第2話:雨のバス停、動き出す歯車
「はぁ、はぁ, はぁ……っ!」
激しい雨が黄色い帽子を叩き、容赦なく視界を奪う。
坂道を駆け下りる俺の足は、驚くほど軽かった。工場勤務で慢性的な腰痛に悩まされていた40歳の体とは大違いだ。これが10歳の肉体か。
だけど、息が上がるのは一瞬だった。完全に運動不足のクソガキの心肺機能だ。
(クソ、やっぱり体はただのガキだな……!)
心臓が破れそうなほどバクバクと鳴る。
斜面にへばりつくようにして作られた住宅街。急な階段と、すれ違うのがやっとの細い坂道。
雨水が濁流となって足元をかすめていく。
遠くで、ブォォォンという重苦しいディーゼルエンジンの音が聞こえた。
路線バスの音だ。
(やべえ、逃したら1時間待ちだ……!)
俺は濡れたアスファルトを必死に蹴った。
40歳の記憶があるからこそ分かる。ここでバスを逃せば、お袋はまた仕事を休むか調整して、俺を車で送るか、あるいは「やっぱり体調が悪いのね」と悲痛な顔をする。それだけは絶対に避けたかった。
「待って、くれ……っ!」
角を曲がると、お馴染みの青と白の路線バスが、停留所に滑り込んでいくのが見えた。
プシューと小気味いい音を立てて折戸が開く。
「すんません! 待ち、待ってください!」
俺は叫びながら、最後の直線をごり押しで駆け抜けた。
ステップを駆け上がり、濡れた床に滑り込みそうになりながら、なんとか車内に滑り込む。
「おぅ、徹くん。今日は学校行くか。珍しいね」
運転席から声をかけてきたのは、見覚えのある白髪交じりの運転手、佐藤さんだった。
いつも不登校の俺を心配そうな、あるいは腫れ物に触るような目で見ていた地域の大人だ。
「……はい! おはようございます。ご迷惑をおかけしました!」
俺がランドセルを揺らしながら深く頭を下げると、佐藤さんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。いつもなら「うるせえな」と毒づくか、無視して一番後ろの席に引きこもるクソガキが、妙にハキハキと挨拶をしたのだから当然だ。
「あ、あぁ……。気をつけてな。ほら、早く座りなさい」
佐藤さんは嬉しそうに、少し照れくさそうに笑って、バスを発車させた。
車内には、同じ小学校の緑色の名札をつけた児童たちが数人座っていた。
みんな、俺の姿を見て一瞬ギョッとしたように静まり返る。
「あいつ、また仮病じゃねーの?」「今日、算数のテストあるから絶対すぐ保健室行くよ」そんなヒソヒソ話が聞こえてくる。
自業自得だ。今まで自分がどれだけ周囲の信頼を裏切り、我が儘に振る舞ってきたか。
胸がチクリと痛んだけど、俺は気にせず空いている席を探した。
そのとき、2人掛けのシートの片側に座っていた1人の女の子と目が合った。
(あ……。小百合、だ……)
心臓が、先ほどとは違う意味でドクンと跳ね上がった。
細いツインテールに、小さな傘を膝の上に綺麗に畳んで持っている。
クラスの学級委員長で、10歳の俺が密かに、あるいは猛烈に憧れていた、当時の『好きな子』だった。
当時の俺は、彼女に注目されたくて、わざとへそを曲げたり不登校を繰り返したりしていた。なんと幼稚で愚かなアプローチだったことか。40歳の記憶を持つ今の俺からすれば、ただの黒歴史でしかない。
小百合は、数週間ぶりにバスに乗ってきた俺を、驚きと、どこか冷ややかな混ざった複雑な目で見つめていた。
周囲のヒソヒソ声に気まずさを感じつつも、俺は思い切って、彼女の隣の空いている席に歩み寄った。
「小百合、隣、いいか?」
「えっ……? あ、うん。どうぞ」
小百合は目を丸くした。いつもなら目を合わせようともせず、ぶっきらぼうに通り過ぎる俺が、名前を呼んで許可を取ってきたのだから無理もない。
窓ガラスに打ち付ける雨の音が、車内に静かに響く。
隣に座ると、シャンプーのようないい匂いが微かにした。40歳のおっさんの精神が、10歳の純情な肉体に引っ張られて、妙に顔が熱くなる。
「あのさ、小百合」
「なに?」
小百合は前を向いたまま、少し警戒するように答えた。
「今まで、班の連絡網とか、プリント配るのとか……小百合にばっかり面倒かけて、悪かったな。いつもサボって、迷惑かけた」
俺が真っ直ぐ前を見据えたままそう言うと、小百合がハッと息を呑んで、こちらを振り向いたのが気配で分かった。
「……本当に徹くん? 太陽が西から昇るんじゃない?」
少し棘のある、でもあどけない声。
「本物だよ。……ちょっと、頭が冷えたんだ。これからはちゃんと学校行くし、班の仕事もやるから。だから、その……今までごめん」
俺は小百合の目をしっかりと見て、小さく頭を下げた。
お袋への償いと同じだ。言葉だけじゃ信用されない。これからの行動で示すしかない。でも、まずはこの一言を伝えたかった。
小百合はしばらく固まっていたが、やがてふっと視線を落とし、膝の上の傘の持ち手を小さく弄んだ。
「……別に、怒ってないよ。ただ、徹くんが来ないと、プリントが余るから寂しいだけで」
「え?」
「なんでもない! ほら、もうすぐ学校着くから、ちゃんと傘の準備してよね」
小百合はぷいっと窓の方を向いてしまったが、その耳の端が、ほんのりと赤くなっているのが見えた。
この1996年の世界で、俺の失われた『誠実さ』を取り戻すリスタートは、確かに今、動き始めていた。
バスが揺れ、小学校前の停留所に到着した。
プシューと扉が開く。
「よし……行くか」
俺は黄色い傘を握り締め、小百合の少し後ろに続いて、懐かしい校舎へと一歩を踏み出した。
(第3話へ続く)




