↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/17

第2話:雨のバス停、動き出す歯車


「はぁ、はぁ, はぁ……っ!」

激しい雨が黄色い帽子を叩き、容赦なく視界を奪う。

坂道を駆け下りる俺の足は、驚くほど軽かった。工場勤務で慢性的な腰痛に悩まされていた40歳の体とは大違いだ。これが10歳の肉体か。

だけど、息が上がるのは一瞬だった。完全に運動不足のクソガキの心肺機能だ。

(クソ、やっぱり体はただのガキだな……!)

心臓が破れそうなほどバクバクと鳴る。

斜面にへばりつくようにして作られた住宅街。急な階段と、すれ違うのがやっとの細い坂道。

雨水が濁流となって足元をかすめていく。

遠くで、ブォォォンという重苦しいディーゼルエンジンの音が聞こえた。

路線バスの音だ。

(やべえ、逃したら1時間待ちだ……!)

俺は濡れたアスファルトを必死に蹴った。

40歳の記憶があるからこそ分かる。ここでバスを逃せば、お袋はまた仕事を休むか調整して、俺を車で送るか、あるいは「やっぱり体調が悪いのね」と悲痛な顔をする。それだけは絶対に避けたかった。

「待って、くれ……っ!」

角を曲がると、お馴染みの青と白の路線バスが、停留所に滑り込んでいくのが見えた。

プシューと小気味いい音を立てて折戸が開く。

「すんません! 待ち、待ってください!」

俺は叫びながら、最後の直線をごり押しで駆け抜けた。

ステップを駆け上がり、濡れた床に滑り込みそうになりながら、なんとか車内に滑り込む。

「おぅ、徹くん。今日は学校行くか。珍しいね」

運転席から声をかけてきたのは、見覚えのある白髪交じりの運転手、佐藤さんだった。

いつも不登校の俺を心配そうな、あるいは腫れ物に触るような目で見ていた地域の大人だ。

「……はい! おはようございます。ご迷惑をおかけしました!」

俺がランドセルを揺らしながら深く頭を下げると、佐藤さんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。いつもなら「うるせえな」と毒づくか、無視して一番後ろの席に引きこもるクソガキが、妙にハキハキと挨拶をしたのだから当然だ。

「あ、あぁ……。気をつけてな。ほら、早く座りなさい」

佐藤さんは嬉しそうに、少し照れくさそうに笑って、バスを発車させた。

車内には、同じ小学校の緑色の名札をつけた児童たちが数人座っていた。

みんな、俺の姿を見て一瞬ギョッとしたように静まり返る。

「あいつ、また仮病じゃねーの?」「今日、算数のテストあるから絶対すぐ保健室行くよ」そんなヒソヒソ話が聞こえてくる。

自業自得だ。今まで自分がどれだけ周囲の信頼を裏切り、我が儘に振る舞ってきたか。

胸がチクリと痛んだけど、俺は気にせず空いている席を探した。

そのとき、2人掛けのシートの片側に座っていた1人の女の子と目が合った。

(あ……。小百合、だ……)

心臓が、先ほどとは違う意味でドクンと跳ね上がった。

細いツインテールに、小さな傘を膝の上に綺麗に畳んで持っている。

クラスの学級委員長で、10歳の俺が密かに、あるいは猛烈に憧れていた、当時の『好きな子』だった。

当時の俺は、彼女に注目されたくて、わざとへそを曲げたり不登校を繰り返したりしていた。なんと幼稚で愚かなアプローチだったことか。40歳の記憶を持つ今の俺からすれば、ただの黒歴史でしかない。

小百合は、数週間ぶりにバスに乗ってきた俺を、驚きと、どこか冷ややかな混ざった複雑な目で見つめていた。

周囲のヒソヒソ声に気まずさを感じつつも、俺は思い切って、彼女の隣の空いている席に歩み寄った。

「小百合、隣、いいか?」

「えっ……? あ、うん。どうぞ」

小百合は目を丸くした。いつもなら目を合わせようともせず、ぶっきらぼうに通り過ぎる俺が、名前を呼んで許可を取ってきたのだから無理もない。

窓ガラスに打ち付ける雨の音が、車内に静かに響く。

隣に座ると、シャンプーのようないい匂いが微かにした。40歳のおっさんの精神が、10歳の純情な肉体に引っ張られて、妙に顔が熱くなる。

「あのさ、小百合」

「なに?」

小百合は前を向いたまま、少し警戒するように答えた。

「今まで、班の連絡網とか、プリント配るのとか……小百合にばっかり面倒かけて、悪かったな。いつもサボって、迷惑かけた」

俺が真っ直ぐ前を見据えたままそう言うと、小百合がハッと息を呑んで、こちらを振り向いたのが気配で分かった。

「……本当に徹くん? 太陽が西から昇るんじゃない?」

少し棘のある、でもあどけない声。

「本物だよ。……ちょっと、頭が冷えたんだ。これからはちゃんと学校行くし、班の仕事もやるから。だから、その……今までごめん」

俺は小百合の目をしっかりと見て、小さく頭を下げた。

お袋への償いと同じだ。言葉だけじゃ信用されない。これからの行動で示すしかない。でも、まずはこの一言を伝えたかった。

小百合はしばらく固まっていたが、やがてふっと視線を落とし、膝の上の傘の持ち手を小さく弄んだ。

「……別に、怒ってないよ。ただ、徹くんが来ないと、プリントが余るから寂しいだけで」

「え?」

「なんでもない! ほら、もうすぐ学校着くから、ちゃんと傘の準備してよね」

小百合はぷいっと窓の方を向いてしまったが、その耳の端が、ほんのりと赤くなっているのが見えた。

この1996年の世界で、俺の失われた『誠実さ』を取り戻すリスタートは、確かに今、動き始めていた。

バスが揺れ、小学校前の停留所に到着した。

プシューと扉が開く。

「よし……行くか」

俺は黄色い傘を握り締め、小百合の少し後ろに続いて、懐かしい校舎へと一歩を踏み出した。

(第3話へ続く)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。