くなったら流されちゃうよ!」
小百合が側溝の上から覗き込み、不安そうに声を震わせる。
だが、側溝の上には鉄格子の蓋――グレーチングが重々しく嵌め込まれていた。子供の力ではビクともしない。鉄格子の隙間は狭く、10歳の子供の腕でも奥まで届きそうになかった。それに、下手に棒などで突つけば、子猫が驚いて奥の暗い暗渠へ逃げ込んでしまい、二度と助けられなくなる危険性があった。
「小百合、ちょっとその、委員会で使ったファイルが入ってるナイロンの手提げ袋、貸してくれ」
「え? うん、はい! でもどうするの?」
「ちょっと工夫する。貸して」
俺は受け取った手提げ袋を裏返し、ナイロンの滑りやすい面を外側にした。
40年間、工場の狭い機械の隙間に手を突っ込み、手探りでボルトを締めたり工具を滑り込ませたりしてきた職人としての経験と、何があっても動じない大人の落ち着きが、ここで牙を剥く。
俺は鉄格子の狭い隙間から、裏返した手提げ袋を慎重に、ゆっくりと滑り込ませた。
袋の先端を子猫のすぐ手前に落とし、坂の傾斜を利用して、子猫の足元を優しくすくい上げるように動かす。
「ほら、おいで。敵じゃないからな。大丈夫だ……」
低く、落ち着いた声で話しかけながら、袋の端を少しずつ手前に引く。冷え切っていた子猫は、本能的に乾いた温かい足場を求めたのか、おずおずとナイロンの袋の上に小さな前足を乗せ、そのまま這い上がってきた。
「よし、今だ!」
子猫が袋の真ん中に乗った瞬間、俺は息を止めて、一定の速度で一気に袋を引き上げた。
鉄格子の隙間をすり抜け、泥まみれでガタガタと震える小さな命が、ついに地上へと救い出された。
「やった……! すごい、徹くん、本当にすごい!」
小百合が両手を叩いて歓声をあげる。その瞳がキラキラと輝いていた。
俺は自分のランドセルを素早く開け、中からお袋が持たせてくれた黄色いスポーツタオルを引っ張り出すと、子猫の体を優しく包み込んだ。
腕の中に伝ってくるのは、驚くほど軽くて、今にも消えそうな小さな鼓動。放っておけば、今日の夜の冷え込みを越せなかったかもしれない。
「でも、どうしよう……? うち、市営のアパートだからペット飼えないの。規約で決まってて……」
小百合が嬉そうな顔から一転、今にも泣きそうな表情で子猫を見つめる。
1996年当時、アパートのルールは今よりも厳格だった。
俺の家は古い一軒家で、我が家にはすでに先住猫のコテツがいる。ただでさえ家計が裕福ではない中、パートで忙しいお袋にもう一匹分の負担をかけるべきではないかもしれない。
(だけど……ここで見捨てるような真似をしたら、俺は何のために人生をやり直してるんだ?)
かつての、自分のことしか考えていなかったクソガキの俺なら、「汚れるから嫌だ」「めんどくさい」と吐き捨てて通り過ぎていただろう。だが、一度命を落とし、命の重さを知った今の俺に、その選択肢は万に一つも存在しなかった。
「俺んちで引き取るよ。お袋には、俺が頭を下げてちゃんと頼み込んでみる。コテツとの相性もあるけど、絶対になんとかするから」
「本当……? でも、おばさん怒らないかな……」
「大丈夫。俺が責任を持って、最後までちゃんと面倒見る。……それから小百合、手提げ袋、泥で汚しちゃって本当にごめんな」
タオルに包まれた子猫をそっと胸に抱き抱え、俺が真っ直ぐに謝ると、小百合は目を丸くした。それから、今日一番の、言葉にできないほど綺麗な笑顔を咲かせた。
「ううん、全然平気! 洗えばすぐに綺麗になるもん。……ねえ、徹くん。なんか、今日の朝からずっと、すごく大人っぽくて……格好いいよ」
「ぶっ……!」
不意打ちのストレートすぎる一言に、中身が40歳のおっさんである俺の心臓が、不覚にも派手に跳ね上がった。10歳の少年の純情な肉体は嘘をつけず、一気に顔がカッと熱くなる。
「な、何言ってんだよ。早く行くぞ、子猫が冷えちまう」
慌てて顔をそむけて早足で歩き出す俺の後ろで、小百合は「あ、待ってよー!」と不思議そうに首を傾げながら追いかけてくる。
腕の中にある、小さくて、でも確かに温かい命の鼓動を感じながら、俺たちは再び、我が家へと続く坂道を歩き始めた。
雲の隙間から柔らかな夕日が差し込み、雨上がりのアスファルトを黄金色に照らし出していた。
(第5話へ続く)




