第3話:なんとなくの距離、長い帰り道
「おい、徹が来たぞ」
「本当に学校来たよ……」
教室のドアを開けた瞬間、ざわざわと室内の空気が波打った。
かつての俺なら、この刺さるような視線に耐えかねて、すぐに「お腹が痛い」と保健室に逃げ込んでいただろう。だが、中身が40歳のおっさんになった今の俺からすれば、これくらいの居心地の悪さは、工場の厳しい上下関係や理不尽な叱責に比べればどうということはなかった。
いじめがあるわけじゃない。ただ、長引く不登校のせいで、クラスメイトとの間に「なんとなく気まずい距離」ができているだけだ。
「おはよう」
俺が小さく声をかけながら自分の席へ向かうと、周りの奴らは驚いたように一瞬静まり返り、それから「お、おう、おはよう」と、戸惑いながらも挨拶を返してくれた。子供というのは、大人が思うよりもずっと、他人の変化に対して柔軟で、そしてドライだった。
授業が始まっても、ドラマのように40歳の頭脳で周囲をあっと言わせるような劇的な展開は起きない。
ただ、静かに時間が流れていく。
算数の割り算や、国語の漢字の書き取り。40歳から見れば簡単すぎる内容だったが、俺は目立たないように、でもノートだけは一文字一文字、丁寧に書き進めた。
休み時間になっても、誰かが積極的に話しかけてくることはなかったが、かといって露骨に仲間外れにされることもない。みんな、どう接していいか測りかねているのだ。俺も無理に輪に入ろうとはせず、ただ窓の外を眺めたり、溜まっていたプリントを整理したりして、なんとなくの距離感を保ったまま静かに過ごした。
小百合は学級委員長としての仕事を淡々とこなしていて、教室の中では特に俺に話しかけてくることはなかった。ただ、彼女が教壇の前に立った時、ほんの一瞬だけ、俺のノートに目を落として安心したように小さく頷いたのを、俺は見逃さなかった。
――そして、放課後。
「あ」
終礼が終わり、荷物をまとめて校門を出たところで、俺は自分の重大なミスに気がついた。
40年のブランクは、この田舎町のシビアな交通事情の記憶を曖昧にさせていた。
「嘘だろ……。最終の下校バス、もう出た後かよ……」
腕時計の針は、すでにバスの出発時刻を5分過ぎていた。
この過疎化が進む田舎町だ。1本逃せば、次のバスは1時間以上もない。
「自業自得、か……」
雨は朝に比べれば小降りになっていたが、しとしとと冷たい雫が黄色い帽子を濡らす。
俺は覚悟を決め、傘を深く差して、あの長い坂道を歩いて帰ることにした。学校から家までは、大人の足でも1時間はかかる山道だ。
「……何やってんの、徹くん」
トボトボと歩き出そうとした背中に、鈴の鳴るような声が降ってきた。
振り返ると、赤い傘を差した小百合が立っていた。手には学級委員長用のファイルが入った手提げ袋を持っている。
「小百合? お前もバス乗り遅れたのか?」
「違うよ。委員会が長引いて……って、徹くんの方こそ何で残ってるのよ。また仮病で保健室にでもいたの?」
「いや、違う。ただ単にバスの時間を忘れててさ……」
俺がバツの悪そうに頭を掻くと、小百合は呆れたように大きなため息をついた。
「しょうがないなぁ……。じゃあ、一緒に帰ろ。私も歩きだし、途中まで方向一緒でしょ」
「え? でも、結構あるぞ?」
「慣れてるもん。急な坂道ばっかりだけどね」
小百合はそう言って、前を歩き出した。
並んで歩くと、小降りになった雨の音が、二つの傘をトントンと規則正しく叩く。
歩道のない、すれ違うのがやっとの狭いアスファルトの坂道を、二人で一歩一歩登っていく。
10歳の細い体には、ランドセルの重みがじわじわと効いてくる。すぐに太ももがパンパンに張り、息が上がった。
「ほら、徹くん遅い! ずっと休んでたから体力落ちてるんじゃないの?」
小百合は少し前を歩きながら、振り返って悪戯っぽく笑った。
「言うね……。これでも必死なんだよ」
「ふふん。じゃあ、置いてっちゃおうかな」
そう言いながらも、小百合は俺の歩幅に合わせて、さりげなく速度を落としてくれた。
不登校になる前の俺は、彼女にどう接していいか分からず、いつも意地を張ってばかりだった。でも、こうして並んで歩いてみると、小百合の優しさや、しっかり者の一面が真っ直ぐに伝ってくる。
「小百合、いつもありがとうな」
「え? なにが?」
「いや……プリントのことだけじゃなくてさ。こうやって一緒に歩いてくれるのも」
前世のひねくれたガキの俺なら絶対に言えなかった感謝の言葉が、今の俺の口からは自然と出てきた。
小百合は一瞬ピタッと足を止め、それから顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「な、なによ急に……。やっぱり徹くん、今日はおかしい。頭でも打ったんじゃない?」
「打ってないって。本気でそう思っただけだよ」
「もう、うるさい! ほら、早く歩く!」
小百合は歩くペースを少し早めた。でも、その赤い傘の下で、彼女が嬉しそうに口元を緩めているのを俺は知っていた。
濡れたスニーカーの中で足がグポグポと音を立てる。
泥を跳ね上げながら登る長い長い坂道。だけど、10歳の俺の足取りは、不思議なほど軽くなっていた。
(第4話へ続く)




