第16話:赤い傘の下の、小さな誓い
バタン! と激しく玄関のドアを閉め、小百合はそのまま背中を預けるようにして床にへたり込んだ。
「……し、しちゃった……っ」
両手で顔を覆うと、指の隙間から漏れる吐息が驚くほど熱い。心臓が胸の骨を突き破らんばかりにドクドクと暴れ狂い、頭のてっぺんまで血が上っていくのが分かった。自分の部屋へと駆け込み、ベッドに飛び込んで枕に顔をうずめる。バタバタと足を動かしても、体の奥から湧き上がる熱はちっとも冷めてくれなかった。
枕に顔をうずめたまま、小百合の頭の中は、先ほど別れたばかりの徹の顔でいっぱいになっていた。
(徹くん……どんな顔してたかな……)
頬に触れたのは、ほんの一瞬。でも、その直後の彼の表情が、スローモーションのように脳裏に焼き付いて離れない。
いつもなら、どんな真由美のからかいにも、自分の恥ずかしい背伸びにも、「やれやれ」と大人びた苦笑いを浮かべていた徹。クラスの他の男の子たちとは次元が違う、あの頼もしくて絶対的な「大人の余裕」が、あの瞬間にだけは、完全に消え去っていた。
目を見開いて、顔をこれ以上ないほど真っ赤にして、呆然と立ち尽くしていた少年の姿。
(……勝った。ううん、やっと、私と同じになってくれた……)
小百合は枕をぎゅっと抱きしめ、小さく唇を噛んだ。
振り返れば、あの激しい雨のバス停から、全てが変わってしまった。
それまでの徹は、ただの「口の減らない不登校のクソガキ」だった。学級委員長としてプリントを届けるたびに、屁理屈ばかりこねて自分を困らせる、正直に言って大嫌いな男の子だったのだ。
それが、あの雨の日の朝、バスの中で真っ直ぐに自分の目を見て「今まで迷惑をかけてごめん」と頭を下げてきた瞬間から、彼の周りの空気はガラリと変わった。
授業を真面目に受ける横顔。
算数を分かりやすく教えてくれる時の、低くて落ち着いた声。
そして何より、側溝で死にそうになっていた小春を、驚くほどの手際の良さと冷静さで救い上げたあの姿。
気づけば、クラスの男子がみんな子供っぽく見えてしまうくらい、徹の背中は大きく、そして遠くに見えるようになっていた。悔しかった。追いつきたくて、自分を「ただの同級生」じゃなくて「一人の女の子」として見てほしくて、香水をつけたり、髪型を変えたりして必死に背伸びをした。
それなのに、徹はいつも優しく笑って、一線を引いて自分を子供扱いするのだ。
まるで、ずっと遠い未来から自分たちを見下ろしているかのように。
『今は、学校をちゃんとやり直して、お袋を安心させたいんだ。余裕がなくて格好悪いところを見せちゃうかもしれないけど……小百合がこうして隣にいてくれるのは、本当に心強いし、すごく嬉しいんだよ』
ホームセンターで、私の手を優しく握りながらそう言った彼の言葉は、嘘偽りのない本物だった。突き放すのではない、大人の優しさと誠実さ。
でも、だからこそ、小百合の胸の中の「好き」という気持ちは、もう普通のやり方では抑えきれないほどに膨れ上がってしまっていた。
(仲間なんかで終わりたくない。一番の味方だけじゃ、物足りないよ……)
部屋の窓を開けると、ひんやりとした秋の夜風が、火照った頬を優しく撫でた。
遠くの坂道を見下ろしながら、小百合は自分の胸元をぎゅっと握りしめる。
明日は月曜日。また、あの路線バスで彼と顔を合わせる。
真由美には絶対に、絶対にまだ秘密だ。
「徹くんの分からず屋……。明日、どんな顔してバスに乗ってくるか、見てるからね」
夜の静寂の中に、少女の小さくて、最高に熱い決意が溶けていった。
10歳の小百合の心に灯った恋の炎は、タイムラインのすべてを書き換えながら、どこまでも強く燃え広がろうとしていた。
(第17話へ続く)




